「その証しは真実である」 2023.8.6
ヨハネによる福音書 19章28~42節

 信仰とは、目に見えない神を信じることです。それは、過去に神がなさったことについて信じることであり、またこれから先、神が言われたことが起こる、と信じることです。それだけではなく、神が言われたことが自分の身に起こる、と信じることです。例えば、ある人がイエス・キリストを信じたとします。その人が信じている、という事実は、だれも変えることができません。その人の家族は、自分は信じていなくても、その人がクリスチャンだと認めるしかありません。それは信仰でも何でもなく、目の前にある事実を認めるだけです。しかし、その人の中に神の聖霊が働いて、信仰を起こし、信仰告白へと導かれたのだ、と周りのクリスチャンが認めるのは、これは信仰です。神のお働きが確かにその人の内にあって、心を動かし、イエス・キリストを目撃していないのに信じている、と受け止めるのは周りの人の信仰です。ではどうしてそのように受け止めるのか、と言えば、それはその人が信じるようになったということについて、私たちに対するいくつもの証言があるからです。この証言によって私たちの信仰は成り立っています。今日は、この朗読箇所から、このことを教えられているのです。


1.十字架上のイエスについての証言

 十字架につけられたイエスについて、ヨハネは旧約聖書の預言を引きながら語って行きます。十字架の上から弟子のヨハネ(ヨハネによる福音書の記者)に自分の母親のマリアをゆだねた後、イエスはすべての事が成し遂げられたのを知ったのでした。「渇く」とは、詩編69編22節によります。「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」という一節です。詩編の言葉がイエスおいて実現したのでした。全てのことが成し遂げられた、とは、罪のない神の御子が十字架にかかることにより、多くの罪人の罪が償われ、罪の赦しが与えられるために必要なことが実現に至ったからです。この後、イエスは人々が差し出した酸いぶどう酒を受け、そして「成し遂げられた」と言って息を引き取られました。息を引き取られた、という言い方は私たちも普通に使いますが、これは霊を引き渡すという表現です。人の霊は神から与えられたものであり、それは、この世を去る時に与えてくださった神に引き渡すものである、ということを教えています。私たちは死んでこの世を去る時に、自分のこの後がどうなるのかを自分の力でもはやどうすることもできません。しかし、主イエス・キリストにつながっているならば、恐れることなく命を与えてくださった神に霊を引き渡して委ねることができるのです。


2.聖書の証言に基づいている

 イエスが死なれるその直前に起こったことについて、すでに聖書の言葉が実現していることを見ました。更に、十字架上のイエスの体をどうするか、という問題についても、一つ一つ聖書(旧約聖書)の言葉が実現していることをヨハネは次々に示してゆきます。

 旧約聖書の申命記には、木に架けられて処刑された人の死体はそのままにして夜を過ごしてはならず、必ずその日の内に埋めなければならない、と命じられています(21章22、23節)。それで、ユダヤ人たちはイエスと他の二人を、安息日が始まる前に十字架から取り下ろしたかったのでした。安息日は日没と共に始まりますから、日没後に死ぬとなると、そのままになってしまうからです。安息日には何もできなくなるからです。それでユダヤ人たちはピラトに願い出て、それを受け入れたピラトは兵士たちに、十字架につけられた者たちの足を折らせたというわけです。足を折るのは、それまで何とか体を支えていた足を折ることにより、全体重が腕の方にかかるようになり、そうなると呼吸ができなくなるので、処刑された人はほどなく死ぬことになるからです。

 それでイエス以外の二人はまだ生きていたので足を折られましたが、主イエスは既に死んでおられたので、足は折られなかったのでした。「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉は、過越しについて記している出エジプト記や民数記にあり、例えば民数記には「いけにえの骨を折ってはならない」(9章12節)と命じられています。主イエスは私たちの罪を償うためのいけにえの献げ物であるからです。

 そして、兵士の一人がイエスのわき腹を刺した、とあります。するとすぐに血と水とが流れ出ました。ヨハネはその手紙で、イエス・キリストは水と血を通って来られた方である、と書いています。水は罪の清めを表しており、血は罪の贖いを表しています。そしてわき腹を兵士が突き刺したことについて「彼らは自分たちの突き刺したものを見る」と言う言葉を引いています。これは旧約聖書ゼカリヤ書12章10節です。「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自身が刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」。これは神御自身の御言葉です。神御自身の御言葉です。神は、エルサレムの住民が刺し貫いて見つめたのは私である、と言っておられます。そしてヨハネはこれがイエスの十字架の死において実現したのだ、と言っているのです。つまり十字架上のイエスに槍を突き刺し、それを見た人たちは、神御自身を見つめていたのだ、ということになるのです。

 このように、「渇く」と言われたこと、骨を折られなかったこと、イエスを突き刺したこと、これらが旧約聖書の言葉の実現でした。そして、血と水についてのヨハネ自身の証しもあったのでした。


3.イエスに関する証言は真実である

 これらのことは、十字架につけられた主イエスが確かに死なれた、という事実を抜きにしては成り立ちません。その命を献げて死ぬ、ということを抜きにしては罪の清めも贖いも成り立たないからです。それで、この次に、イエスの葬りに関することが38節以下で詳しく記されます。イエスの弟子であるアリマタヤ出身のヨセフが遺体を取り下ろして香料を添えて亜麻布で包み、ニコデモも没薬と沈香を百リトラばかり(32キロ程)持ってきて、葬ったのでした。誰も葬られていない新しい墓にイエスの遺体は納められました。このような一連のことが施されたので、イエスは確かに死んでおられたことが示されています。

 そして、先ほど言いました、聖書の言葉の実現と、血と水についてのヨハネの証しが真実であること。この点を改めて覚えたいのです。初めに、私たちが主イエス・キリストの十字架の出来事を受け入れ、信じるのは、それについての証言を信じるからだ、とお話ししました。主イエスについて起こったことは、聖書に予め語られていた言葉の実現でした。イエスが十字架で死なれ血を流されたこと、水が流れ出たこと、十字架の上でイエスを突き刺したということは、すなわち神を突き刺したのだということ。このような多くの証言がイエスについてなされています。

 現代人は何かと物的証拠や科学的証拠を求めるかもしれません。それはそれで社会生活においては大事なものではあります。しかし神について、その御子、救い主であるイエス・キリストについては、神は御自身が聖書を通してお語りになったことと、主イエスのなさったことを見て受け入れ、信じた者の証言を用いられます。それは人の心の内に神は働きかけることができるからです。物的証拠ではなく、私たちの心の内で証言される神の聖霊の力強いお働きがあるのです。これはイエス・キリストのなさったことと一つのものであって、それを見て信じる者の内に働きます。神の聖霊がなさる証言に勝るものはありません。たとえイエスの死の場面と、ましてや復活したイエス・キリストを見ていなくても、「私は主イエスを信じ、その復活を信じます。そしてこの方こそ私の救い主です」という信仰の告白は確かな真実なものである、と私たちは言うことができます。「あなたがたにも信じさせるために」(35節)、とヨハネはわざわざ書いています。旧約聖書の証言、イエスの死を目撃した者の証言、そして今日、目撃していなくても信じる者の証言。これらはみな一つにつながっています。それ私たちが勝手に思い込んでいるものではなく、歴史の中で脈々と息づいて、力強く働いておられる神の業なのです。

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