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「神は男と女を造られた」2018.2.4
 マルコによる福音書 10章1~12節

 主イエスがいつものように群衆に教えておられると、ファリサイ派の人々がやってきてイエスに質問しました。彼らは、ユダヤ人たちの中で律法に厳格したがって生活しようとしていた人たちで、自他ともに神の前に信仰深く生きていると認めている人たちです。彼らの多くはイエスの教えることを素直に受け入れず、反発しておりました。イエスが神の権威を持ってお語りになることを快く思わず、議論を仕掛けることによって何とかイエスを陥れようと企てていました。それでここでも、彼らはイエスを試そうとして質問します。心からイエスの教えを受けようとしたのではなく、イエスを試したのでした。当時、ファリサイ派の人たちにとって、離縁の問題は盛んに論じられていたものであり、離縁についての正当な根拠について議論されていたようです。そういう問題ですから、イエスからある答えを引き出すことによって、ある立場を取らせれば、それに反対する立場から、批判を受け易くなります。そう言う状況に追いやろうとしていたのでしょう。 1.律法に適っているか  ファリサイ派の人たちにとっては、モーセが神から受けた律法が最大の根拠になりますから、離縁することが律法に適っているかどうかをまず聞きます。ここで彼らは夫が妻を離縁すること、と言っております。夫、つまり男の側からの物言いです。それは旧約聖書申命記の24章にある、離縁と復縁についての規定があるからです。ファリサイ派の人たちは、律法に適っているか(2節)、モーセが許したか(4節)、という言い方をしています。彼らは、離婚についてまず夫の立場から自分たちの中に起こっている離婚の正当性を求めようとします。その根拠を律法に求めます。申命記の24章には、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」とあります(1節)。これは法律の条文です。これを読むと、例えば妻が気に入らなくなったので離縁したくて仕方がない男が、離縁状さえ書けばそれで離婚を正当化できる、という考え方に容易に至ります。モーセの律法の条文に合ってさえいればそれでよい、という考え方です。ファリサイ派の人たちは、厳格に律法を守ろうとしていたはずですが、条文に抵触していなければ良い、という考え方が見えてきます。 2.あなたたちの心が頑固だから

「神の力ある業を広く伝える」2018.1.28
ペトロの手紙一 1章22節~2章10節

 今年の年間標語は、今日の説教の題そのものであります、「神の力ある業を広く伝える」です。そして年間聖句としてペトロの手紙一の2章9節としました。9節はとても長い聖句ですので、焦点がぼやけるといけませんが、中心となるのは、標語として掲げた後半です。9節は二つの文章からなっていますように、前半が根拠となって後半の目的が語られています。あなたがたは、神の民となっている。その目的は、神の業を広く伝えるためだ、ということです。 1.主は恵み深い方だと味わった  この手紙を書いたペトロは、既に主イエスを信じてクリスチャンとして生きている人々に宛てて書いています。読者は、既に神に選ばれているのであり(1章1、2節)、既に魂の救いを受けています(同9節)。そのような読者に対して、今一度自分たちの信仰と生活とを省みて、主の御前に聖なる者となれ、と命じています(同15節)。しかしこれは、これから聖なる者となっていって救われるということではなくて、救いにあずかった者として、聖なる者となってゆくことを努めなさいというのです。つまり、主が聖なる方であるから、それに倣う者として生きなさい、という教えです。  この読者たちは、主が恵み深い方だということを味わった、とペトロは書いています(2章3節)。主イエスを信じた人は、主が恵み深い方であると信じたから、洗礼を受け、クリスチャンになったはずです。聖書の話を学んだなら、主なる神は旧約聖書に登場する聖徒たちに対して、いかに恵み深い方であるかがよくわかります。けれども、主が恵み深い方であるのは、聖書のお話の中でだけであるわけではありません。主は、私たちの現実の中におられ、私たちの今現在のこの世界においても生きて働いておられます。その中で私たちは主の恵みに与って生きております。私たちは時に立ち止まってそのことを考えてみる必要があります。クリスチャンといえど、この世に生きていますと、この世の生活が神様と切り離されて、信仰とは別にどんどん進んでいる、という感覚に流されてしまう恐れがあり、それは救いに無頓着でいる、ということにつながります(ヘブライ2章1節)。  主の恵み深さを味わって、それを心に留めておく、ということを意識的にすることが私たちの信仰を強め、成長へと導きます。何よりも、私たちに主イエス・キリストを現してくださったということ、信仰へと導

「神の国に入る道を進め」2018.1.21
 マルコによる福音書 9章41~50節

 イエス・キリストは、その公のご生涯において、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました(マルコ1章15節)。主イエスは神の国を私たちにもたらすためにこの世にきてくださいました。今日は、そのように私たちを神の国へと導いてくださる主イエスの御言葉が、つまずきについて私たちに教えています。他者も自分もつまずかせないようにしなさい、という教えを、大変強い言い方で主イエスは語っておられます。 1.主を信じる小さい者  主イエスは、ご自身のお名前のために子供の一人を受け入れる者は、主イエスを受け入れるのである、と言われました(37節)。そして、弟子のヨハネがそのイエスのお名前を使って悪霊を追い出している者たちのやっていることをやめさせた、と言いました。しかし主イエスは、私たちに逆らわない者は味方である、と言われたのでした。弟子たちは誰が一番偉いか、と議論をしていましたが、それは小さな子供を受け入れる、ということとはおよそ正反対のことでした。自分を低くして神と人に仕えることとは正反対のことを弟子たちは追い求めようとしていたのでした。さらに、自分たちに従わない者たちが、イエスの名前を使って悪霊を追い出すこともやめさせる。このようなことを弟子たちはしておりました。そういう弟子たちに対する大変厳しい言葉を主イエスは与えられたのでした。  どんなに小さな者であっても、それを軽んじて、罪に誘うようなことをしたり、罪に陥ることを仕向けたりすることは、大変大きな罪である、ということを、42節の御言葉は教えています。石臼を首にかけられて海に投げ込まれる、というような言い方は、大変大袈裟に聞こえますし、余り現実性のない表現かもしれませんが、とにかく非常に大きな罰を受けてしかるべきだということを強調しているわけです。石臼を首にかけられて海に投げ込まれれば、もう戻ってこられないわけで、その方が人をつまずかせて罪に陥らせるよりもはるかによいというのです。 2.つまずかせるものを切り捨てよ 次に主イエスは、他の人をつまずかせることから、自分自身をつまずかせないことへと弟子たちの意識を向け変えさせます。ここから、片方の手、片方の足、片方の目があげられています。ここで切り捨てよと言われてはいますが、もちろん、実際に切り捨てよと言っているわけではありません。手や足の

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

 キリストの御名。これは、私たちが教会に来るようになり、イエス・キリストというお方のことを段々と知るようになると、その大きさ、大切さをより知るようになります。そして、それは単に知識が増えてゆくということではなくて、実際イエス・キリストの御名を私たちは口にするようになります。そして祈りをし始めると、必ずその最後に「イエス・キリストの御名によって祈ります」という言葉がつけられるようになります。今日は、イエス・キリストのお名前について、そして、その御名に反対するかしないか、ということ、そしてそれを神はどのようにみておられるのかということを、今日朗読した短い箇所から聞き取りたいと願っています。 1.神の御名を尊ぶ  私たち人間の社会では、人はもちろん、団体、会社、学校、チームなどの名前というものは、その所有者、そこに属する人にとってはとても大事なものです。その名誉を傷つけられたり、汚されたりしたら、名誉棄損などといって訴えられることさえあります。名前を汚したり傷つけたりすることは、その人や団体等そのものを汚すことにもなるわけです。  同じように神様に対してもそれは言えることです。いや、むしろ、神がその御名を貴ぶようにと人に命じておられるから、人も、誰かの名前、何かの名前を尊ぶことを教えられている、というべきでしょう。主なる神はイスラエルの人々をエジプトから導き出された後に、シナイ山で十の戒め、十戒をお与えになり、主に救い出していただいた民としての相応しい歩み方を示されました。その第三番目に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めがあります。それは神の御名を尊ぶことを私たちに命じています。主の御名を呼ぶことが出来るのは神の民の特権ともいうべきものです。それを軽く扱ってはならない。清い敬虔な心で神の御名を用いなければならないのです。神の御名を濫用することは、厳しく戒められています。しかしイスラエルの中では、その戒めの故に、神の御名をなるべく直接口にしない、という態度も生じて来たのは事実です。しかし主なる神は、その御名を唱えてはいけないとか、なるべくなら用いてはいけない、口にすることも極力控えるべきである、と言われたわけではありません。みだりに用いてはならない、と言われたのです。私たちはこのことをよく覚えて、主イエス・キリストの御名をどう用いるかというこ

「永遠の神により頼む」2017.12.31
 詩編 90編1~17節

 今年も最後の日を迎えました。最後の日、というのは一年で言えば毎年やってきます。それから、この世の人生最後の日、というのも必ずだれにでもやってきます。そして、この世の最後の日、というのも神の御計画の内にはあるわけです。そしてすべてが新しくなる時を迎えるということになります。しかし私たちは通常はそこまで考えたり意識したりしないで毎日の生活を営んでいると思います。しかし、来年、来月、という短い範囲のことだけを見通すだけではなく、時に永遠に思いを馳せておくことも私たちの信仰には必要です。クリスマス前の待降節に当って、再び世に来られるイエス・キリスト、つまり再臨のキリストを待ち望むということをお話ししましたが、年末年始を迎えて慌ただしい中にいると、すぐに私たちはこの世のことに目を移しまして、あのことこのことを片付けなければ、となるわけです。それ自体は何も悪いことではなく、必要なことですが、私たちは常に心のどこかに、この世での限られた時間と、永遠の神の国、というものに対する思いの両方を住まわせておくべきです。限られた期間がどれだけなのかは、私たちにはわかりませんから、そこは主におゆだねし、目の前に与えられたことをこなしてゆくことになります。そんなことを思いながら、今年最後の日の礼拝で与えられている神の御言葉に心を向けましょう。 1.世々とこしえに神であられる方  1節と2節に目を留めていただくと、漢字の使い方について、あることに気づかれると思います。同じ「よよ」という日本語ですが、「代々」と「世々」と使い分けています。これは、原文が違うからですが、「代々」というと人の世代のこと、「世々」というと世界全体のことを示すという意図があると思われます。大方の翻訳では、初めの方を「代々」、次は「とこしえからとこしえまで」と訳しています。原文の単語も最初の言葉は「人の世代」、英語で言うと「ジェネレーション」、次の言葉は「とこしえ」とか「永遠」という意味合いです。翻訳聖書の問題ですが、やはりこういうところは同じ発音の「よよ」ではなく、「とこしえ」と耳で聞いてわかるようにした方が親切でしょう。  しかし、あえて「よよ」という発音の言葉で比較をしているのなら、文字を見て学ぶ上では役立ちます。人の世代は次々移り変わりますが、神はとこしえに変わらずおられる、という対比になっているからです。