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「聖徒の交わりを信ず」2019.7.21
 ヨハネの手紙一 1章1~10節

 昨日は、教会の一日修養会でした。年間標語からお話しするのが恒例になっています。今日は昨日のテーマも心にとめつつ、使徒ヨハネが書いたこの手紙の冒頭から、聖徒の交わりについての教えに聞きます。先ほど使徒信条を唱えましたが、最後は、「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、とこしえの命を信ず、アーメン」と終わります。父なる神とキリスト、聖霊を信ず、そして罪の赦しと復活と永遠の命を信ず、というのは分かりやすいと思います。信じる対象としての三位一体の神様、そして何が与えられるかを信じる、ということですから。聖なる公同の教会と聖徒の交わりは、神様を信仰の対象として信じる、ということとは少し違いますが、しかし、やはり私たちが信じるべきものであり、私たちはそれを「信じて」信仰の道を歩んでいるのです。 1.聖徒とは  聖徒とは、聖なる者とされた者、聖別されたもの、つまり神のものとされた人のことです。それはその人自身が全く罪なき者となってしまったということではありません。罪は残っているけれども、神のものとされ、神の子ども、神の家族とされた者です。それはその人が自ら望んで、自分から聖徒になったわけではありません。神に願い出て、神がその人の状態、内面、罪について調べて、聖徒になれるかどうかを判定した上で聖徒にされるのではありません。私たちが知らない所で神は既に私たちに目を留めていてくださって、キリストを救い主として与えてくださり、そして時至って聖霊の恵みによって私たちをキリストのもとへと招き寄せてくださって、福音に触れさせ、心に働きかけて悔い改めと信仰へと力強く導いてくださったからこそ起こることです。十字架と復活のキリストを信じて、その恵みにあずかりたいと願い、洗礼を受けて主に従って生きる者は、神の聖徒とされたのです。  今日、小学校に子どもたちが就学する年齢になると、市町村から通知がきて、あなたの子どもは就学年齢に達するから、4月からどこそこ小学校に入学するように、と言われます。その時は定まっています。うちの子どもは優秀だから4歳で小学校に入学させてくれと言っても駄目です。どんなに優秀でも、そうでなくても、定められた時に入学するようになっているのです。神の前での私たちは、それと同じではないけれども似ています。神は予め私たちを知っておられ、キリス

「キリストからの恵みと平和」2019.7.14
 エフェソの信徒への手紙 1章1~14節

 聖書に触れるようになりますと、大抵は新約聖書の福音書から読み始めて、だんだんと使徒言行録、そして手紙へと進んでいくことになりますが、後半は多くの手紙が収められています。使徒パウロが書いたものが13通ほどあり、その他ヤコブ、ペトロ、ヨハネなどのキリストの使徒や弟子たちの書いたものがあります。特に使徒パウロが書いた手紙をみると、大体似たような書き出しで書いております。今日のエフェソの信徒への手紙もそうです。使徒パウロから、どこそこの教会へ、と書き出し、そして神とキリストからの恵みと平和を祈る、と続くかたちです。手紙によって多少違いはありますが、大体パウロはそのような書き出しをします。今日のエフェソの信徒への手紙は、今言った形が、最も単純に示されていると言えます。今日はその挨拶である、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」という言葉が私たちに教えている所に聞きたいと考えています。 1.罪から救われる恵み 「恵みと平和」。この二つの言葉は、特に聖書を読み始め、教会に来始めるとしばしば目に、あるいは耳にする言葉でしょう。神とキリストからの恵みという言葉には、大変深く広い意味が込められています。 私たちは日常生活の中で、人に何かを恵んであげる、という言い方を聞くことがあります。上の者、あるいはたくさん持っている者が持っていない者に向かって恵んでやる、分けてやるという感じがあります。人からではない場合、好天に恵まれる、とか恵みの雨が降る、と言うことがあります。辞書によると、現在では受け身で言われることが多いそうです。恵まれた生活、恵まれた環境という使い方です。それで、人が人に何かを恵むという場合と人ではない自然とか偶然のような、人間が左右できないものによって何かが与えられる、という場合があることがわかります。 しかし、聖書では漠然としたものではなく、明確に神の恵みについて語ります。神こそ、私たちに恵みをくださる方です。そして、真の神を知ると、先ほどの自然の恵みなども実は神からのものであったと知ることになるのです。 神が私たちに与えてくださった最大・最高の恵みとは、イエス・キリストという救い主です。神のもとからさ迷い出して勝手な道へ歩き出していた私たち罪人を罪から救うために遣わされた神の御子、イエス・キリストこそ何にもま

「神の摂理の中で生きる幸い」2019.7.7
 マタイによる福音書 10章26~31節

 私たちがこうして日々生活し、生きていられるのは、生ける本当の神がおられるからであります。私たちが毎日目覚めてそれぞれの一日を始められることを、私たちはつい当たり前のように考えてしまいます。確かに、今日もいつもと同じように一日が始まりました。しかし、私たちは自分の体も心も、全て自分の思い通りにしているわけではない、このこともまた知っています。ある日突然昨日までとは違う健康状態になってしまった、ということも人にはあり得るわけです。そういうことを少し悲観的に考え始めると、それこそ一寸先は闇、ということわざに捕らえられてしまい、いつもある不安を抱きながら生活することになってしまいます。私たちのこの世での生活、そして命そのものはなんと頼りないものなのだろうとさえ思うようになります。しかし、私たちは決して頼りにならない自分次第、というような、あるいは運任せ、偶然まかせのような人生を送るためにこの世に生かされているのではない、ということを知らねばなりません。今日は、題にもあるように、神の摂理の中に生きる者の幸いを教えている神の御言葉に聞きたく願っております。すべてのものを造られ、すべてを見ておられ、すべてを御心のままに納めることのできるお方のもとに生きていることを知る。これは本当に幸いなことです。 1.人々を恐れてはならない このマタイによる福音書が書かれた頃には、イエス・キリストを信じるクリスチャンたちがローマ帝国の中に増えてきていて、同時に迫害の脅威も見えてきている時代です。そういう状況の中で、この主イエスの御言葉は、信徒たちを励まし、しっかりと信仰に立つことを教える力強い言葉であったはずです。主イエスは、ご自分が十字架にかかり、死んで復活し、天に昇ることをご存じでした。そして、聖霊が降られることによって各地への宣教が始まり、信徒たちが各地に増え広がってゆくけれども同時に迫害も起こって来ることも知っておられました。それゆえ、このように将来の迫害を見越したうえで弟子たちを力づけ励ます御言葉を語っておられるのです。この時、イエスと共にいた弟子たちには、まだ迫害が起こって来ることが実感としては抱くことができなかったのではないかと思います。それに対して、イエスの昇天と聖霊降臨後、何十年か経った時代に生きている信徒たちは、この主イエスの御言葉をより切実に感じたことでしょう

「神は善い業を始められた」2019.6.30
 フィリピの信徒への手紙 1章1~11節

 今日は、フィリピの信徒への手紙から、救い主イエスキリストの救いの恵みに与った者に与えられる恵みについて、教えられています。この手紙を書いた使徒パウロは、紀元1世紀の生粋のユダヤ人であり、最初はキリスト教の迫害者でした。イエスは救い主、メシア=キリストである、とは全然思っていなかった人でした。むしろ反対にキリストを信じる人々を迫害し、捕らえ、牢屋に投げ込む、というばかりか、殺そうとさえ思っていたのでした。それほどまでに徹底した迫害者であった、パウロでしたが、彼は迫害の途上、天から語りかけて来られたイエスによって、新しくされて、キリスト教会の迫害者から、誰よりも多くの人に福音を伝えた宣教者とされたのでした。その使徒パウロがフィリピの信徒たちへあてて書いたこの手紙は、パウロの感謝と祈りが込められているものです。 1.福音にあずかっている恵み フィリピの町は、今のマケドニアにあるローマの植民都市でした。使徒パウロは宣教を始めてから、まず小アジア地方で伝道し、そしてヨーロッパへと足を踏み入れましたが、その最初の伝道地がフィリピです。パウロにとっては 思い出深い土地であったでしょうし、その教会の人々のことは大変心にかけていたはずです。1章3節を見ると、パウロがこの教会のことを神に大変感謝し、喜んでいることがわかります。 その喜びの理由は、フィリピの信徒たちが、最初の日から今日に至るまで福音にあずかっているからです。最初の日、というのは、フィリピの信徒たちが、イエス・キリストについての福音を聞いた最初の日、ということです。神を信じ、キリストを信じるようになった人は、誰でもみな、最初に福音を聞いた日があったはずです。今信者になっている人も、最初に聞いた時は何も感じなかった、という人もいるかもしれません。もしかすると、反発する気持ちをもっていたかもしれません。それでも、その人は福音にあずかっていたのです。与る、とは共有する、同じものを分け合って受けていることです。今、信者になって、キリストの教会において共に生きている人は、福音を分け合って受けている。福音のもたらす恵みの内にあって、キリストがくださる恵みを共有しているのです。 そもそも、福音に与る、ということは、神からの恵みです。私たちが自分から首を突っ込んで与らせてもらったのではなく、自分では求めていなかったのに