「あなたがたは力を受ける」2023.11.19
 使徒言行録 1章1~11節

 先日、ヨハネによる福音書の最後の所からお話をしました。ずっと続けてこの福音書から御言葉を聞いてきました。そのすぐ後に置かれている使徒言行録は、その続きというわけではありません。冒頭にありますが、この著者は先に第一巻を著した、とありますように、ルカが書いたものです。間にヨハネによる福音書が入っていますが、もともとはルカによる福音書に続けて書かれたので、流れからするとルカ福音書に続けて読むと分かり易いのです。

 4つの福音書はイエスの復活について語りましたが、ルカはイエスの昇天まで書きました。つまりキリスト教会は、主イエスを肉眼で見ることのできない時代に入ってきたわけで、新しい時代になったと言えます。旧約、新約、という意味では、すでに新約の時代になっていますからそのくくりでは同じ時代ですが、主イエスが天に昇られて、そして教会に聖霊が降り、それによって地上の教会が世界宣教に向かって歩み出すという新しい局面を迎えたのです。今日は、そのことを覚えつつ、この使徒言行録の冒頭に記されている御言葉に聞きたいと思います。


1.イエスのなさったすべてのことを記した

 著者のルカは、テオフィロという人に福音書を書き送りました。この人の名前は「神を愛する者」という意味があります。ルカはその福音書を「献呈する」とも言っていますので、ある身分の高い人であると思われます。ルカは、先に記した福音書で、「イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」と言っています。すべてのこと、とありますが、ヨハネによる福音書の最後の所では、イエスのなさったことの一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう、と書いて締めくくっていました。ルカが使徒言行録で言っているのは、ヨハネが書いたような意味ではなくて、イエスのなさったあらゆることの内、例えば、その誕生とその時に起こったこと、イエスがなさった様々な御業と、あちらこちらで語られた御言葉、そして十字架で苦難を受けられたこと、死んで復活されたこと、そして天に昇られたこと、そういった一連の事柄の内、イエスというお方がどんな方であるかということについて、欠かしてはならないことをすべて書き記したということです。当然ヨハネの言うような意味ではないわけです。

 ルカによる福音書の冒頭を見ると分かりますが、ルカは書き記すに当って、初めから詳しく調べて、順次正しく書いた、と言っています。そして第2巻として今度はイエスが天に昇られてから後のことを同じくらいの分量で書いたのでした。新約聖書の内、4分の1はルカが書いたということになります。これはちょうど、パウロの手紙の分量と同じくらいになります。つまりこの二人の書いた文書が新約聖書の半分を占めているということです。イエスが行い、語られたことと、その昇天の後に使徒たちが聖霊に導かれて行ったこと、これらの初代教会にとって極めて重要な文書を書き残してくれたのでした。主がルカという人の文筆家としての能力を用いて、このように聖書として残るようにしてくださったのです。


2.父なる神の約束を待ちなさい

 主イエスは、エルサレムを離れずに、前に約束したとおり、聖霊による洗礼が授けられるのを待ちなさい、と言われました。聖霊による洗礼とは、この後に起こる聖霊降臨のことです。ここに至るまでも、聖霊のお働きがなかったわけではないですが、地上の教会に聖霊が降ることによって目に見える形でも聖霊の力が注がれていることを明らかにし、キリストの証人として全世界へと使徒たち、弟子たちが出て行くための力を与えてくださいます。

 この時の弟子たちは、父なる神のもとから聖霊が降る、という約束を信じて待つようにと言われています。考えてみると、私たちがイエス・キリストを救い主と信じて、主の日=日曜日ごとに礼拝を行っているのは、主イエス・キリストの約束があるからです。主イエスは信じる者には永遠の命を与える、と言われました。そしてやがていつの時かはわかりませんが、必ず再び世に来られる、と。今の時代に生きる私たちも、この時の弟子たちと同じように、主イエスの約束を与えられ、それを信じるという形で今日、信仰をもって生きています。

 そもそも、人はこの世に生まれてきますが、何らかの約束が与えられて生きている、と実感している人はどれだけいるでしょうか。つまり、あなたはこの世で生きているが、このように生きれば、こんな結果が必ず待っている、というような約束です。しかしそんなものは生まれながらの私たちには教えられていないので、人は皆それぞれこの世で人間として生活し、色々なことを学び、考え、人の考えや意見を聞きつつ、どうしたら自分にとって良い結果をもたらせるか、良い歩みができるかと試行錯誤したり、時には仕方ないから流されていったりしている、ということではないでしょうか。そしてそのような確かな約束などないけれども、何とか頑張って与えられた環境と才能と、知恵とチャンスを用いて切り開いていこうとするのでしょうか。しかし人生に確かな保証などないのだから仕方がないと。

 果たしてそうなのでしょうか。確かに神を信じて生きている人であっても、「あなたの人生は何歳でこうなる、何歳で誰と出会ってこのような歩みをするようになる」というような約束は誰にも与えられてはいません。しかし、私たちの人生そのものについて、主である神がおられて、信じ従うならば必ず命を約束する、と語っておられます。それは確かなものです。しかし神を信じない人は言うかもしれません。いや、それが本当だという保証はどこにあるのだ、と。もしも、現代人が言うような証拠を見せたら、世の人々は神の約束を信じるようになるのでしょうか。しかし未来についての神の約束の実現についての証拠はまだありません。これから先に起こることだからです。証拠はないけれども、保証はあります。そして神は約束を実現される、という確かな証言ならあります。神の御子イエスが来られて神の言葉を語り、神の国をもたらし、そして多くの人を罪から救い、永遠の命を与えてくださいました。今の私たちに、神は信仰を求めておられます。神は、決して出し惜しみをしておられるのではなくて、信じることを喜ばれるのです。信じることは、神に栄光を帰することにもなります。それは人に与えられた重要な目的だからです。そして神がおられること、一切を治めておられることを知り、神その方を愛し喜ぶ。これを神は望んでおられるのです。


3.力を受け、地の果てまで証人となる

 さて、初代教会に戻りましょう。使徒たちはまだいろいろなことが実は良く分かっていなかったので、イスラエルを主イエスが立て直してくださると考えていました。世に姿を現しているイスラエルという一つの国のことを念頭に置いていたのです。しかし主イエスはその点には触れません。やがて聖霊が降られることによって、まだわかっていない弟子たちも、主イエスの御言葉を理解できるようになり、この時代、この世界がどういうものなのかを知るようになるからです。それでも、主イエスは、神がお定めになった時や時期がある、ということは言われました。そしてとにかく、聖霊が降られると弟子たちは力を受け、全世界を対象としてイエスの証人となることができる、と約束されました。この時の弟子たちには、自分たちが聖霊によってどんな力をいただけるのか、皆目わからなかったと思います。しかし後に実際に聖霊が降ると、弟子たちはそれまでとは打って変わって新しい力を得て、力強く働くようになっていきます。

 今日の私たちも、この同じ主イエスの約束による聖霊の恵みにあずかっていることを知りましょう。私たちも既に力を受けているのです。いや、それはあまり実感できていないような気がするでしょうか。しかし、この約束は実現し、イエス・キリストの証人となった人たちの働きによって、福音は世界中に伝えられ、今、この私たちの所にも来ています。だからこそ私たちは今こうして神の御言葉を聞いているわけです。既に私たちの内にも聖霊の御力は働いています。そして私たちもまた、地の果てに至るまでの主イエスの証人とされています。私たちが主イエスを信じて信仰によって生きているという事実そのものが、ここに書かれている主イエスの御言葉が真実であることの確かな証拠なのです。この力は、人の手によらないものです。人はこの力に勝つことはできません。なぜなら、この聖霊をいただいた者には、神の愛が向けられているからです。そして神の愛が向けられている人には、世のどんな力もその人を神から引き離すことはできません。死も、艱難も、苦しみも、迫害も、飢えも、危険も、剣もキリストの愛から私たちを引き離すことはできないのです(ローマの信徒への手紙8章35節)。

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