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「主の御翼のもとに逃れる」2022.4.24
 ルツ記 2章1~13節

 旧約聖書は、神に選ばれた民であるユダヤ人を中心に様々な物語が語られています。しかし、その周辺の他の民族のことも当然記されており、その中には真の神を信じる人たちもいました。主なる神は特別にユダヤの人々を御自分の民としてお選びにはなりましたけれども、他の民族に対しても御自身のことを現し、そして信じるようにと招いておられます。それは救い主イエス・キリストの到来によりより明らかにされて、今日の私たちにまで伝えられています。私たち、日本にいる者などは、聖書の中に名前すら出てきませんが、全世界に対して主であられる神は、もちろん私たちの神でもあります。今日は、このルツ記を通して、ユダヤ人から見れば異邦人であってルツという一人の女性とその周りにいた人との話を通して、私たちもまた主の御翼のもとに守られていることを知ります。   1.主に導かれた出会いの中で  ルツはモアブ出身の女性で、ユダヤ人とは民族的には親戚関係にありました。ユダヤの地に飢饉が襲ったので、ベツレヘムからモアブの地に移り住んだエリメレクとナオミという夫婦がおりました。彼らには2人の息子たちがおり、彼らはそれぞれオルパとルツをそれぞれ妻としました。しかし、ナオミの夫も、息子たちも死んでしまい、失意のナオミは故郷ベツレヘムへ帰ろうとします。主が顧みてくださって、飢饉が終わったからです。しかし帰る途中、ナオミは2人の嫁に、自分の故郷へ帰るように勧め、オルパはその勧めを受け入れて帰ります。しかしルツは、ナオミから離れることを拒否し、一緒に帰って来たのでした。ルツは、ナオミたちの信じていたイスラエルの神、主を信じるようになっていて、その信仰ゆえにナオミから離れようとはしなかったのです。  2人は大麦の刈り入れの頃にベツレヘムに着きました。そして食べ物を得るためにルツは畑で落ち穂拾いをしようとします。そこで出会ったのがナオミの夫エリメレクの一族の人、ボアズでした。その畑はボアズの畑だったのです。ボアズはルツのことについて、その事情を知ると、彼女が不自由なく落ち穂を拾い集められるように、声をかけたのでした。イスラエルでは、主の律法によって、貧しい人や寄留者などが落ち穂を拾い集められるように残しておくよう命じられていましたから(レビ記19章9、10節)、ボアズはそれを実行していたわけです。  この畑での2人の出会いの背後に

「キリストは復活した」イースター2022.4.17
 コリントの信徒への手紙一 15章1~11節

 主イエス・キリストを救い主と信じるキリスト教会では、キリストの復活を記念する日をイースターとして記念し続けてきました。歴史的な経緯はともかく、古代の教会は、春分の日の後に来る最初の満月の次の日曜日をその年のイースターとすると決めて、全世界で救い主キリストの復活を祝ってきました。日本でも最近では、一般にもイースターが知られてきているようです。私たちクリスチャンにとって、主イエスの復活は、大事な記念すべき祝いの時です。今日は、キリストは復活した、という非常に素朴な題を付けました。この題に対しては、だからどうしたのだ、それが現代に生きる我々とどんな関係があるのだ、それにどれほどの意味があるのか、という問いを想定することができます。それについて主なる神が聖書を通して教えておられることを聞くときに、私たちはそれらの問いから出てくる大事な教えを知ることになります。   1.生活のより所となる福音  この手紙を書いた使徒パウロは、生粋のユダヤ人であり、厳格なファリサイ派という一つの派に属していて旧約聖書の律法を固く守って生きている人でした。そして一時は熱心にキリスト教を迫害していました。ところが復活して天に昇られた主イエスが、迫害者であるパウロに天から語りかけ、パウロを回心させて180度方向転換をさせ、新たにキリストの福音の宣教者としてお立てになりました。そして初代教会において他の誰にもまさるような多くの働きをし、各地に教会を築いてゆきました。その一端が書かれているのが8、9節です。  パウロは、自分がコリントの教会の信徒たちに告げ知らせた福音を、ここで改めて知らせると言っています。14章までで彼は教会の様々な問題について、質問に答える仕方で語ってきました。直前の14章の終りの所では、集会の秩序について教えていました。そのように教会の中に起こって来る様々な問題を前にして、一つ一つ彼は具体的に指示を与え、なすべきことを教え示してきたのですが、ここからは、キリスト教信仰にとって最も大切なことを語り始めます。いろいろな問題に、正しい信仰に基づく判断を下して、問題を解決してゆくこと自体は良いことなのですが、時に、最も大切なことは何であるかを立ち止まって考えてみることは有益であり、有益どころか、ぜひとも必要です。なぜなら、福音そのものは、信じた者にとっては、生活の拠り所となるからで

「十字架につく救い主」 2022.4.10
マルコによる福音書 15章16~32節

 この世での人間の生活、あるいは人生そのものと言ってもよいですが、それには苦しみが常について回ります。その苦しみと言っても、肉体の苦しみ、精神の苦しみ、その両方による苦しみ、良心の呵責による苦しみ、等がありますが、人は体に痛みを覚えなくても、大変苦しむことがあります。また、肉体とか精神の苦しみと言っても、それが病気によるものか、怪我によるものか、或いは自分の責任で苦しんでいるのか、などでいろいろと違ってきます。しかしとにかくこの世には苦しみが満ちています。そしてこの苦しみの満ちる世に来られた救い主イエス・キリストも苦しまれました。その苦しみは、人類の歴史の中で特別な苦しみとして書かれ、記念されてきました。今日、また受難週を迎えて、私たちは聖書の示す救い主イエス・キリストの十字架の死を前にして神の御心を聞きとりたいと願っています。   1.救い主の身に起こったこと  マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、といった福音書記者たちが記したイエス・キリストの苦難についての記事は、世界中で読まれてきました。そして、毎年、イエス・キリストの復活を祝い記念するイースターの前には、キリストが苦しみを受けたことを覚える受難週として受け止めて世界中の主イエスを信じる人々が過ごしてきたのでした。なぜイエスという方は十字架につけられて非常に残酷な刑罰を受けなければならなかったのでしょうか。これは多くの人々が考え、議論してきたことですが、私たちはあくまでも神が私たちに与えてくださった聖書の記述を通してそれを聞きとりたいと願っています。また、そうしなければ、私たちは聖書の教える真理に達することはできません。人が考え出したイエスの十字架の死の意味について学ぶのではなく、天の父なる神がどのようにお考えになっていたのかを知らねばなりません。そうでなければ、イエス・キリストの十字架の死の意味を悟ることはできないからです。  救い主イエス・キリストは、ユダヤ人の指導者たちの妬みを買っており、彼らはイエスを殺そうと企て、相談の上でイエスを縛って引いてゆき、ローマ総督のピラトに引き渡しました。ピラトは冷静にこの出来事を見ており、人々がイエスを引き渡したのは妬みのためと分かっていました。彼はユダヤ人の宗教上の問題だと見抜いていましたが、扇動された群衆の声に逆らうことを好まず、群衆を満足させようとしてイエスを十字

「神からの誉れを求めよ」 2022.4.3
ヨハネによる福音書12章36b~43節

 主なる神は、御自身のことを様々な仕方でこの世に現して来られました。すべてのものを創造された神の全能の御力は、被造物である自然界のいろいろなものによって現わされています。しかし、神の天地創造という信仰を受け入れない人たちは、この世界にあるものが神の造られたものだとは認めません。また、神はその御言葉を多くの預言者たちによってお語りになりましたが、それでも多くの人々はその御言葉を受け入れようとしません。そしてついには、神の御子であるイエス・キリストがこの世に人としてお生まれになって姿を現し、神の言葉を語り、更には奇跡を行われましたが、それでも信じない人は信じませんでした。目の前でイエス・キリストが奇跡を行っても、不信仰を貫く人は多かったのです。   1.不信仰の原因  それはいったいなぜなのでしょうか。主イエスが多くのしるしを人々の目の前で行っても人々が信じなかった理由を、この福音書を書いたヨハネが記しています。今日の朗読箇所は、イエス御自身の御言葉はなく、福音書記者のヨハネは、旧約聖書の預言者イザヤの言葉を引いてこのことを説き明かしています。  ヨハネが初めに挙げているイザヤの預言は、53章1節です。ここでは、神によって立てられた神の僕が、苦しみを受け、そして死ぬことを描き出しているのですが、この僕の姿があまりにも惨めなものであり、その上、今まで誰も聞いた事も見たこともないようなことがこの僕を通して起こったので、人々も王たちも彼を見て口を閉ざしてしまう、ということをイザヤは語っておりました。そしてここで描き出されている神のしもべこそ、今ヨハネが書いているイエス・キリストでした。イザヤは、このことを人々の中で誰が信じることができようかと語ります。  さらにイザヤは、人々が信じることのできなかった理由まで述べているとヨハネは記します。2番目の引用は、イザヤ書6章10節からのものです。これは、人がなぜ神を信じないかということの究極の理由を述べている預言です。人の心が頑なになるのは、神御自身がそのようになさっているからだ、というのです。これには少し説明が必要です。人を創造し命を与えておられるのはすべてを造られた主なる神です。その神の前に、すべての人間は罪を犯しています。その意味では、誰一人神の御心に適う者はいないのであり、生まれながらに神に対しては頑なな心を持っていて