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「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

 待降節=アドベントに入りました。救い主イエス・キリストの御降誕を感謝し、その時を祝い記念するクリスマスを前にして、備えをする期間です。同時に、再び世に来られる主イエス・キリストを待ち望む信仰の姿勢を整える時でもあります。救い主は既に世に来られて、人として地上を歩まれ、そして人々と接し、神の国の福音を宣べ伝えてくださいました。そして十字架にかかり、死なれましたけれども復活されました。その方がこの世に誕生されたこと、これは神の御子が人として生まれられたことなので、特別に降誕と言います。天から降りて来て生まれた、という意味です。私たちはこの世に人として生まれてくる前は、存在していませんでした。しかし神の御子であるイエス・キリストは、地上に人として生まれる前から天の父なる神のみもとにおられました。そして父なる神と一つの方として永遠に天地の造られる前から存在しておられたのです。私たちは、このような方の御降誕を感謝し、祝い、記念するために今、この待降節を過ごしています。そして同時に、再び来られるその方を待ち望んでもいるわけです。 1.主があなたと共におられる  25節までのところには、祭司ザカリアとその妻エリサベトの間に子供が生まれることを天使ガブリエルが告げに来た話が書かれていました。天使の予告通りにエリサベトは身ごもりました。今日の話はその半年後のことです。ナザレというガリラヤの町がありました。花という意味です。そこはガリラヤ湖の西20キロメートルほど、エルサレムからは直線で北へ100キロメートルほどのところにあります。ヨセフという人のいいなずけであるおとめマリアのところに天使ガブリエルが現れました。祭司ザカリアに現われた天使です。マリアとは、諸説ありますが「貴婦人」とか「神に愛された者」という意味があります。   天使はまず祝いの言葉を述べました。マリアは主に恵まれた方だ、と天使は言います。主がマリアと共におられるからです。そして神から恵みをいただいた、とも言います。恵み、とは辞書的な意味では利益、幸福をもたらすもの、と言えます。恵む、という動詞だと、情けをかける、憐れむ、かわいそうに思って金品を与える、という意味になります。大体そのような意味ですが、聖書では無償で与える、という点が強調されます。使徒パウロが特にそれを強調しています。代価を払って受け取るならそれ...

「神による救いの物語」 2023.11.26
?ルカによる福音書 1章1~25節

 今年は待降節(アドベント)の始まりが12月3日で来週からです。そういう時季になりました。今年はルカによる福音書の1章から順にクリスマスへ向けて、救い主の御降誕を感謝しつつ神の御言葉に耳を傾けて行きます。この福音書の冒頭には、原始教会で福音書が公に書かれるに至った経緯を示す最も古い証言が書かれています。 1.私たちの間で実現した事柄  私たちは今、この21世紀という現代世界に生きています。はるか2000年もの年月を超えて、この福音書は今もなお私たちの近くで、語りかけています。ルカは「わたしたちの間で実現した事柄」と言っていますが、その事柄こそが、今日生きている私たちをも真に生かすものなのです。それはイエス・キリストに関すること、イエス・キリストその方についての事柄です。ルカのように、多くの人たちがイエス・キリストに関する事柄を書き連ねようとしていたのでした。そいういう中で、今日、新約聖書の中に入れられて神の権威ある御言葉の内に数えられるようになったのは、このルカによる福音書、そして他のマタイ、マルコ、そして時代は後になりますがヨハネによる福音書でした。他の人たちのものでは、もしかすると未完成だったり、不十分だったりしたのかもしれません。ルカは初めから詳しく調べて順序正しく書きました。しかし何と言っても、神がこれら四つの作品を聖書、神の御言葉として読まれるように取り計らってくださり、今日の私たちにまで届けてくださいました。ルカが詳しく順序正しく書いているからという理由で人間が選定して、聖書にしようとしたのではなく、その内容に基づいて、教会の中で自ずから信頼するべきものとして読まれるようになり、そして神の息吹によって吹き出されたものとして教会がそれを認めるようになったのです。そういう一連の動きの中にも神の御手の導きがあって、今の私たちにこの物語が伝えられたのです。  ここでルカはそれ以上詳しくは語っていませんが、私たちの間で実現した事柄、とは、実現することが期待されていた、という意味もあります。これを実現したのは神であって、神の御計画があって、それがこの紀元1世紀という時代に実現したわけです。そしてもちろん、紀元1世紀というのは、御承知の通り救い主イエスの誕生を起点として数えています。ただし、古代のことですから、今の西暦紀元1年は、イエスの誕生よりも数年前だっ...

「あなたがたは力を受ける」2023.11.19
 使徒言行録 1章1~11節

 先日、ヨハネによる福音書の最後の所からお話をしました。ずっと続けてこの福音書から御言葉を聞いてきました。そのすぐ後に置かれている使徒言行録は、その続きというわけではありません。冒頭にありますが、この著者は先に第一巻を著した、とありますように、ルカが書いたものです。間にヨハネによる福音書が入っていますが、もともとはルカによる福音書に続けて書かれたので、流れからするとルカ福音書に続けて読むと分かり易いのです。  4つの福音書はイエスの復活について語りましたが、ルカはイエスの昇天まで書きました。つまりキリスト教会は、主イエスを肉眼で見ることのできない時代に入ってきたわけで、新しい時代になったと言えます。旧約、新約、という意味では、すでに新約の時代になっていますからそのくくりでは同じ時代ですが、主イエスが天に昇られて、そして教会に聖霊が降り、それによって地上の教会が世界宣教に向かって歩み出すという新しい局面を迎えたのです。今日は、そのことを覚えつつ、この使徒言行録の冒頭に記されている御言葉に聞きたいと思います。 1.イエスのなさったすべてのことを記した  著者のルカは、テオフィロという人に福音書を書き送りました。この人の名前は「神を愛する者」という意味があります。ルカはその福音書を「献呈する」とも言っていますので、ある身分の高い人であると思われます。ルカは、先に記した福音書で、「イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」と言っています。すべてのこと、とありますが、ヨハネによる福音書の最後の所では、イエスのなさったことの一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう、と書いて締めくくっていました。ルカが使徒言行録で言っているのは、ヨハネが書いたような意味ではなくて、イエスのなさったあらゆることの内、例えば、その誕生とその時に起こったこと、イエスがなさった様々な御業と、あちらこちらで語られた御言葉、そして十字架で苦難を受けられたこと、死んで復活されたこと、そして天に昇られたこと、そういった一連の事柄の内、イエスというお方がどんな方であるかということについて、欠かしてはならないことをすべて書き記したということです。当然ヨハネの言うような意味ではないわけ...

「私たちは主に立ち帰ろう」 2023.11.12
哀歌 3章34~66節

 旧約聖書の哀歌から、神の御言葉に聞きます。前回、2020年の1月に、この第3章の前半を取り上げてお話をしました。今回は、単純に残りの後半部分を取り上げました。この第3章は見出しにあるとおり、アルファベットによる詩です。新共同訳では3節ずつ1行空ける形になっていますがヘブライ語の聖書でもそうなっています。各節の冒頭の文字がヘブライ語アルファベットの順です。1から3節までは冒頭の文字が3つとも英語で言うとAになっているというわけです。技巧的な作りになっていますが、技巧を用いながらも、エルサレムの悲惨な状況を描き出し、神の御業と人間の罪の実態、そして神がその人間にどのように相対してくださるのかを描き出しているものです。 1.主は見過ごしにはされない  33節までで、主の慈しみは深く、懲らしめても憐れんでくださる、と作者は述べていました。主が人を苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない、と。その後で今日の箇所が始まるのですが、この34節から39節には、人間とこの世について神がどのようにご覧になっているかという実に深い理解が示されています。この短い箇所に聖書が示す世界観が凝縮されているとっても良いくらいです。  34節では話題を切り替えて、エルサレムに敵が攻め込んできて征服し、人々を蹂躙し、捕えて自国へ捕囚として引き連れていく、という状況を目にして述べています。他国に入り込んで人々を足の下に踏みにじったり、他人の権利を奪ったり、申し立てを曲解して裁いたりする。こういったことは、この旧約聖書の時代から今日に至るまで世界のあちらこちらで行われてきたことです。私たちの日本も同じです。しかしここで、主は決してそれを見過ごしにはされない、とあります。果たして現実にはどうでしょうか。ここに書かれているのは、神の民とされてきたイスラエル、さらに細かく言うとイスラエルが南北に分かれた後の南ユダ王国、その都であるエルサレムが舞台となっています。エルサレムが悲惨な状態になっているのは、バビロン帝国が侵略してきたからでした。では、主はそのようなことを見過ごしにはされずに、ただちにそれに対して対抗処置をなさるのでしょうか。この場合、バビロンが攻め込んできたのは、イスラエルの罪に対する裁きという意味があったのでした。  一般の世界史の中では、大帝国が勢力拡大のために、他国へ侵略...

「神の栄光を現すようになる」 2023.10.29
ヨハネによる福音書 21章15~19節

 主イエスは復活された後、弟子たちに姿を現され、3度目にはガリラヤ湖で御自身を現し、弟子たちと共に食事をされました。その後で主イエスが弟子のペトロに言われたのが今日の朗読箇所の初めに言われていたことでした。ここには、主イエスを信じる者は、どのような歩みをするのか、ということについて大事な教えが示されています。 1.わたしを愛しているか  主イエスは、ペトロに対して「この人たち以上にわたしを愛しているか」と聞かれました。これは、他の弟子たちが主イエスを愛している、その愛以上に愛しているか、という問いです。しかし、そのような比較は実際できるのでしょうか。けれども主イエスがあえてそう聞かれたのは、ペトロに自分の気持ちを明確に述べさせるためだったのだと思います。例えば、自分の家族、配偶者のことを考えてみたらどうでしょう。自分の家族について、誰か他の人も愛しているでしょうが、その人たちが愛するにまさって自分は自分の家族を愛している、とはっきり言えなかったらどうでしょうか。もしそうだったら、家族はがっかりするでしょう。なんだ、自分のことを外の誰よりも愛しているのではなかったのか、と。主イエスと弟子たちの場合、確かにペトロの他の弟子たちも、主イエスに対する関係は同等のものです。ペトロだけが特別な関係にあるというわけではありません。しかしイエスはあえて聞かれるのです。それはやはり、ペトロが、かつてイエスが捕らえられた時に、弟子の一人ではないかと問われて、それを否定してしまったことに原因があります(18章17、25、27節)。  ペトロが、他の弟子たちはともかく、とにかく主イエスを愛しているかと問われたのでした。ペトロは自分が主を愛していることは、あなた御自身がよくご存じである、と言います。しかし主イエスはそれを三回も聞かれます。ペトロは3回目には悲しくなったのでした。ペトロ自身も自分が3回、主イエスを知らない、一緒にいた者ではない、と否定したことを忘れるはずもなく、自分のしたことへの恥ずかしさ、情けなさを重々味わってきたことでしょうから、そういう思いが沸いて来て、しかも主イエスがそれと同じ3回も聞いて来られたので、悲しくなったのでしょう。  主イエスは、ペトロが3回否定したことをあえて思い出させて、それに合わせて3回聞かれたのですが、それはやはりペトロのためでした。ペト...

「神の言葉が心に記される」 2023.10.15
エレミヤ書 31章31~40節

 私たちには旧約聖書と新約聖書が与えられています。この2つは、初めて聖書を手にした人にとっては、何の違いがあるのか分からないと思います。しかし段々と教会で聖書の話を聞いて行く内に、イエス・キリストを中心として、イエスの誕生前は旧約、イエスがお生まれになってからは新約、という大変大雑把な区別を知ったかもしれません。そういう中で、このエレミヤ書では主がイスラエルとユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と言われています。この箇所は、旧約聖書中でも非常に重要な箇所です。新しい契約、とは、新約聖書の新約、つまり新しい契約です。ここでは、その契約を結ぶ日が来る、と言われており、来るべき日に主がイスラエルの家と結ぶ契約である、と言われています。この新しい契約とは、どういうもので、今日の私たちにとって、一体どういう意味があるのでしょうか。 1.新しい契約  ここで主は、新しい契約をイスラエルと結ぶ、と言っておられますが、新しいものがあるなら当然、古い契約もあるわけです。新しい契約は新約、古い契約は旧約です。古いものと新しいもの、何が違うのか、ということですが、契約というと、この世では通常、当事者同士が一定の条件のもとで結ぶ約束で、それは両者がそれぞれの立場で納得して結びます。神とイスラエルの間にも、契約が結ばれました。この世の契約は、普通は双方がある条件のもとで約束を交わします。雇う側は一定金額を支払う約束をしますが、雇われた側はそれに見合う働きをして成果を上げねばなりません。雇われる側は、その条件が気に入らなければ、契約を結びません。人間同士ではそうですが、神とイスラエルの場合は違います。イスラエル、つまり人間の側は、神が結ぼうとされる契約は嫌だから、その条件では契約しないという選択肢はありませんでした。神が一方的に結ぶ契約で、人間には、それを拒む選択肢はなかったのです。  契約とは、その当時者同士の関係を映し出しています。神とイスラエルの間では、神が主導権を握っています。そして神が与える条件のもとで、人がそれを守るかどうかが問題でした。 2.神の民の心に主なる神の律法が記される  神とイスラエルの場合、どうでしょうか。主なる神は、十戒を代表とする律法を与えてこれを守るようにお命じになりました。戒めを守れば祝福、破れば呪い、という厳しいものです。実は人間は神の前に...

「主だとわかっていた」 2023.10.8
ヨハネによる福音書 21章1~14節

 主イエス・キリストは、死から復活され、その日曜日の夕方、そして8日後にもまた弟子たちに御自身を現されました。特に最初に主イエスが弟子たちに姿を現された時に居合わせていなかったトマスの疑いに対して、主イエスが寛大にトマスを受け入れてくださったお話が20章に記されていました。そしてヨハネは、この書物を書いた目的を記しており、いかにもこれでこの話はおしまいであるかのように見えます。実際21章以下は別の人が後から付け加えたという説もあります。何となく読んで受ける感じも多少違うような面もありますが、定かなことはわかりません。しかし、私たちは、今こうして完結している21章までをヨハネによる福音書として受け入れており、それを主なる神が聖書として私たちに読めるように残し与えてくださっているので、何も心配することなく、神の御言葉として聞くことができます。ここには、復活された主イエスと弟子たちとのその後の話が、何とものどかな雰囲気の中で示されており、しかもその中に、今日の私たちもよく覚えるべきことが込められている、そういうお話です。 1.漁に出かける弟子たち  主イエスがトマスにも御自身を現してくださってから後、主イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現してくださいました。ティベリアス湖と言うのは、ガリラヤ湖のことです。この出来事の10年ほど前に、ヘロデ・アンティパスがこの湖のほとりに町を建て、ローマ皇帝ティベリウスの名前に因んで名前を付けたので、この湖もそういう名で呼ばれるようになっていました。  ペトロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たちつまりヤコブとヨハネ、そして他の二人の弟子たちがいました。元々漁師であったペトロが、自分は漁に行くと言ったので、他の弟子たちも一緒になって舟に乗り込みます。夜通し舟の上にいたということは、元々漁師であるだけあって、かなり本格的に漁に臨んでいたのでしょう。この頃、復活した主イエスは、それまでのようにいつも弟子たちと行動を共にしていたわけではありませんでした。14節にある通り、復活後に現われたのは3度目ですから、弟子たちは今までのようにいつでも主イエスの傍にいて何でも聞いたり、その御業を見たりすることはできませんでした。ペトロのこの時に心境は分かりませんが、自分たちに必要な食糧を得る、という単純な理由もあったでしょう。しかし彼...

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節

 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得る。今日は、この力強い御言葉を与えられました。今年も敬老の日に因んで、それを踏まえながらお話ししますが、御言葉は老齢を過ごしておられる兄弟姉妹たちだけではなく、すべての人が聞くべきものです。自分がどのような世代に属していようが、今、この時に神の御言葉が与えられ、そしてそれを聞けるのは幸いなことです。年齢を考えれば、若者も倦み、疲れますが、高齢の方々はどうでしょうか。倦む、という言葉を手元の国語辞典で引きましたら「同じことなどを長く続けて嫌になる。退屈する。また、飽きて疲れる」とありました(小学館:現代国語例解辞典)。特に高齢の方は、人生の何十年という歩みの中で、同じことを長く続けて来られたかもしれません。もちろん同じ、と言っても全く同じことはないわけですが、やはり同じことの繰り返しは人を疲れさせるのは確かです。だから人はいろいろと何かしら新しさを取り入れ、気分を変えて変化を求め、目新しいものに目を奪われるのでしょう。しかしそういうやり方では際限がありません。ここで言われる通り、私たちは主に望みをおくことによって本当に新しい、神からの力を得られるのです。 1.神の創造の御業の前で  主なる神は手のひらにすくって海を量るとか、手の幅をもって天を測る、と言われます。この時代の天文学の知識に比べたら,今日の私たちにははるかにまさる科学的知識があります。この時代の人々にとっては、空に輝く天体の内、最大のものは太陽でしたから、太陽の何百倍もの直径を持つ巨大な星が宇宙にはある、ということを知ったらそれこそ仰天するでしょう。私自身、それを知った時には宇宙の途方もない大きさに驚いたものです。そもそも、果てがない、と言われてもそれを実感することはできません。天地の主なる神は、地球規模の、或いはせいぜい太陽系程度の範囲で天地の主であるのではなくて、今日の宇宙観においても、同じように天地の主であることを私たちは信じています。それを考えると実に人間など小さなものです。地上の国々など革袋からこぼれる一滴のしずくであり、天秤の上の塵にすぎません(一五節)。そこに住む者は虫けらに等しいとまで言われます(22節)。しかしここの翻訳は、他は大抵イナゴ、或いはバッタ、と訳されます。その方が良いと思われます。虫けら、という...

「罪を負った主のしもべ」 2023.9.10
イザヤ 52章13節~53章12節

 旧約聖書中の書物の中で、イザヤ書は特に重要なものです。創世記以下の5冊、サムエル記、詩編など、特に重要な書物がいくつかあります。もちろんすべてが神の権威ある御言葉ですが、その重要度には差があります。もしもイザヤ書がなかったら、キリスト教会がイエス・キリストを神の御子、救い主として信じ宣べ伝える力がもっと弱かったでしょう。しかしそれは杞憂で、聖書を与えてくださった神は、今ある66巻の聖書全体によって、ご自身の御心を伝えてくださいました。今日はそのイザヤ書の中でも特に重要な、苦難のしもべの歌です。 1.主のしもべの歌  イザヤ書の中には、主のしもべの歌、と呼ばれるものが4つあります。第1は42章1~4節、第2は49章1~6節、第3は50章4~9節、そして今日の箇所が第4のしもべの歌です。このしもべが誰なのかは、それぞれのしもべの歌によって多少違いがあります。同じ人物を示しているとは限りませんが、第一の歌である42章のしもべは、主の霊により、諸国への裁きが告げられます。第2の歌は、しもべがイスラエルとも呼ばれているので、共同体としてのイスラエルのことかもしれませんが、個人という面も見られます。そして諸国の光となる、と歌われます。第3の歌では、誰か個人としてのしもべが辱めを受ける面が示されます。第2と第3の歌は、しもべ自身の独白です。  それらの中で、この第4の歌は、特にしもべの非常に大きな苦難が示されます。それは小さなものではなく、またしもべ個人だけに関わるものではありません。多くの人々の罪に関わるものであり、その罪と、僕の苦しみとが深い 関わりを持っています。52章13節以下、神が「わたしのしもべ」と語られます。最初に、しもべが栄え、高く上げられあがめられると告げ知らされます。ところがそのすぐ後で、しもべは大変な苦しみを受けることが分かります。その姿は損なわれて人とは見えず、肉体的に非常に痛めつけられます。そしてそのことが人々を、そして王たちを驚かせることになります。それはだれも今まで聞いたことのなかったような物語として示されるからでした。 2.私たちの罪をすべて負った  その内容が53章から語られます。ここで言われていることは、諸国の王たちを驚かせます。そして注意すべきことは、この文体は日本語でもわかるように過去形と未来形です。このような詩文の形で...

「わたしは主を見ました」 2023.9.3
ヨハネによる福音書 20章11~18節

 私たちにはいろいろな感覚、いわゆる五感というものが与えられています。もちろん健康上のいろいろな事情でそれが十分でない状態に置かれている人もありますし、生まれながらそれを備えておられない方もいます。それでも私たちは何らかの手段によって、目には見えない神を見ることができます。それは信仰によってです。今日は、はっきりと目の前で復活された主イエス・キリストを見た、ひとりの女性の言葉を私たちは聞いています。彼女は主イエスの弟子たちにそれを告げましたが、その証言は、弟子たちだけではなく、今日に至るまで世界中の人々に向けて語り続けられている証しなのです。 1.復活したイエスを見分けられないマリア  イエスの墓の前から、ペトロとヨハネの二人の弟子たちは家に帰って行きました。二人は、イエスは必ず復活されることになっているという聖書の言葉をまだ理解してはいなかったのですが、それでもとにかくイエスの遺体はもはや墓にはない、ということは認めて墓を後にしたのでした。しかしマグダラのマリアは、墓の前に残って泣いていました。そして墓の中を見ると、そこに二人の天使がいました。ペトロたちがいた時にはいなかったのですから、天使たちはいきなり現れたということで、ただの人ではないことが示されます。彼らが語ったことは、マタイによる福音書などに詳しく書かれているので、ヨハネは既に知られていることとして、あえてそれを書かなかったのでしょう。  天使たちの問いかけに対して、マリアは先に2節で書かれていたこととほぼ同じ言葉で答えます。わたしの主が取り去られたこと、どこに置かれているのか自分にはわからないことです。どこに置かれているのか、という言葉から、マリアはまだ主イエスが死んだ方で、あるはずの遺体が見当たらない、という点に捉われていたのだとわかります。  しかし振り向くと、そこには死んだはずの主イエスがおられました。ただし、マリアにはまだイエスだとは分かりません。イエスの顔を近くで見ていたはずのマリアでしたが、死んだ方だという固定観念があるので、見分けられなかったのでしょう。それは、ルカ福音書に書かれている二人の弟子たちが、復活したイエスと道を共にしても気がつかず、ルカはそれを「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(24章16節)と記しているのと同じことがマリアにも起こっていたと言え...

「聖書の言葉を理解する」2023.8.27
 ヨハネによる福音書 20章1~10節

 私たちは今、日本語の聖書を目の前にしています。日本語を理解できる人なら、その内容を言葉として受け取ることはできます。しかし、初めて教会に来て聖書を手にした人が、そこで朗読された言葉の意味を正しく悟る、ということは難しいことです。今日は、私たちがこの聖書の言葉を理解する、とはどういう意味かを教えられています。そしてここで語られていることは、キリスト教信仰の最も大事なことに関わりますし、聖書全体の中でも非常に大切なことです。それをどう理解するか。これはその人のその後の信仰の歩みを左右するほどの、とても大事な問題です。 1.書かれている言葉を単純に理解する  それはつまり、私たちの信仰と生活は、神の言葉である聖書をどう理解するかにかかっているからです。主イエスをどういうお方として信じているか、そしてどのように生活しているかも、すべて聖書をどのように理解しているかによっています。ただし、大事な点は、私たちが聖書の内容を、聖書本来の目的に沿って理解しているか、です。自分流に勝手に理解しているのでは、本当の意味で理解しているとは言えません。だからこそ皆さんも教会に来て聖書の言葉を聞いておられるわけですが、それは教会には牧師がいて、聖書の話を正しく語ってくれているだろうという一般的な信頼感があるからかも知れません。改革派教会に属している方であれば、大抵は他の教会の牧師や説教者の説教を聞く機会があります。そうすると、人によって語り方などはいろいろ違うけれども、みな聖書から語っていることは分かると思います。そして教理問答書などで、歴史的にも教会の中で信じられてきた内容だな、ということ、その教会の牧師の独りよがりで、勝手な解釈のもとに語っているのではないと分かってくると思います。  さて、では今日の箇所に目を向けましょう。今お話ししたような根本的に、信仰生活を左右するようなことの前に、もう少し基本的なお話をします。語られている聖書の箇所の背景などをまず理解することです。今日の日本語聖書の読者である私たちからすると、読まれた箇所にもよりますが、たとえば、今日の箇所、20章1節にはマグダラのマリアという人がいて、朝早く暗いうちに墓に行き、墓から石が取りのけてあるのを見た、という出来事が書かれています。それは週の初めの日でした。では、週の初めの日とは何曜日でしょうか。  週の初...

「神の道を歩む」 2023.8.20
使徒言行録 18章24~28節

 今日の箇所には「主の道」「神の道」という言葉が出てきます。どちらも同じことです。主イエス・キリストを信じて信仰の道を歩み出した人はクリスチャンと呼ばれます。その人は主の道を歩き出したのです。主イエスは「わたしは道である」と言われました。イエスを主と信じ、共に歩む、そしてイエスという道を歩む。それが主の道を受け入れることであり、神の道に生きることです。ですから、神の道と言った時、それは主キリストを信じる信仰をいただいた者が言う神の道です。聖書において、主キリストと切り離された形で神を語ることはありません。さて、皆さんは今、何の道を歩いているでしょうか。主イエスを信じている人は、今は主の道を歩いていると言うでしょう。では信じる前は何の道を歩いていたのでしょうか。 1.主の道を受け入れる  今日の朗読箇所は、初代教会が主イエス・キリストについての福音宣教を始めた紀元1世紀の話です。使徒言行録の後半はほぼ使徒パウロの活動を記しています。彼はユダヤ人でキリスト教の迫害者であり、旧約聖書律法の専門家でした。そのパウロのアテネやコリントでの宣教活動についての話が続く間に挟まる形で記された出来事です。パウロはコリントで宣教した時、アキラとプリスキラという夫婦に出会いました。彼らは同じ職業だったので、パウロはこの夫婦の家に住み込んで働き、そして安息日ごとにユダヤ人の会堂で論じていたのでした(18章1~4節)。  今日の箇所は、パウロが二人のもとを離れてアンティオキアに戻った後の話です。プリスキラとアキラのいるエフェソにアポロという雄弁家がやって来ました。彼はアレクサンドリア生まれのユダヤ人で聖書に詳しく、イエスについて熱心に語っていました。しかし、ヨハネの洗礼しか知りませんでした。洗礼者ヨハネが教えていたことは、自分の罪を悔い改めて正しい行いをし、そして来たるべきメシア=救い主キリストに対する備えをせよ、というものでした。ヨハネが活動していた期間は、主イエスの初期の活動と重なります。アポロが、ヨハネの洗礼しか知らなかったというのは、イエスこそヨハネが告げたメシアであることを知ってはいましたが、そのイエスがその後捕えられて十字架につけられ、死んで葬られ、そして三日目に復活されたこと、更に天に昇られたこと、そしてその後、ペンテコステに聖霊が教会に降られたこと、そして教会が福音...

「命の水を汲むところ」2023.8.13
 雅歌 4章9節~5章1節

 旧約聖書には、多くの書物がありますが、その内、この雅歌とエステル記には「神」という言葉がでてきません。それでも、エステル記には背後に神の見えない御手の導きがあることをうかがわせる出来事があり、信仰を持つ読者が読むと、そこには神の導きがあるということがわかるのです。しかしこの雅歌の場合、エステル記とは違って、神の摂理的な御手の導きを特に読み取れるというわけでもなく、もっぱら男女の愛とその行方について述べていると言えます。それで、この雅歌をどのように解釈し、理解したらよいのか、ということが議論されてきました。細かいことはここでは、述べませんが、男女の愛を歌っている、という文字通りの意味に理解してお話をします。そして、この雅歌において神が何を私たちにお語りになっているのであろうか、ということを共に学びたいと願っています。 1.雅歌が聖書の中にある事実  雅歌に神の御名が書かれていないと言っても、この書物はユダヤ人の中で、神の言葉として、聖書として受け入れられてずっと読まれてきました。キリスト教会においても、神の言葉として受け入れられ、読まれてきました。また主イエス御自身が、律法と預言者と詩編という旧約聖書全体を示す言葉を用いて、創世記からマラキ書までを当たり前のように聖書として受け入れておられたのでした。もっとも、主イエスはヘブライ語の聖書に基づいて語っておられ、その順番では、創世記から始まって歴代誌で終わります。キリスト教会は、ギリシャ語に訳された旧約聖書の順番に倣って配列しているのです。いずれにしても、私たちにとって、この雅歌は神の御言葉として私たちに伝えられているものであって、私たちもまた、ここに神の御心が示されている書物として読み、聞き、学び、信じるのです。 2.愛するものよ、愛に酔え  今日の朗読箇所は、登場人物の若者が愛する恋人を花嫁と呼んでいます。二人は結婚することになる男女です。「妹よ」と呼んでいますが、文字通りの妹ではなく、同じ一族に属する親族か、或いは友情を示すものだと思われます。  雅歌の言葉は、若い愛し合う男女が相手の美しさをいろいろに描写し、言葉を尽して褒めそやしていますので、読んでいるとなんだか気恥しくなると思う人もいるかもしれません。また、何十年も結婚生活を送って来られた人にとっては、この雅歌で描かれているような男女の様子...

「その証しは真実である」 2023.8.6
ヨハネによる福音書 19章28~42節

 信仰とは、目に見えない神を信じることです。それは、過去に神がなさったことについて信じることであり、またこれから先、神が言われたことが起こる、と信じることです。それだけではなく、神が言われたことが自分の身に起こる、と信じることです。例えば、ある人がイエス・キリストを信じたとします。その人が信じている、という事実は、だれも変えることができません。その人の家族は、自分は信じていなくても、その人がクリスチャンだと認めるしかありません。それは信仰でも何でもなく、目の前にある事実を認めるだけです。しかし、その人の中に神の聖霊が働いて、信仰を起こし、信仰告白へと導かれたのだ、と周りのクリスチャンが認めるのは、これは信仰です。神のお働きが確かにその人の内にあって、心を動かし、イエス・キリストを目撃していないのに信じている、と受け止めるのは周りの人の信仰です。ではどうしてそのように受け止めるのか、と言えば、それはその人が信じるようになったということについて、私たちに対するいくつもの証言があるからです。この証言によって私たちの信仰は成り立っています。今日は、この朗読箇所から、このことを教えられているのです。 1.十字架上のイエスについての証言  十字架につけられたイエスについて、ヨハネは旧約聖書の預言を引きながら語って行きます。十字架の上から弟子のヨハネ(ヨハネによる福音書の記者)に自分の母親のマリアをゆだねた後、イエスはすべての事が成し遂げられたのを知ったのでした。「渇く」とは、詩編69編22節によります。「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」という一節です。詩編の言葉がイエスおいて実現したのでした。全てのことが成し遂げられた、とは、罪のない神の御子が十字架にかかることにより、多くの罪人の罪が償われ、罪の赦しが与えられるために必要なことが実現に至ったからです。この後、イエスは人々が差し出した酸いぶどう酒を受け、そして「成し遂げられた」と言って息を引き取られました。息を引き取られた、という言い方は私たちも普通に使いますが、これは霊を引き渡すという表現です。人の霊は神から与えられたものであり、それは、この世を去る時に与えてくださった神に引き渡すものである、ということを教えています。私たちは死んでこの世を去る時に、自分のこの後がどうなるのか...

「イエスを十字架につけた」 2023.7.30
ヨハネによる福音書 19章16b~27節

 私たちは先ほど、使徒信条を一緒に唱えました。その中に「主は、~ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」という一節があります。教会に来始めてから、いったい何度、イエス・キリストと十字架という言葉を聞いたことでしょうか。何十年と教会生活を送っておられる方は、礼拝の度に聞いて来られて、何千回と耳にして来られたのではないでしょうか。それ程に、私たちにとって「イエスと十字架」、この二つの言葉は切り離せず、また、これを抜きにして教会は存在しませんし、私たちの救いもあり得ません。今日は、皆さんが何十回、何百回、何千回と聞いて来られた「イエスと十字架」について、しかもイエスが十字架につけられた、というその場面を12弟子のヨハネが記しているところです。ここには、イエスを十字架につけた、或いはつけてから、という言葉が3回出てきます。何度も聞いてきたことの言葉を、今日また改めて聞きましょう。 1.彼らはイエスを十字架につけた  ローマ総督ピラトは、イエスに罪を見いだせない、と言ったものの、ユダヤ人たちの勢いに圧倒され、そしてイエスを釈放するならあなたはローマ皇帝の友ではない、という脅しの言葉をかけられて、ピラトは仕方なくイエスをユダヤ人たちに引き渡したのでした。イエスは自ら十字架を背負い、ゴルゴタと呼ばれる処刑場へと向かわれました。十字架の横木を担いだのだろうと言われています。それだけでも、人が架けられるわけですから相当しっかりしたものでしたでしょうから、何十キロかはあったでしょう。鞭打たれて体力を消耗しておられた主イエスにとっては大変なことだったと思われます。他の福音書が記しているように、キレネ人シモンが途中からイエスの代わりに十字架を背負ったことをヨハネは書きません。もはやそのことは周知の事実だったということもあるでしょう。そして4つの福音書に共通することですが、皆イエスの苦しみをことさらに描き出そうとはしていないように見えます。淡々と、十字架につけられた、という客観的な出来事を記すのです。福音書記者たちは自分とイエスとの関係がそれぞれにありますが、自分がどう感じたのか、ということは書きません。  処刑される人を十字架につけるためには、十字架として立てる木材をまず横に倒し、処刑される人の体をその上に寝かし、縛り付け、そして釘を打ち、そしてそれを立ち上げる、...

「神は救うことができる」 2023.7.23
マタイによる福音書 19章16~30節

 人の命とは一体何なのだろうか。この問いは、大昔から人が考えて来たことでしょう。それを考えるということが、人間を外の動物たちから区別している点だ、ということもできると思います。今日は、一人の青年が主イエスのもとにやって来て質問をしたお話ですが、ここには、聖書の教えの本当に重要な点が教えられています。 1.金持ちの青年の質問  ここに登場する青年は、ただ命について、というだけではなくて、永遠の命について主イエスに質問しました。命についてだけではなく、永遠の命について答えられる人などいるでしょうか。いないはずです。なぜなら、人はみな、自分で命を造り出せませんし、命を生み出す力がないことを知っているからです。しかしこの青年は、近頃のイエスのうわさを聞いていたでしょうし、この方ならきっと他の人とは違う何か素晴らしい示唆を与えてくれると思ったのではないでしょうか。この青年は金持ちであったとありますから、生活には不自由せず、裕福に自由に暮らしていたのでしょう。そして、ユダヤ人として、神の律法を学んできたので、神が教えておられることもそれなりに分かっていたはずです。しかし彼は何か足りないと感じていたのでした。神を信じて生きてきたが、それで自分は永遠の命を得られるのだろうか、今のままで良いのだろうか、もっと何かをしなければいけないのではないか、と。  そもそも、永遠の命、永遠の救い、については、旧約聖書では例えばイザヤ書45章17節、「イスラエルは主によって救われる。それはとこしえに続く救い」という言葉があります。永遠の命につながる言葉です。もっとはっきりしているのは、ダニエル書12章2節にある、「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」という言葉です。ちなみにここでの永遠と永久は同じ言葉です。このような預言の言葉がありますから、聖書の言葉を信じる人たちが永遠の生命に入りたいと願うのは、当然と言えるでしょう。入れない者の恥と憎悪について書かれていればなおさらです。 旧約聖書に収められていない外典(新共同訳では続編)には、殉教しようとしているユダヤ人のことが記されており、拷問をしている相手に「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へと...

「創造主に心を留めよ」 2023.7.16
コヘレト 12章1~14節

 青春の日々がとても貴重なものであるということに気がつくのは、かなり後になってからかもしれません。しかし、人によっては年を取ってからの方が、色々なことがわかってきて、人間としては充実していると思うこともあるかもしれません。いずれにしても青春の日々、若い時に創造主を覚えよ、というこの御言葉は、コヘレトの言葉の中ではしばしば語られる、覚えやすい教えです。何かと取り上げられる言葉です。今日は、このコヘレトの言葉の最後の章に目を留め、この一風変わった書物が教えていることを聞きましょう。 1.青春の日々は空しい  作者は、コヘレトと呼ばれる人ですが、それは名前ではなくて、集会で教える人というような意味があり、務めについての名称です。コヘレトは11章の終わりの所で書いています。青年時代を楽しく過ごせ、しかし若さも青春も空しい、と。若さも青春も空しい、と言いますが若い時代とか青春時代が無駄であるとか、その年代を過ごしても意味がないとか言うことではないと思います。ただ、あっという間に過ぎ去る、ということを強調しているのです。  特に健康状態に問題がなければ、自分の将来はまだずっと先があるかのように思います。もちろん、今日のように医学など種々の科学が発展していない時代では、命に関する不安の度合いは違うかもしれません。しかし、11章9節にあるように、若者は若さを喜べるもの、楽しく過ごせるもの、という一般的な感覚はあるわけです。しかしその楽しい時代もすぐに過ぎ去るのだ、と。だからその若い時代にこそ、心に留めるべきことがあるのだ、と既に青春時代を通り過ぎた作者は言うのです。 2.苦しみの日々を迎える前に  それを知っているからこそ、作者は勧めます。青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。そのこと自体を見る前に、1節で言われている「苦しみの日々」について見ておきます。次の言葉からわかるように苦しみの日々とは年を重ねることによって来るものです。ここでは、一般的な意味において年を取ることが、人間にとっては嬉しくないこと、喜ばしくないことという面を描き出しています。考え方によっては、年齢を重ねることで見えてくる人生の機微とか、若い時には分からなかったことが見えてくるとか、経験が増えてくることで物事に対処しやすくなったとか、少々のことでは動じなくなったとか、年を取ることで身につ...

「神から来たのでなければ」 2023.5.9
ヨハネによる福音書 19章8~16節a

 私たちは、今こうしてこの教会の会堂に集まり、神を礼拝しています。それは救い主イエス・キリストの御名のもとに、キリスト教会という名を与えられてここで礼拝をしています。それは、ひとえに、主イエス・キリストというお方が、神から来た方だから、ということが根拠です。そうでなかったら、私たちはこの猛暑の日に、或いは大雨の日に、或いは台風が来ている時に、なんだってわざわざ礼拝などするものでしょうか。しかし、私たちがこの世でキリストの御名のも徒に集まって礼拝をしているとしたら、主キリストが神から来られた方であり、この世に対して神からの権威を持つ方であるからです。そのことを今日、私たちは新たに教えられています。 1.お前はどこから来たのか  ピラトは、ユダヤ人たちに対して、「この男には何の罪も見いだせない」と3回も言っていました。しかし訴え出ていたユダヤ人たちの強い主張に押されてしまいます。ユダヤの律法によれば、イエスは自分を神の子と自称していたから死罪に当ると。ユダヤ人の律法によれば確かに神の御名を呪う者は死刑に処せられます(レビ記24章16節)。自分は神の子だ、と言うことは、それを言ったのがただの人間であるとしたら、自分を神のもとに迄引き上げて高ぶることであり、唯一の神の御名を貶めることになるからです。しかしイエスは本当に神の御子です。そうであるにも拘らず、それで押し切ろうとした圧力にピラトは負けて、ユダヤ人が妬みのゆえにイエスを処刑したかったのを受け入れて引き渡してしまいます。罪なき方が訴えられ、罪は見いだせないと裁判官が言ったにも拘らず有罪とされ、十字架につけられることになるのでした。  ピラトはユダヤ人たちの言葉を聞いて恐れたのでした。自分はいったいどういう人物の裁判に当っているのだろうか、ということで恐れたわけです。ということは、ピラトは、自分はローマの総督としてユダヤの地に立てられ、裁判官の務めも果たしているけれども、ユダヤの宗教に関して、ある人物が神の子なのか違うのか、というような裁判については関わりたくないと考えたのでしょう。つまりこの世の政治的なことに関しては裁くつもりはあるが、ユダヤの宗教に関することの裁判官にはなりたくない、それは自分の務めではない、と思っていたからです。それは地方総督であったガリオンという人の言葉にも表れています(使徒言行録18章...

「イエスに罪を見いだせない」 2023.7.2
ヨハネによる福音書 18章38節b~19章7節

 先ほど朗読していただいたこの箇所では、いかにもおかしなことが起こっています。罪なき方が裁判にかけられて、死刑判決を受けようとしています。7節まででは、まだ死刑判決を受けてはいませんが、訴えている人たちは、このイエスを何とか死刑にしたいと思っています。それを裁判官として扱うローマの総督ピラトは、全く違う考えを抱いていました。しかし、訴える人々の要求は高まるばかりです。今日はこの箇所から、題の通り、イエスに罪が見出せないと言ったピラトの言葉によって、イエスというお方がどういうお方であるかをまた私たちは示されています。そしてそれを示された私たちは、このイエスに対して自分はどう思うのか、ということを問いかけられているのです。 1.イエスではなくバラバを  ピラトは、ユダヤ人たちの前に出てくる前に、主イエスと話していました。その際、イエスが真理について話されたので、真理とは何か、と問いかけて、それからユダヤ人たちの前に出て来たのでした。ピラトは真理とは何か、という質問をイエスにしたにもかかわらず、その答えを聞いていません。イエスが答えようとされなかったのか、或いはピラト自身、特に答えを求めるでもなく、答えが特に聞きたいわけでもなく、一体あなたは何のことを話しているのか、と問いかけるだけでその場を去ったのかもしれません。ピラトは、本当に心から真理についてイエスに伺いたいというよりも、訴えられている被告についての取り調べの気持ちでいたでしょうから、裁判官としての判断に役立つことだけ聞けばよいと思っていたのではないかと思います。もし本当に聞きたいのだったら、ピラトはイエスの答えを待って教えを乞うたはずですが、彼はそこまではしなかったのでした。  そういうピラトは、ユダヤ人の前に出て行きますが、人々の反応は、イエスではなくバラバを釈放してもらいたい、というものでした。過越しの祭りの際には、未決の囚人を一人釈放するという慣例があり、ユダヤ人の慣例を尊重して総督ピラトはそれを実行しようとしたのです。バラバは強盗として捕まっていたのですが、イエスを訴えていた人にとっては、バラバがどんな犯罪人であろうが関係なく、イエスを釈放することだけはしたくなかったのです。  こういう時の群衆は、深くものを考えているわけではなく、指導者たちに扇動されていたので(マルコ15章11節)、理性を失...

「尊ぶべき神の御名」 2023.6.25
詩編 74編1~23節

 私たちは自分に名前があることをある時知ります。自覚するより前に、名前を呼ばれていてそれが自分に対するよびかけや、語りかけであることをいつの間にか知っています。そして段々と自分の名前の意味や名づけの由来なども知るようになります。そして誰でも、自分の名前を変な風に呼ばれたり、からかわれたりすると不愉快になると思います。やはりそれは、名前はその人そのものを表わすのであって、名前を軽んじることは、その人を軽んじる、と言うことだからです。今日は、そういう人間の名前ではなく、人間に名前を与えてくださっている神様のお名前について語っているこの詩編七四編から、神の御名を尊ぶことについて教えられています。 1.神の羊の群れとされた民  神様は、ご自分の民を羊として養い、ご自身は羊飼いとして民を導いて来られました。エジプトの奴隷の地から、モーセをお立てになって救い出してくださったことは、イスラエルの人々が永久に語り継ぐべきことでした。そしてこのことは、イスラエルの人々にとっては、民族としての誇りでもあり、もろもろの国々と自分たちとは違うのだということを自覚していました。  しかし、今この作者のいる状況では、イスラエルは他の国によって踏み荒らされ、エルサレムの聖所は廃墟とされてしまっています。そのような中から神様に救いを求めているこの詩から、特に神の御名を尊ぶという点に目を留め、今日の私たちの時代においても、神様の御名が尊ばれるべきことを教えられます。しかしながら、この私たちの国と時代状況において、神様の御名そのものが知られていない、ということもまた事実です。  さて、まず11節までで、主への問いかけが続きます。エルサレムが永遠の廃墟となってしまった、という表現から、おそらくバビロン帝国の侵略によって、エルサレムが陥落し、町と神殿が焼き払われてしまった時、紀元前6世紀の前半のことだと思われます。エルサレムを滅ぼした軍隊は、イスラエルの神、主の聖所を焼き払ったのですから、自分たちの神がイスラエルの神よりも強いのだと思っていたことでしょう。しかし、この作者は、違う見方をしています。  主がその民を突き放してしまったのです。それは永遠にと言われているように、いつまでも続くように見え、神様はもうイスラエルを顧みてくれないように見えます。しかしこれは詩の文章であって、こういう表現がな...