投稿

1月, 2022の投稿を表示しています

「主こそ、天と地の神である」2022.1.30
 ヨシュア記 2章1~14節

 私たちは、聖書の舞台となったイスラエルや周辺の国々からはるか遠くの日本に住んでいます。そしてこのヨシュア記の出来事は、今から3千数百年前のことです。それ程の距離と時間の隔たりがあっても、私たちも同じ主なる神を信じ、礼拝しています。今日の話は、イスラエルの人々がエジプトを出てカナンの地に入って行こうとする中で、ヨシュアがエリコの町に偵察隊を送り、その2人がラハブという女性にかくまってもらった出来事でした。異邦人の中にも、主を畏れて従おうとする人がいたのでした。イスラエルの神、主は、天と地の神であられるからです。   1.遊女ラハブの信仰  ヨシュアから送り出された2人の斥候は、エリコとその周辺を探りに来ましたが、そのことがエリコの王に伝わりました。シティムはヨルダン川の東11キロメートルほどの所で、イスラエルの人々がヨルダン川を渡る前、最後に陣営を設けた場所です。2人は遊女ラハブの家でかくまってもらいました。ラハブが言うように、エリコの人々は、イスラエルの神、主が民をエジプトから導き出して大いなる業をなされたことを伝え聞いて怖気づいていました。  ラハブは、エリコの王のもとから遣わされた人がその二人を引き渡せと迫った時に、その2人は日が暮れて城門が閉まる頃に出て行ったと言います。彼女は、2人の斥候たちを守るために事実ではないことを言って、追っ手たちを先へと追いやりました。このラハブについて新約聖書のヘブライ人への手紙では、彼女は様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済んだ、と述べています(11章31節)。また、ヤコブの手紙では、使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされた、と述べています(2章25節)。彼女とその一族が滅ぼされずに助かったことです。どちらも、ラハブが追っ手たちを欺いたことについては何も触れていません。問題にしていません。十戒では隣人について偽証してはならない、と命じられています。レビ記は「うそをついてはならない。互いに欺いてはならない」(19章11節)と命じています。  ラハブはこれを破ったのでしょうか。隣人について偽証するなとは、その人の不利益になるような偽りの証言をするなということです。不正な裁判が行われて、不当な罰を受けないためです。それは命を守ることで

「恵みの善い管理者として」2022.1.23
 ペトロの手紙一 4章1~11節

 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっている。まずこの一点について私たちはよくよく顧みる必要があります。賜物は神が一人一人に振り分けるものです。そしてそれは何のためかといえば、神がお立てになったキリストの教会において、互いに仕え合い、キリストの教会を担って行くためです。賜物は、神が振り分けられる以上、そのために役立つものであるはずです。私たちに命じられているのは、それをよく用いることです。そして心しておくことは、私たちは管理者であるということです。今年の歩みを思い巡らすにあたり、この御言葉に聞きましょう。   1.神の恵みとは  神の恵みについて、聖書は私たちにとても大事なこととして教えています。神の恵みなしには何も起こりえないと言ってもよいくらいです。恵みとは一方的に与えられるものであり、報酬とか代金とかを求めないものが恵みです。そして単にただで、無償で与えるというだけではなく、神の恵みが与えられる時にはそれは神の御好意が込められています。この世で、例えば何らかの寄付金を私たちが求められたとして、それに対してあまり関心はないけれども、しきりに願うのでこちらにも少し余裕があるから、では寄付に応じようとしたとします。寄付する相手のこともあまり知らないし、それに対する思いもさほど熱いものはないけれど寄付しておこうという気持ちです。神の恵みはそういうものとは全く違うものです。まず、神は私たちが願う前から恵みを与えてくださっており、用意しておられます。また恵みを与える相手に対して大変熱い思いを持っておられます。まずそのことをよく覚えましょう。  神の恵みは、大きく2つの点に分けて考えられます。まず私たちをこの罪深い世から救い、私たち自身のうちにある罪を赦し、救うために注がれる恵みです。それは特別に神がある特定の人々に注がれる恵みです。キリストへの信仰に導き、救いを与えるのは、神が天から雨のように誰にでも降り注いでおられるものではなくて、特別な恵みです。  それに対して、それこそ雨や太陽の光、いわゆる自然の恵みなどは、一般的な恵みです。善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を昇らせてくださる恵みです。今日ここで学ぼうとしているのは、先に挙げた恵み、神の特別な恵みです。しかし、神のさまざまな恵みとありますように、これは救いを与える恵みから恰も流れ出すように与えられる恵みです。

「民の代わりに死ぬイエス」2022.1.16
 ヨハネによる福音書 11章45~57節

 救い主イエス・キリストは、死んでから4日も経っていたラザロを生き返らせました。このことを聞いたユダヤ人の指導者たちがどのように対応したかということが今日の箇所に記されています。私たちはここから、神の御子のなさったことに対する人間の行動の一つの典型を見ることができます。そこには、目先の利益を優先する人々の姿が浮かび上がってきます。そして、そのようなこの世に生きる私たち罪人のために代わりに死んでくださった十字架のイエス・キリストを見るのです。   1. 目先の利益を優先する指導者たち  イエスがラザロを生き返らせたのを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じました。つまり信じない人もいたのでした。主イエスはいろいろな奇跡を行われましたが、奇跡がいくら行われても、それを本当に神からのものとして認め、へりくだってイエスを神の御子と受け入れるのでなければ人は信じるには至らないわけです。信じない人は、イエスが行った業には何かからくりがあるのか、神ならぬ何か別の力によっているのではないか、と考えるか、目の前で奇跡は見たけれども、受け入れたくないので受け入れないということもあり得ます。ここに登場する祭司長たちとファリサイ派の人たちがそうでした。目撃者たちの報告を聞いた彼らは、対策を練ります。その知らせを聞いて、本当だろうか、イエスはこれまでもいろいろな奇跡を行ってきたと聞いているが、一体その正体は誰なのだろうか、と真剣に考えるのではなく、どう対処したらよいか、という問題にすぐに目を向けていることが分かります。  なぜかと言えば、彼らはイエスのなさったことそのものに目を留めるよりも、自分たちの国の成りゆきのことが心配で、ローマ人が来ることを恐れているのでした。この頃、ユダヤの国はローマ帝国の支配下にあり、ユダヤ人はこれを苦々しく思っていました。ローマ人が来て、というのは、イエスがしるしを行うことで人々がイエスを担ぎ上げて、ローマに反抗するようなことが始まるとしたら、神殿も国民も滅ぼされてしまうに違いない、と考えてのことです。それ程にローマの軍事力は強かったわけです。最高法院に属する人たちは、いわば国会議員ですから、国の成り行きに神経を使うのですが、イエスという人物がこの頃人々の注目を集め、神から来られた方として自分を現して様々な奇跡や良い業を各地で行っているのを見聞きしても、そ

「信じるなら神の栄光を見る」2022.1.9
 ヨハネによる福音書 11章28~44節

 私たちが目に見えない神を信じ、その御子イエス・キリストを信じているのは聖霊なる神が恵み深いお働きによって、私たちを信仰に導いてくださったからです。では、私たちがこの世で信仰を与えられて生きていく時、何が変わってくるのでしょうか。救いが与えられ、永遠の命が与えられます。少し角度を変えてみると、人生観世界観が新しくなります。今日の主イエスの御言葉では、信じるなら、神の栄光が見られる、と言っておられます。今日はこのことを中心に主イエスのなさったことを見、その御言葉に聞きましょう。   1. 死人を前にしたイエス  主イエスは、親しくしておられたラザロが病気であることを知らされてから、なお2日同じ所に滞在され、それから出かけられました。ついた時には既にラザロは死んで墓で既に4日も経っていました。ラザロの2人の姉妹、マルタとマリアに主イエスは会われますが、この2人とも全く同じことを口にします。日本語訳でもそうですが、原文でも一言一句同じです。恐らく2人の姉妹は、死にそうなラザロを前に、もしイエス様がいてくれたらよかったのに、ということを語り合っていたかもしれません。全く同じ気持ちを抱いていたのでした。しかしこの2人はやはり性格も違っていたようで、主イエスを前にしての行動は少々違いました。マルタは恐らく姉でしょうが、悲しい状況の中でも落ち着きを失わず、村に来られたイエスを出迎えます。しかしマリアは家に留まり、イエスがお呼びだというマルタの言葉を聞いてから初めて立ち上がり、イエスのもとに行きますが、イエスを見るなり足元にひれ伏した上で、先ほどの言葉を発し、そして泣いていたのでした。あふれる感情を抑えきれなかったのでしょう。  この様子をご覧になった主イエスはマリアや一緒に来た人たちの泣く姿を見て、「心に憤りを覚え、興奮」して言われたとあります(33節)。このイエスの様子を巡っては、理解の仕方が人によって多少違うようです。つまり、人の死を前にして、神の御子であるイエスは、私たちのように死を前にして無力な、普通に弱さと罪を持つ人間とは違って、感情に動かされることはないのではないか、というような考え方です。確かに私たちは、死というものを前にすると、平静ではいられません。どんなに神を信じ、また復活を信じていても、目の前で自分の特に愛する者が死んでしまった時に全く冷静ではいられない

「神に依り頼めば恐れはない」2022.1.2
 詩編 56編2~14節

 主にあって、新たな年を与えられました。主にあって感謝し、挨拶を申し上げます。私たちのこの世の生活では、前年に身内の誰かが亡くなると、新年のご挨拶は控えます、という喪中の通知を普通出します。私たちはそういう生活習慣の中にあります。これは聖書でも喪に服するということがなされていますから、そのこと自体、私たちは普通に行うものです。しかし、主にあっては、新たな年を迎えられたことについて共に挨拶を交わすということはします。お互いの内に主の恵みと祝福がありますように、という祈りを伴う気持ちはいつでも変わりはありません。今日は新年礼拝にあたり、この詩編56編から、神に信頼する人の信仰を見て私たちも神の光の中をまた歩み続けさせていただけることを学び、歩み始めましょう。   1.神にあって御言葉を賛美する信仰  作者は人に踏みにじられている、と神に訴えています。戦いを挑み、虐げ、陥れようとする者たちに取り巻かれている状態です。災いを諮り、待ち構えて争いを起こし、命を奪おうとして後をうかがうとまで言われています。まるで孤立無援の状態で、こんな窮地に立たされる経験をした人は、あまりいないかもしれません。しかしどんな状態であれ、似たような思いに落とされることを、この世の生活の中で経験される方はおられることと思います。ここでは特に人からの悪に基づくものですが、それに限らず私たちの周りには、私たちを恐れさせるものが常にあります。  この作者は日頃から主により頼んで生きている人でしたが、特に、恐れを抱く時、神に依り頼むと言っています。神の前ではたとえどのような人が自分を恐れさせても、そのような者たちは肉にすぎない、とわかっています(5節)。神と肉とが対比されています。何と大きな違いでしょう。神は天地万物の創造者。人は塵から造られ塵に帰るべきもの。神の息が吹き込まれなければ生きることができず、死ねば朽ちてゆく肉の体を持っているにすぎません。そのように肉に過ぎない者は自分に何もなしえないのだと作者は知っています。主イエスも同じことを言われました。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(マタイ10章28節)と。むしろ神を恐れなさい、と続けて教えておられます。しかし私たちは神を神として畏れ敬い、より頼むならば神は恐ろしい方ではなく、より頼むべきお方、頼れるお方であり、体も魂も共