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「主よ、どうお考えですか」2021.2.28
 ヨハネによる福音書 7章53節~8章11節

 私たちには聖書が与えられています。この聖書は私たちの信仰と生活の基準です。しかし、時には、聖書にはっきりと答えが示されていない問題もあります。また、どのように判断したらよいだろうか、と迷う時もあります。そのような時、もしイエス様がここにおられたら、どのような判断をされるだろうか、と思うことがあります。しかし現実にイエス様がそこにいて答えをすぐに教えてくれるわけではありません。そんな時「主よ、どうお考えですか」と聞きたくなるのですが、今日の朗読箇所には同じことを主イエスに聞いた人の言葉があります。今日は、この言葉をきっかけにして、主イエスというお方が、どのような方として私たちの主としておられるのか、ということを改めて教えられています。  ところで今日の朗読箇所は、括弧に入っています。これは新共同訳聖書では「後代の加筆と見るのが一般的とされている個所」です(凡例三.(6))。元々のヨハネによる福音書の中にはなかったものだけれども、イエス様のなさったこととして別に伝えられてきたものがここに挟み込まれたもののようです。2、3世紀の頃には、人々に読まれていた物語でした。もしこれが全くの作り話で、イエス様のなさったことではないということならば、教会の中でこのような形で読まれてはこなかったでしょう。この括弧は、イエス様のなさったこととして信じるに足る言葉ではない、という意味ではなく、元々の話の出所としてはヨハネが記したものではないですよ、という意味です。ですから、ヨハネ当人が書いたものではないとしても、教会の歴史の中で、主イエスのなさったこととして信じ伝えてきたのです。そうでなければ括弧つきであれ何であれ、聖書本文に組み込まれはしなかったでしょう。   1.どうお考えですか  ここで記されている物語を見てゆきましょう。律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕まった女性を主イエスのもとに連れてきました。「こういう女は石で打ち殺せ」とモーセは命じている、と彼らは言いました。姦淫をした男女は、旧約聖書の律法ではどちらも死刑に処することになっていました(レビ記20章10節、申命記22章22節)。また、婚約中の娘に別の男が出会い、そして床を共にしたならば、その二人を石で打ち殺さねばならない、という掟があります(申命記22章24節)。しかし、一般の姦淫に対しては石を投げつけなさ

「自分の道に心を留めよ」2021.2.21
ハガイ書 1章1~15節

 今日はハガイ書から、神の御言葉を聞きましょう。「ハガイ」とは、「もろもろの祭り」という意味です。ハガイの個人的なことはほとんどわかりません。ハガイの語る預言は、ほとんど一つの主題にしぼられています。神殿再建についての主の御命令です。民が心を神に向けて神殿建築を行うなら主なる神はそれを喜んでくださり、栄光を受ける、と言っておられます。私たちは、主なる神に喜ばれることを行っているのでしょうか。   1.民の考えと主の御心の違い  このハガイ書は、日付が書かれており、それが時間順に出てきます。今日の箇所では、冒頭に、ペルシャのダレイオス王の第2年6月1日にハガイを通してユダの総督と大祭司に主の言葉が臨んだ、とあります。これは、今日の太陽暦で言うと紀元前520年の8月29日です。ゼカリヤとほぼ同じ時代、バビロン帝国に侵略され、都エルサレムが陥落してからすでに65年以上経過していました。その間、バビロンもペルシャによって陥落したのでした。ハガイはエズラ記に預言者ゼカリヤと共に2回名前が出てきます(5章1節、6章14節)。  彼らの預言によって、ハガイ書にも登場するゼルバベルとヨシュアは、中断されていた神殿建築を再開しました。預言者たちの語る主の言葉は、人々を動かし、神の業を行うようにと励まし、促し、力づけたのでした。預言者の語る主の御言葉は、時代を超えて今日の私たちをも力づけてくれます。  このころ、エルサレムに帰還した人たちがいたのですが、神殿建築を妨害する人々もおり、中断していたのでした。そのような中でハガイは預言し、主の御心を告げました。人々は「まだ、主の神殿を再建する時は来ていない」と言っていました。この言葉は、一見すると冷静に判断しているかのように見えます。今日の私たちでも、慎重に物事を判断しているように見えるけれども、実は確信がないから、ということがあるでしょう。このハガイの預言では、民は慎重な物言いをしていましたが、その実、自分たちの家を建てること、それをより良くするために、また自分の身の周りのことに気を奪われて、神の神殿が廃墟であることを心に留めていないのでした。  主なる神は、天地の造り主であられます。イスラエルにおいて、神の神殿を最初に建てたソロモン王は、神殿を建てた後に祈っています。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も

「神と人の間に立つイエス」2021.2.14
 テモテへの手紙一 2章1~7節 

 先日の2月11日は、日本の祝日としては「建国記念の日」でした。昨年も言いましたが「建国記念日」ではなく、あくまで建国記念の日です。歴史的に、この日を特定することができないので「記念の日」としていることを覚えておきましょう。キリスト教会の側では、「信教の自由を守る日」として位置付けています。日本国憲法では、どの宗教の教えを信じて生きようがその自由は、誰に対しても保障されており、いかなる宗教団体も国から特権を受けたり、政治上の権力を行使してはならないこと、また、だれも宗教上の行為、祝典、儀式、行事への参加を強制されないこと、国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならないことが定められています(憲法20条)。中部中会でも2・11集会が開かれ、天皇制の問題とクリスチャンとしてどう歩むべきかについて講演がなされました。その報告をここではしませんが、後で講演記録を読んでいただけます。私たちの信仰は、誰にも妨げることはできません。今日はこのテモテへの手紙から、私たちの祈りについてと、神が私たちの救いのために何をお考えになっておられるか、という点を教えられています。そして特に、私たちの信仰の対象である救い主イエス・キリストというお方について、大変大事なことが教えられていますので、御言葉の教えに良く聞きたいと思います。   1.すべての人々のための祈り  まず、著者の使徒パウロは、力強く戦うようにと1章で語った後、教え子であり、同労者である伝道者、牧会者であるテモテに祈りについて勧めます。テモテはエフェソの教会で牧師、伝道者として務めに当っていました。彼はまだ年若い人です。彼がその務めを果たしてゆくために、願いと祈りと執り成しと感謝を捧げるように、しかもすべての人々のためにささげるように、パウロは勧めます。この場合のすべての人々というのは、テモテが関わっている教会の人々、接する機会のある町の人々すべて、という意味ですが、さらに、王たちやすべての高官たちという、国の為政者たちのためにもささげなさい、と命じています。  ところで、王たちや高官たち、というのは国の為政者や統治者ですが、日本における天皇という存在はどうでしょうか。天皇は為政者ではありません。国事行為を法律に則って行いますが、政治的権力は持っていません。また、上に立つ権威でもありません。ですから、為政

「聖書に何を聞くのか」2021.2.7
 ヨハネによる福音書 7章40~52節

 私たちは聖書をどういう書物として受け止め、そこから何を聞くのか。これはとても大事なことです。人はいろいろな興味を持って聖書に近づいてきます。私は、子どもの頃、聖書は永遠のベストセラーである、という言葉をどこかで聞いたことがありました。両親がカトリック教会の信徒でもあり、キリスト教との接点があり、友だちにもクリスチャンがいたので、家にあった新約聖書を自分で読み始めたりしており、それと前後してその友達の通う教会の教会学校に行くようになりました。中学2年生の終り頃です。自分で自覚的に読み始める前は、永遠のベストセラーとは、どんな本かと勝手に想像していましたが、何か堅苦しい掟や戒めなどがたくさん並んでいるのかな、というようなことを思い浮かべていた記憶があります。実際にはそれとは大きく違いました。何かを探求しようとして読み始めたわけでもなかったと思います。キリスト教を身近に感じていたこと、クリスチャンの親しい友だちがいたことが大きなきっかけではありました。そして、イエス・キリストについて書かれている福音書を読み始めました。カトリック教会で幼児洗礼を受けたときの洗礼名が「ルカ」だったので、ルカによる福音書から読み始めました。皆さんも、それぞれに聖書との接点はいろいろだと思います。その接点もまた、主なる神が一人一人のために備えてくださったものと考えていただいて、改めて聖書に近づき、神の御言葉を読み、親しみ、いただきましょう。   1.聖書に書いてあるではないか  主イエスの話を聞いた人々はいろいろなことを話しています。この人はあの預言者だ、メシアだ、メシアならベツレヘムから出るはずだ、と。そして言います。「聖書に書いてあるではないか」と。ここで言う聖書は、今私たちの目の前にある、旧約聖書のことです。この時の人々にとってはまだ新約聖書はできていませんから、聖書と言えば創世記からマラキ書までの旧約聖書です。もっとも、ユダヤの人々にとっては聖書の配列も違いまして、中身は私たちの旧約聖書と同じですが、創世記から始まり、歴代誌で終わっています。  40節で「あの預言者」と言われているのは、モーセのような預言者を立てるという預言がありましたので、その預言者のことです(申命記18章15節以下)。また、民衆はメシアの到来を期待していました。旧約聖書にそのような方の到来が示されているからで