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「神の偉大な業を語る」2020.5.31(ペンテコステ)
 使徒言行録 2章1~13節

 この地上のあちらこちらにキリストの教会が立てられているのは、今日の朗読箇所に記されていた、聖霊降臨という出来事があったからです。このことがあったからこそ、キリストによる救いの福音は世界中に伝えられ、長い人類の歴史の中でずっと語り続けられ、そして世界中で人々を救いに導き、教会が立てられてきたのでした。今日は、この聖霊降臨によって起こったこととその意味を聖書から教えられています。 1.一同は聖霊に満たされた  五旬祭の日、というのは、イスラエルにおいて非常に重要な祭りとして行われてきた過ぎ越し祭から数えて50日目、ということです。ギリシア語でペンテコステ(50番目、という意味)と言います。今日キリスト教会では、聖霊降臨の日を「ペンテコステ」と呼んでクリスマス、イースターとともに記念し祝っています。クリスマスは日付が毎年固定していますが、ペンテコステはイースターから数えて七週間後の日曜日になり、イースターと同じように毎年日付けが変わる移動祝日です。今年は4月12日がイースターでしたから、今日が七週間後になります。  ユダヤの国では、過ぎ越しの祭りから50日目に「刈り入れの祭り」を行うように律法で命じられていました。元々は小麦の収穫感謝祭です。主イエスが十字架にかけられて処刑されたのが過ぎ越しの祭りの時で、復活された日曜日から数えて50日目に、信徒たちに聖霊がくだったのです。これは決して偶然が重なったわけではなく、神の御計画に基づいて起こった出来事でした。  主イエスの弟子たちは、イエスが復活された後、その姿を弟子たちに現された時に約束された御言葉を信じて、祈りながら集まって待っていました。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24章49節)と主イエスは告げておられました。父とは、父なる神のこと、約束されたもの、つまり高い所からの力とは聖霊のことです。さらに、弟子たちは聖霊によって力を受けて地の果てに至るまで主イエスの証人となる、とも言われていました(使徒言行録1章8節)。証人となるとは、主イエスが確かに十字架の死の三日目に復活されて、生きておられること、そしてこの主イエスの十字架と復活こそ、天の神から私たちに与えられた素晴らしい救いの福音であることを世の人々に告げ知らせる務めをいただいて

「今もなお働かれる主」2020.5.24
ヨハネによる福音書5章1~18節

 私たちの主イエスは、多くの病人を癒されました。今日の朗読箇所にもその記事がありますが、ヨハネによる福音書にだけ記されているこの出来事は、主イエスのなさったことの深い意味がたくさん込められている箇所です。 1.良くなりたいか  エルサレムにある、ベトザタの池でのことです。20世紀になって、この池の遺跡が発掘されたそうです。この池は南北に二つの池が並んでおり、合わせて南北約100メートル、東西60メートルほどのもので、丁度サッカーのグラウンドくらいの広さになります。五つの回廊があったと書いてあるように、周りを歩けるようになっていました。そこに多くの病人が横たわっていたのでした。7節に「水が動くとき」とありますように、間歇泉のようなものが湧いていたのではないか、と思われます。そして、その動いた時真っ先に入った人は体が良くなる、と信じられていたのでしょう。新共同訳では後代のものとみられる3節後半から4節にかけてが削除してあり、巻末にその一文が載っています。天使が来て水を動かすことがあり、その時に真っ先に入る者はどんな病気にかかっていても癒された、とあります。新共同訳の底本にはありません。奇跡ではなく、間歇泉によるものではないかということです。  そこにいた、38年も病気で苦しんでいた人を主イエスがご覧になり、「良くなりたいか」と聞かれました。この質問は、病人の側からすると、そんなの当り前ではないか、と言いたくなるかもしれません。しかし、ここでこの人はその質問にまっすぐには答えていません。単純に、はい、もちろんです、治りたいです、とは言わずに、この人は自分のことを助けてくれる人がいない、という悲しい状況を伝えます。この人は水が動くときに自分を助けて水に入れてくれる人がいない、と言います。彼にとっては治りたいというのが一番の願いではあるのですが、誰かが助けてくれるということをまず求める、ということにいつの間にかすり替わってしまったのでしょう。これは無理のないことかもしれません。自分の体が治る、という大事な願いよりも、それをかなえるための手段がない、助けてくれる人がいない、という二次的な問題に目が移ってしまっていたのです。  これは私たちも、祈る時にもしかするといつの間にかしてしまっていることかもしれません。何か願いがある、というときに、それを実現するためにはあの手段、

主が祝福を残してくださる」2020.5.17
 ヨエル書 2章12~27節

 今日はホセア書とアモス書に挟まれた、ヨエル書という小さな預言書から神の御言葉を聞こうとしています。ホセア書から後ろにある預言書を12小預言書と言います。ヨエル書は小預言者の中でも小さい方に属する書物です。「ヨエル」とは「ヤハウェは神」という意味の名前です。ヤハウェとは、主のお名前を表わす固有名詞で、「主」と訳されています。ヨエルはペトエルの子であると書かれていますが(1章1節)、どういう人であったのかは良くわかりません。  ヨエルが預言した時代も、諸説があります。ホセアとアモスは共に紀元前八世紀に活動した預言者で、その間に挟まれているので、同時代のようにも見えますが、もっと後の時代を反映しているのでは、というのが有力な説です。エゼキエルなどの後、エルサレムの神殿が再建された後の状況を反映しているようです。旧約聖書の預言は特に、時代背景を知って読みますとその預言の意図がよりよくわかりますが、ヨエル書の場合、預言が語られた時代が特定できないとしても、教えそのものを聞くことで、神の私たちに対する御心を聞き取ることができます。1章3節には「これをあなたたちの子孫に語り伝えよ」とあります。私たちも地に住む者の一人としてこれを聞くべき者の内にいるのです。 1.恐るべき主の日  ヨエル書では、前半の1章、2章では恐るべき主の日について預言されています。旧約聖書ではしばしば主の日についての預言がなされます。今日、私たちは「主の日」というと単純に日曜日、主イエスが復活された日のことを言っていますが、旧約預言においては、主の日と言えば、主が裁きをなさる恐ろしい審判の日、として語られていました。  それは、主の民であるイスラエルの人々の罪のゆえでした。それで預言者たちは人々に悔い改めを迫り、主に立ち帰るようにと語ったのです。今日の朗読箇所はその主の審判の日、2章の見出しにありますように主の怒りの日に臨むにあたって、今こそ、悔い改めて立ち帰れ、と命じているわけです。 2.主に立ち帰れ  では、主に立ち帰るにあたって、どうすべきか、というのが13節です。「衣を裂くのではなくお前たちの心を引き裂け」。イスラエルの人々は、激しい怒りや嘆きの感情を露わにする際、自分の衣を引き裂きました。アブラハムの孫であるヤコブは、息子のヨセフが野獣に殺されたと聞いた時に自分の衣を引き裂きました

「イエスの言葉を信じる」2020.5.10
 ヨハネによる福音書 4章43~54節

 今日も主の御言葉を聞きましょう。主イエス・キリストの御言葉は、今でも力強く私たちに語りかけています。主の御言葉には、すべてのものの造り主としての力と、一切の主権の上に立っておられる方としての権威があります。その権威ある御言葉によって私たちに救いと命が与えられています。 1.2回目のしるし  主イエスは、サマリアから出発してガリラヤへ行かれました。そしてかつて婚礼の席上で、水をぶどう酒に変えたことのある「カナ」という村へ行かれました。この福音書を書いたヨハネは、その時の奇跡を「最初のしるし」と言っています。ここでいうしるし、とは、イエスが本当に神の御子であり、世の救い主として来られた方であることを明らかにする証拠、という意味でのしるしです。今日の箇所では、主イエスは王の役人の息子が死にかかっていたのを、ただ一言の言葉によって癒したことが書かれていました。そしてその家族の者たち皆が信じたのであり、ヨハネはこれを、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた「2回目のしるし」であると書いています。  カファルナウムにいた王の役人は、病気の息子を癒してくださるようにと、イエスに頼みました。ガリラヤのカナとカファルナウムとは、約30キロメートル離れています。瑞浪教会が、丁度そのくらいの距離にあります。今日の私たちなら、車で小一時間走れば着ける距離ですが、検索してみたら、徒歩ですと7時間くらいはかかりそうです。普通に旅をしているのであればもっとかかるでしょうから、一日がかりの距離でしょう。この息子の熱が下がったのが午後1時、そしてこの役人と、僕たちが途中で会ったわけですから、それぞれ翌日に出発したのでしょうが、いずれにしても今の私たちとはずいぶん違う時間感覚の中にいたのだと思います。今私たちは通常はすぐに電話やメールで安否を確認できますが、この当時の人々にとっては、ひたすら歩かなければならず、この役人は山を下り、僕たちは坂を上ってカナへ向かっていたのでした。旅の途中で、いろいろな思いがこの役人の心の中を巡っていたのではないでしょうか。主イエスの御言葉をそれこそ何度も思い出しては、あの方がそう言われたのだから、それを信じて道を行くしかないと思って道を急いでいたことでしょう。僕たちも、一刻も早くご主人様に、この良い知らせを伝えたいと思って、やはり道を急いでいたでしょう。

「イエスが救い主だと分かった」2020.5.3
ヨハネによる福音書 4章27~42節

 尾張旭教会として、日曜日の在宅礼拝4回目となりました。今日は、サマリアの井戸端で主イエスがサマリアの女性と出会い、礼拝についての話をした後に、その女性が町へ行って人々に主イエスのことを知らせたお話です。あっという間に主イエスのことがサマリアの町で広まったのでした。この女性は、自分の過去を言い当てたこの人は、ただ者ではないと感じていたのです。私たちも、聖書によって主イエスの御言葉に触れ始めた頃のことを思い出してみてはどうでしょう。なんだかこの人の言うことはどうも他の人とは違う。何かあるのではないか、と思った方もいることでしょう。私はそうでした。主イエスと出会った人にはそのような小さな驚き、何だろうこの人は、という印象がもたらされるのではないでしょうか。そして実際、この方は、私たちに全く新しい世界を見せてくださるのです。 1.弟子たちの知らないイエスの食べ物  主イエスから、御自身がキリストと呼ばれるメシアだ、と聞かされたこの女性は、町に行って人々にイエスのことを知らせました。その前に、買い物に行っていた弟子たちが帰ってきます。そしてサマリアの女性と主イエスが話していたのをみて驚いたとあります。ユダヤ人とサマリア人は交際しない、という固定観念が彼らの内にもあったからです(4章9節)。  弟子たちが食事を勧めますが、主イエスはここでも弟子たちがついてゆけない答えをされます。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と(31節)。弟子たちは当然、普通の食べ物のことを考えて答えます。しかし主イエスは、食べ物の話から永遠の命に関する話に弟子たちを導いてゆかれます。サマリアの女性の時には私たちの生活に欠かせない飲み水のことから永遠の命に至る水のことを語られました。今度は、主イエスは弟子たちに、永遠の命に至る実を集める話をされます。日常的なものから永遠に目を向けさせる。主イエスが周りの人たちに対してなされた恵み深い接し方です。  しかし、ここで主イエスは、私たちが考える食べ物とはおよそ感覚的にかけ離れたことを語られました。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と(34節)。弟子たちもそうでしょうが、私たちにとってもこの御言葉は、食べ物との関係ではしっくりこない言葉です。食べ物とは外から摂取するものです。目や耳から