「見えなかった私が、今は見える」2021.9.26
ヨハネによる福音書 9章24~34節
約2ヶ月ぶりに、ヨハネによる福音書からの説教に戻ります。主イエス・キリストを、永遠からおられる神の御子として私たちに力強く示してくれているこの福音書に、また改めて耳を傾けましょう。主イエスのそば近くにいてその御言葉をいつも聞いていた12弟子の一人ヨハネを通して、主は私たちに御自身の恵みと御力を、今日も確かに与えてくださいます。 1.ただ一つ知っていること 9章前半では、主イエスが生まれつき目の見えなかった人の目を見えるようにしてあげた後、それを知ったファリサイ派の人々がその人に対していろいろと質問をする、という場面が続きました。ファリサイ派の人々は、この人が生まれつき目が見えなかったということをなかなか受け入れられず、その両親にまで問いただしたのでした。しかし両親は、会堂追放を恐れるあまり本人は大人だから直接聞いてくれるように言います。その結果、ファリサイ派の人たちは再び本人を呼び出して尋問するのでした。 ここで問題になるのは、この人の目を開けて見えるようにしたイエスが、罪ある人間かどうか、という点です。ここで言う罪ある人間、とはどういう意味でしょうか。全ての人間に、神の前での罪がある、という事実はユダヤの人であれば知っていることです。しかしユダヤ人からすると、神に選ばれた自分たちは神の選びの民、選民であって、世界中の多くの民族の中で特別な存在です。そして、旧約聖書の中で、他の民族よりも神が特別に御心を留めてくださったのであり、他の民族は場合によっては神によって打ち倒されたことすらありました。しかしそのような時でも、ユダヤの人々が正しく、心がまっすぐであるから他の民を追い払うのではなく、その民が主に逆らうから追い払われるのだ、ということを主は言っておられました(申命記8章5節)。こういう話はユダヤの人は知っているはずですが、それでも自分たちは特別な選民だから、他の民とは区別される。他の異邦人たちは罪深い者だ、と思っており、選民意識が強かったのです。そういうユダヤの人々の中でも、このファリサイ派の人々は特に自分たちは神に仕えている者だという意識が強く、同じユダヤ人の中でも罪深い者たちのことを下に見ていたと言えます。 そういう彼らは、このところ世に出て来たイエスという人物を受け入れることはなく、イエスが神のもとから来られたことを認めず、逆に罪深い者だ