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「神の霊に心動かされて」2022.3.27
 出エジプト記 35章30~36章7節

 旧約聖書には、神の霊によって動かされ、その働きをなした人たちがいます。神は、御自身の御心を実行されるにあたって、特別なある人たちにそのようにされます。モーセ(民数記11章17節)やヨシュア(同27章18節)、ギデオン(士師記6章34節)やサムソン(同14章6節)、サウル(サムエル上10章10節)、ダビデ(同16章13節)などに神の霊が、時には激しく降ったり、その人を満たしたりしたことが記されています。そうしてそれぞれの働きをさせました。しかしそれは限定的な場合もありました(サウル等)。そういう特別な務めを与えられた人たちだけではなく、今日の朗読箇所のように、いろいろな多くの人たちが心を動かされて働きました。   1.エジプトの人々の好意を得ていた  ここでは、神を礼拝するための幕屋を建設するに当って、主は、民の持ち物のうちから、主のもとに献納物を献げるようにお命じになりました(35章5節)。この時代、主への献げ物は、実に種々のものがあるということがわかります。金属、毛糸、動物の皮、木材、油、香料、石、宝石類などです。その上で作るものは何かというと、幕屋そのもの、留め金、建材、至聖所、祭壇、それを担ぐ棒、すべての祭具や道具、祭司のための祭服や衣服等、実に多くのものが作られます(35章4~19節)。ここで命じられていることは、既に25章から31章までに記されていることですが、この命令を忠実に実行したことが35章以下で語られているのです。主が示される作り方に従って幕屋とすべての祭具を作るように主は命じておられました(25章9節)。   そして民はいろいろなものを持ってきます。襟留め、耳輪、指輪、首飾りなどの装飾品、様々な糸や毛皮、金属、宝石類、香料、油など。この人々は、エジプトで奴隷となっていた人たちでしたが、実にいろいろなものを持っています。イスラエルの人々は、エジプトで奴隷生活を長年にわたって送ってきました。時には、れんがを作るために必要な藁を与えられずに、自分たちで調達し、しかも以前と同じ分だけ作るようにという過酷な命令を受けたこともありました(出エジプト5章8節)。しかし、生活自体は、食べ物がないわけではなく、魚をただで食べられたし、野菜や果物も食べていました(民数記11章5節)。  また、イスラエルの民がエジプトを脱出する際には、主がイスラエルの人々に

「光のあるうちに信じなさい」2022.3.13
ヨハネによる福音書12章27~36節

 私たちは、自分のこの世での成り行きをすべて予め知っているわけではありません。もちろん、ある職業についていて、ある土地と環境の中で生活し、そこにいる限りはどのようなことが起こってくるかをある程度予測して備え、また自らの計画と努力によって切り開いてゆくこともそれなりにできるのは確かです。しかし、いくら用意周到に計画しても想定外のことは起こり、あるいは願った結果が与えられても、それが本当に自分の益になっているかどうかが疑わしくなることすらあり得ます。それに対して、主イエスは、御自身がこれからどのような道を辿ってゆくのかをご存じでした。天の父なる神によってこの世に遣わされた主イエスは、御自分に与えられた重大な務めを自覚しておられましたので、その重みが肩にのしかかっていました。人間の罪をその身に背負って十字架に架かり、御自分が死ぬことによって償いを成し遂げるということです。   1.天からの声を聞く  主イエスはそれを自覚しておられましたので、自分がどれほどの苦しみを受けることになるかを知っていました。それで、「今、わたしは心騒ぐ」と言われます。これはこの後起こってくることについて、人間としての恐ろしさを感じられたということです。神の御子なのだから超然としているということは主イエスにはありませんでした。神の御子でありながら、人としての御性質を取られたということは、人間が感じる様々な情感を主イエスも持っておられるのです。それゆえ、一度は「父よ、わたしをこの時から救ってください」という率直な願いを口にされました。  しかしすぐに御自身がこの世に来られたことの目的に立ち戻り、まさにこの時、つまり十字架に架かって殺され、多くの人の罪の贖いとなるために来られたのですから、その使命を全うすべきであるという点に立ち帰られたのでした。そもそも、心が騒ぐ経験をしたことのない人などいないことでしょう。何かを前にして不安感を抱く、漠然とした恐れを抱く、落ち着いていられない、という経験を誰もがします。それはこの世で生きている限りはなくならないことでしょう。主なる神を信じて生きているとしても、私たちはこの世ではそれを味わわなければなりません。この世において、誰よりも天の父なる神と力強く結びついておられた主イエスでさえ、このような心の動揺を覚えたのですから、私たちはなおさらです。そして私たちのた

「実を結ぶ一粒の麦」2022.3.6
 ヨハネによる福音書 12章20~26節

 主イエスは御自身のなさることをいろいろなたとえで示されましたが、今日の箇所で語られた一粒の麦のたとえは、印象深いものであり、特に誌的な表現でもあります。私たちが普通に持っている感覚からすると反対のことを主イエスはしばしば言われましたが、ここでもそのように語られます。死ぬことが命に通じる、死ななければ命に至らない、そう言われます。それを理解するためには、命と死、その言葉の意味を知る必要があります。そして今日のたとえでは、主イエス御自身のことだけではなく、主イエスを信じて従うものにもそのたとえが当てはめられています。   1.訪ねて来たギリシア人たち  過越しの祭りにエルサレムに来ていたギリシア人たちが主イエスに会いたがっている、と主イエスに伝えられました。それをきっかけにして主イエスは今日の教えをお語りになります。イエスにお目にかかりたい、とギリシア人たちは願ったのですが、それに対するイエスのお答えは、一見すると全然関係ないように見えます。確かに直接関係ないように見えますが、異邦人であるギリシア人がやってきたこと、そしてイエスが一粒の麦のたとえを話されたこと、この2つのことをヨハネは記すことで、これから十字架で殺されようとしているイエスの死こそ、多くの異邦人たちをも救い、その御業の実を結ぶことを示していると言えます。 ユダヤ人の指導者たちは、イエスを捉えて殺そうと考えていました。そしてその通りになってゆきますが、その死は、単に反対者たちに殺されるという単純なことではなくて、自ら命を捨て、死ぬことによって却って命を多くの人にもたらします。いくらユダヤの指導者たちがイエスを抹殺しようとしても、形として殺されはしても、その死こそが逆にユダヤ人たちの思惑に反してイエスによる救いを広めてゆくことになるのです。   2.イエスが栄光を受ける時が来た  主イエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た」といきなり言われます。ここにはまだギリシア人たちは来ていなかったように見えますから、ここでは主イエスは、ギリシア人の願いをきっかけにして、弟子たちに御自身の死の意味について教え始められたのです。  主イエスは御自身の死を、一粒の麦が死に落ちて死ぬことにたとえられました。麦の粒は、ただ袋に入れられて倉庫にしまってあるだけだったら、何の変化もなく、そのままです。しかし地に蒔かれて