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「神の光に導かれて」2020.11.29
 マタイによる福音書 4章12~17節

 私たちの生活には、光が必要です。もちろん、目が見えなくて光を感じられない方もおられますが、目の見える人がその助けになっていろいろな活動の手助けをしている、という面はありますから、拡大して考えればやはりすべての人は光を必要としているのではないでしょうか。今日は神の光について聖書の教えを聞きますが、この光は、自然の光以上の、私たちの存在、命、人生における歩みと行く先、活動、すべてを照らす光です。私たちは、神からの光を必要としています。その光に照らされて歩むことこそ、私たちに真の幸いを与えていただける道なのです。   1.暗闇に住む人間  今日の朗読箇所は、イエスが公に人々の前に登場して宣教活動を始められた時のことです。マタイは紀元前8世紀の預言者イザヤの書から引用しました(イザヤ書8章23節、9章1節)。イエス時代から700年以上も前です。この頃、ユダヤの人々は暗闇の中に住んでいた、と言われます。ユダヤの国は北の大国アッシリアの脅威の下にありました。「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」(イザヤ書8章22、23節)と。しかしいつのことになるかはともかく、大いなる光が照り輝くと言いました。イエスはこのイザヤの預言を実現する方だと、マタイは書きました。700年も昔に預言者イザヤが語ったことが、イエスによって実現したと記したのですが、では、その間ずっとユダヤの国は暗闇だったのでしょうか。  人類の歴史には常に暗闇と苦悩、苦難がついて回っていました。世界中で常に戦争、領土紛争、飢饉と災害、伝染病、重い病、社会の不平等や暴君による抑圧、犯罪の横行、等々。それでも、例えば中世の頃、ヨーロッパでペストが大流行して多くの人々が亡くなりましたが、そういう時代に比べれば医学も社会制度も発展して、今の時代はずっと明るいのかもしれません。ではこの世は希望に満ちた素晴らしい世の中でしょうか。決してそうではない、ということを誰でもが知っています。子ども時代は楽しく、何不自由なく生活してきた人でも、大人になって自立し始めれば、世の中を生きてゆくのは大変だ、と大抵の人は味わうわけです。そしてこの世は闇のようだ、この世に生まれて来たけれど希望は持てない、世の中を生き抜くのはしんどい、と思ってしまうようにもなるわけです。   2.暗闇

「心からの喜びを求めて」2020.11.22
 使徒言行録 2章22~28節

 最近、何を喜びましたか、と問われたら何と答えますか。喜びにも大小様々ですが、大変な喜び、あるいは心から喜んだ、となると日頃の生活ではそれほどないかもしれません。今日の題には「心からの喜び」という言葉がありますし、今日朗読した聖書の箇所にも、「喜び」という言葉が入っていました。聖書には、「喜ぶ」という言葉がしばしば出てきます。ただ何かを喜んだ、というだけではなく、喜びなさい、と命じられていることもあります。今日はこの喜び、ということを聖書からわたし達は教えられています。   1.この世の生活での私たちの喜び  喜ぶ、というのは何かの知らせを聞いた時に、期待していた結果が出たので喜ぶ、ということがあります。あるいは、欲しかったものを手にした時に、喜ぶこともあります。試験に合格した、就職できた、結婚が決まった、子どもが生まれた、など。また、そこにいるだけで自然と喜んでいる、という場合もあるのではないでしょうか。何か素晴らしい結果が出たとかいうのではなくても、その場にいること自体が嬉しくて喜んでいる、ということです。  そして私たちは、自分が喜ぶことについては、別に命じられなくてもそれを手にできる方へと動いてゆくことでしょう。自分を喜ばせてくれるものに対しては、それに向かって努力したり、多少苦労したりするのも厭わないのです。  そして幸いにも臨んだ結果が与えられれば、大変喜びます。たとえば事業が成功して利益がたくさん得られた人はそのことを喜ぶでしょう。しかし、その人には持病があって、健康のことを考え出すと、気持ちが暗くなってしまう。いつもそのことが気になってしまうということはあります。逆に健康で家族ともども元気だけれども、仕事上のトラブルがあって、それを思い出すとついつい思い巡らしてしまい、楽しんで休日を過ごすことができない。こういうことはあり得ます。生活すべてを覆いつくして喜びをもたらすものなど、あるでしょうか。   2.主の前での喜び  そのような喜びは、やはりこの世の中だけを見渡していても、見出すことはできないでしょう。そこで、神のことばである聖書では、喜びについて何と言っているかを見ましょう。それが、先ほど朗読した使徒言行録2章という箇所にあります。使徒言行録は、救い主イエス・キリストが十字架刑に処せられた後、三日目に復活され、弟子たちに姿を現されてか

「真の安らぎを得るために」2020.11.15
イザヤ書 32章15~20節

 この世の生活で私たちが必要としているものは何でしょう。一口に必要としているもの、と言ってもいろいろな面があります。住む家、食べ物、着るもの、健康、お金、などいろいろな答えが返ってくるでしょう。少し精神面に関して考えてみれば、愛、あるいは喜び、希望、などもあるでしょう。今日は、題にも付けましたように私たちにとって必要なものは「真の安らぎ」である、という点からお話しします。私たちはこの世で、知らぬ間に心と体に痛手を受けていて、その癒しのためには真の安らぎが必要なのではないでしょうか。「真の」というときには、他のものが安らぎをもたらす、というのと一線を画して、それだけが与えることのできる安らぎを示します。その場限りの、時間と共に色褪せてゆくような安らぎではなく、決して奪い去られず、時間と共に過ぎ去ってしまうものでもない。そういう安らぎです。しかしそのような安らぎはなかなか手に入れることができないので、私たちは、つい手近なもの、目に見えるもので安らぎを得ようとします。しかしこの世にあるものは、やはり過ぎ去ってしまうのです。今日は、聖書が私たちに教えている真の安らぎについて、聞こうとしています。神がくださる真の安らぎがあることを私たちは教えられています。   1.神に立ち帰れ  先ほどイザヤ書の32章から朗読しましたが、この少し前から、イスラエルの裁きと救いについてしきりに語られています。苦しむ人が主にあって喜び祝うようになる(29章19節)、と言われたりするのですが、すぐに厳しい審判の言葉が出てきます(30章1節)。その繰り返しのような印象すら受けます。神の目から見ると、神がご自分の民としてお選びになったイスラエルの人々は、どうしようもなく罪を犯しているが、主なる神はそれでも赦しと救いの道を備えているのだ、と言っているのです。  「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(30章15節)とも言われています。しかし民はそうしなかったのです。静かになどしていられない、馬に乗って逃げようと。それでも主は憐れみを与えようとして立ち上がられるのです(同18節)。  人々は、自分たちの国が危機に見舞われた時、近隣の大国に寄りかかろうとしていました。イスラエルにとっては北にあるアッシリアという大国に攻め込まれそうになると、南に

「人生の揺るがぬ土台」2020.11.8
 マタイによる福音書 7章24~29節

 私たちは、この世で一体何を拠り所として生きているのでしょうか。この問いに対しては、いろいろな答えがあるでしょう。自分の信じる神様だ、とか、自分の意志決定だ、という勇ましい人もいるかもしれません。また、そもそもそんな問いに対する答え自体を考えない、という人もいるかもしれません。何も依り所などなくても、その時その時、良いと思った方へ進み、好きなようにやる。自分を縛るもの等ない、という自信に満ちた人もいるでしょうか。新刊書の広告を見ているといろんな宣伝文句が目に入ってきます。先日も、旧式の価値観に合わせることなどしないで生き延びる、というような作者の言葉が紹介されている書物の広告がありました。その本を読んだわけではありませんが、今、私たちが聞こうとしている聖書に書かれているイエス・キリストの言葉や、キリスト教の教えと価値観といったものも、もしかすると旧式の価値観という枠の中に入れられてしまうのかもしれません。実際、中世ヨーロッパでは、教会の権威が強く、人々がその旧来の権威に縛られていた中で、ルネサンスが起こり、人間がその旧式の権威から解放されて、人間性の強調、個性の解放と自覚、といった面が開かれた、という一面があります。宗教改革と共に展開された、という国もあったようです。ルネサンスはともかく、宗教改革によって光が当てられ、聖書の神の御言葉に改めて耳を傾けようとする姿勢が教会に与えられました。結局それは神の御言葉である聖書の光に照らされて私たちを、この世界を、神様と人間を理解するということでした。今日の私たちも、決して古びることのない、このイエス・キリストの御言葉に聞きます。私たちの人生において確かな 拠り所とすることのできる土台、これについてイエス・キリストの語られる御言葉に聞きましょう。   1.賢い人と愚かな人  主イエスは、大変慰めに満ちた、慈しみ深い御言葉を語られましたが、時には人の心の思いの深い所に突き刺さる御言葉を語られました。イエスの御言葉は、いつでも耳に優しい、受け入れやすい言葉ばかりではなく、私たち人間そのものの存在に深く関わることを語られました。今日の御言葉もそうです。賢い人と愚かな人、という二種類の人を描き出すことで明らかです。イエスが語られた「これらの言葉を聞いて行う者」は賢い人に似ている。逆に「聞くだけで行わない者」は愚かな人に似ている、と

「生きづらい世の中で」2020.11.1
フィリピの信徒への手紙 4章10~14節

 この世は生きづらいでしょうか。この問いに対してどう答えるかは人によるでしょう。今日の題には、世の中は生きづらいものだ、という断定が含まれています。生きづらいと思っていない人がいたら、まずそこで反発するかもしれません。ただ、今はそう思っていないとしてもかつてはそう思っていたかもしれません。また、今後そう思うようになるかもしれません。いずれにしても、生きづらい、というのは何かやろうとしてもうまくいかない、普通に生活したくてもできない、人並みの生活ができない、性別や能力でふるい分けられて思うようにいかない、といったことが要因となってそのように人は感じるのでしょう。なぜ世の中はそうなのか、そういう世の中でどうしたらよいのか。今日はそういったことについて、神の御言葉である聖書は私たちに何を教えているのかを聞きたいと思っています。   1.いろいろな立場によって生きづらさも様々  「女性はなぜ生きづらいのか」という題名の本があります。精神科医や臨床心理士の三人の女性が書いているものですが、この題名だけでも或る事実を示しているのではないでしょうか。女性、というだけですでにこの世、この社会は生きづらい、ということです。いや男性も生きづらいという声も聞こえてくるかも知れません。確かにそうかもしれませんが、だいぶ前から、女性の社会進出が謳われる時代にあって、確かに女性が自分の仕事など、やりたいと思うことをしようとしても、いろいろな壁があるというのは事実でしょう。男性と同じように就職しても、結婚、出産等を通して、退職に至ったり、退職までしなくても子育てしながら働こうとして保育所を捜してもなかなか入れない、ということもあります。もちろんそれは夫がいるなら夫婦で協力すべきですが、妻の方がどうしても子どもの面倒を見る時間を多く割くことになる、こともあるようです。こうしてみるとやはり子供を産むのは女性であるという決定的な事実に向かうことになります。勢い、子育ては妻が担い、夫は外で働くという図式ができてきます。また、古来考えてみれば男性の方が力があり、外で狩猟や漁業や林業に携わる、土木工事や建設に携わるとなるとやはり男性が外で働く、という形ができているのでしょう。  もちろん、今の社会では、男性も能力によって道が開かれたり閉ざされたり、リストラされたり、社会の中ではやはり生きづらい、息苦し