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「世に対する神の言葉」 2023.4.23
ヨハネによる福音書 18章12~27節

 受難週からイースターにかけて、私たちは、救い主イエス・キリストの十字架に向かう道と、十字架の苦しみ、そして死からの復活を語る聖書の教えを学びました。今日はまたヨハネによる福音書に戻りますが、今言いました十字架と復活の出来事よりも時間的に前のことになります。祭司長たちやファリサイ派の人々が遣わした下役たちによって捕えられた主イエスが大祭司の屋敷に引き立てられて行った時のことです。 1.大胆だったペトロの弱さ  シモン・ペトロのことが、この箇所では2回出てきます。彼は、自分の大事な先生であるイエス様が捕えられようとしていた時、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その耳を切り落とすというかなり乱暴な行動に出ました。イエスはそれを止めるようにお命じになりました。別の福音書では、イエスはその人の耳を癒された、とあります。ペトロは血気盛んな人であったことが伺えます。自分にある程度の自信があり、気が強く、思ったことをすぐに言葉や行動に出す傾向が強い人です。私たちの周りにもそういう人はいるかもしれません。その良し悪しを今言おうとしているのではなく、そのようにいろいろな生活や個性を持つ私たち人間ですが、その中でもその人間的な強さが前面に出ているペトロと、人間的、性格的強さなどによって人に相対するのではない主イエスというお方が、実に対照的に示されているように思います。  これまで、強気の態度で行動してきたペトロでしたが、いざ自分の身に危険が迫ってくるとなると、イエスとの関係を否定してしまう、という行動を取ってしまったわけです。こういうことになるとは、ペトロ自身も想定していなかったと思います。何しろ、イエスのためなら命を捨てます(13章37節)、と勇ましいことを言っていたくらいですから。しかし、やはり人は自分の命に危険が迫ってくると、実に頼りないものであって、かつての勇ましい言葉や自信に満ちた態度はどこへ行ってしまったのだろうか、という結果に至るのではないでしょうか。 2.世に向かって公然と語る主イエス  主イエスの姿は、そのようなペトロの姿とは実に対照的でした。主イエスはこれまで、羊のため、つまり御自分を信じる者たちのために命を捨てる、ということを予告して来られました(10章15節)。意味合いは違うといっても、命を捨てる、という点ではペトロも言っていたのと同じ言葉

「神が祝福してくださる」 2023.4.16
詩編 67編2~8節

先週、私たちは救い主イエス・キリストの復活を記念して、祝い、礼拝を行いました。主イエスの救いの恵みと祝福は、その復活によって私たちに対して確かなものとなりました。主キリストの復活は、その十字架の上での死による、私たちの罪の償いの御業が、本当に有効なものであり、復活によって罪の赦しと永遠の命は確かなものとなったのであり、罪に対して完全なる勝利が実現したのでした。それは言い換えると、神による救いの恵みは確実に私たちに与えられたのだ、それはつまり神の祝福は現実に私たちのものになったのだ、ということです。それで今日は、旧約聖書の詩編から、神が私たちを祝福してくださることについて歌っている詩編六七編に聞き、神の祝福についての教えを聞きます。 1.神の祝福を受けた人々  この詩は収穫の感謝を歌ったものではないか、と言われてきました。7節に「大地は作物を実らせました」と歌われているからです。確かにそういう面はあると言えます。神の祝福は、そのように現実の生活の中で与えられる、目に見えて手に取れるいろいろなものによって表されます。そこで、まず聖書から、神から祝福の約束を受け、実際に祝福された人たちのことを見てみましょう。 ずっとさかのぼりますと、神はまず創世記に記されている天地創造の時に人を造られましたが、その時、人に対して祝福して言われました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と(創世記1章28節)。これが、神がまず初めに人を祝福された時の御言葉です。つまり、地上に増え広がること、そして地を従わせること、それが神の祝福を受けているがゆえに実行できるとされているわけで、それが祝福そのものだと言えます。もし神の祝福を受けていなければ、増え広がることはできないのです。  しかしこれは、人間が神の前に罪を犯して堕落してしまう前に言われた御言葉でした。しかしこの御言葉は、今でも有効です。堕落後のノアの時代にも洪水の後で神は同じことを言われたからです(9章1節)。だから、まず私たちは神による、この祝福の御言葉の内に今も生きているのです。しかし、堕落してしまったので、地上に増え広がることだけでは、完全な祝福に至ることはできなくなってしまいました。  それで神は後にアブラハムに現われて、アブラハムを通して地上の人々は祝福に入ることができると約束されました(同12章3節)。これ

「イエスは復活された」
 マルコによる福音書 16章1~8節

 「イエスは復活された」。この短い一言に、私たちがここで集っていることの根拠があります。もしも主イエスが本当には復活しておられなかったとしたら、世界中にキリストの福音が今のように広がっていることはなかったでしょう。単に歴史上の偉大な人物の一人の中に数えられて、そのいろいろな言葉が、世の多くの人々に対する教訓であったり、良く生きるための指針であったりしただけだったでしょう。そしてイエスのなさったことは人間としての模範に過ぎず、私たちを救う救い主ではなかったでしょう。いや、救い主とはなりえなかったのです。しかし真実はそうではありませんでした。先ほども朗読していただいたように、イエスは確かに復活されました。 1.ナザレのイエスを捜している  マルコによる福音書は、この後に結びと言われる文章が二つついていますが、これは重要な古い写本にないので、恐らく元々のマルコの書いたものにはなかったのであろうとされています。そうするとあまりにも唐突に8節で終わっているので、不自然である、きっと最後の部分を紛失したのではないか、マルコに何かあって、最後が書き終えられなかったのではないか、いや、マルコはここで終わりにしたのだ、などと言われます。結びの部分は後の人が付け足したのではないか、とも言われてきました。そして、ある程度は古い写本にも含まれているので括弧入りで読まれてきました。それで、今日はその話はこのくらいにして八節までの記事からお話しします。  主イエスが復活した証拠はどこにある、という問いが私たちに与えられたら、どう答えましょうか。現代人が言うような証拠はないと言えるでしょう。しかし、私たちの心の内になされる証言とそれを信じる私たちの信仰とその確信があります。それは決して妄信ではなく、1世紀に復活された主イエスを目撃し、出会ったという多くの弟子たちの証言に基づきます。それは信仰の問題です。しかしそれは神の聖霊が私たちの心の内に与えてくださるものなのです。  今日の朗読箇所は、十字架の上で死なれ、そして取り降ろされて墓に葬られたイエスの体に油を塗りに来た女性たちの話です。彼女たちは墓の入り口に大きな石が転がされていて、簡単には中に入れないことを知っていました。ところが石は既に転がされており、墓の中に入れるようになっていました。この墓は岩を堀り抜いて、洞穴のようにして、遺体