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「主の御旨をまず求める」2018.4.22
 歴代誌上 13章1~14節

 旧約聖書に記されている様々な出来事は、今日の私たちからすると、驚くようなことがいろいろあります。奇跡に驚くというよりも、今日の箇所のように、神の裁きが非常に厳しく、速やかに下る、というような出来事に驚きます。旧約聖書においては、その出来事が後世のための警告になっているということもあります(Ⅰコリント10章6節)。 1.主の御旨でもあるなら  今日の箇所では、神の箱、つまり契約の箱というイスラエルにとってはこの上なく大事なものを移動させるに当たって、人々がどのようにそれに対処したかということが問題になっています。神の箱は、木で作られたものにすぎませんが、主がそこで民に御自身を示され、語られる、と言われているほどのものですから、神の箱がある所、そこには主がおられる、という非常に神聖なものであったわけです(出エジプト記25章22節)。神の箱の上の蓋は贖いの座、とも言われ、ダビデたちも、その箱の上に主が座しておられ、神の御名によって呼ばれる箱であると認識しておりました。  ダビデ王は、そのように大事な神の箱を、キルヤト・エアリムからエルサレムへ運び上げようとしたのですが、彼はまずおもだった指導者たちと協議をし、そしてイスラエルの全会衆に問いかけました。「もしあなたたちが賛成し」そしてそれが「主の御旨でもあるなら」(主から出たことなら)、神の箱を移そうではないかと言っています。この出来事の間違いの始まりはここにあります。主の御旨よりも、まず全会衆が賛成するなら、ということが先に来ているからです。箱を移そうという動機は、サウル王の時代に神の箱をおろそかにした、という反省があって、そのためにエルサレムにきちんと神の箱を安置しようとしたのですが、事を諮る順序が逆でした。しかし人々は、それは当を得たことだと思いましたので賛成し、箱を新しい車に載せて運び、力を込めて神への賛美を歌いながら、運び上げようとしたのです。これらもまた、人々には良いこととして目に映ったのではないでしょうか。 2.主はウザを打たれた 皆が良いことをしていると思っていたのですが、しかしそうではありませんでした。運び上げるという目的はよかったのですが、そのやり方がいけませんでした。どのように運ぶか、ということを主は定めておられたのですが、それを調べることなく、新しい車に載せて運んだのでした。つまり自分

「子ろばに乗ってエルサレムへ」2018.4.15
マルコによる福音書 11章1~11節

私たちの救いのためにこの世に来てくださった救い主イエスは、御自分の身にこれから起こることを承知の上で都エルサレムへ入って行かれました。エルサレムへ上って行けば、ユダヤ人の指導者たちに捕らえられ、異邦人のもとで死刑判決を受けて十字架にかけられることを知っておられました。ご自分の身に起こって来ることを予め知りつつ、それでもエルサレムへと向かってゆかれたのでした。今日の朗読箇所では、イエスがエルサレムへ入られる前に、子ろばに乗ってエルサレムに入られた様子が描き出されています。イエスがなさったここに示されている一連の出来事を通して、私たちは、イエスというお方がどのような方であるかをまた示されております。 1.子ろばを連れてきなさい  主イエスとその一行は、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとべタニアにさしかかりました。オリーブ山は、エルサレムの東方にある山で、後に主イエスが祈りをささげられたゲツセマネの園は、このオリーブ山の西斜面にあります。ここにオリーブ山が舞台として出て来るのは重要です。ゼカリヤ書で、「その日、主は御足をもって エルサレムの東にある オリーブ山に立たれる」と預言されているからです(14章4節)。 イエスは、二人の弟子を使いに出して向こうの村へ行き、まだ誰も乗ったことのない子ろばを連れて来るようにと言われます。そして誰かがその理由を問うならば、「主がお入り用なのです」と言うように、ということまで弟子たちに伝えられたのでした。マルコは言及していませんが、ここで子ろばに乗られるということは、同じゼカリヤ書9章9節の、エルサレムにその王が子ろばに乗って来られる、という預言がその背景にあることが充分伺われます。マタイは、はっきりとそれを記しています(21章5節)。  ここでイエスがこのようなことを言われたのは、どういうことかという点について、二つの見方があります。一つはイエスは、予めそのあたりの人に子ろばを拝借することを伝えておいて、頼んであった、ということ。もう一つは、そのようなことなしに、「主がお入り用なのです」という言葉によって、了解してもらえるということをご存じでそのように言われたということ。ここではやはり、イエスは予め頼んでおいたというよりも、その神の御子としての権威によって、ろばを使う、ということのために、特別なお力を用いられたのだと思い

「信仰があなたを救う」2018.4.8
 マルコによる福音書 10章46~52節

 イエス・キリストの復活を記念し祝うイースター礼拝を先週私たちは献げました。復活された救い主イエスの姿を私たちは肉眼で見ることはできませんが、信仰の目によって見ることができる。そして復活された主イエスを信じる道へと導かれた者は、新しい命の道へと歩み出しているのであります。その道は、主イエスが先立って歩まれた道であり、非常に多くの主イエスに従う者たちがその後を歩んでいった道です。今日はその中の一人の人についてのお話しです。 1.エリコの町の盲人バルティマイ  主イエスの一行はエリコに来ました。エリコは、死海の北方10キロ程の所にあり、エルサレムの東方、直線で24キロ程の距離にあります。そこにバルティマイという盲人の物乞いが道端に座っておりました。彼は目が見えませんでしたが、人々がイエスの噂話をするのを聞いていたので、イエスが来られたと聞くと叫び始めて、「私を憐れんでください」と呼びかけます。彼は「ダビデの子よ」と呼んでいます。イスラエルの王となったダビデは、罪を犯しましたが、悔い改め、信仰によって歩んだ人でした。やがてイスラエルを永遠に治める王がその子孫から生まれる、と約束されていましたので、「ダビデの子」といえばイスラエルを治めるとこしえの王を表す称号としての意味があったのです。「ダビデの子」というだけではイエスというお方の全体像を十分に表しているとは言えない面があります(マタイ22章41~46節)。しかし主イエスはここではそのようなことには特に触れることなく、この盲人を呼んでくださいました。  しかし、バルティマイがイエスに叫び続ける中で人々は彼を黙らせようとします。おそらく人々は、彼の叫び声によって、イエスが道々話しておられることが良く聞き取れないから静かにさせようとしたのでしょう。しかし彼はひたすら叫びます。目の見えない彼はイエスに視線を向けることができません。だから一層声を張り上げてイエスに聞き届けてほしい、と願って引き下がりませんでした。彼はただ、憐れんでくださいと願います。この時代の盲人たちは、このように道端に座って物乞いをするしかなかったでしょう。今日であれば、盲人の方のために訓練センターのようなものがあって、行政の支援を受けたり人々の助けを得たりしながら職業訓練などもすることができましょう。もちろん目が見えない、というハンデと、見える人にはわ