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「神のもとから真理の霊が来る」2022.10.30
 ヨハネによる福音書 15章18~27節

 私たちの救い主イエス・キリストは、御自分の民の所へきたと、このヨハネによる福音書は最初に書いていました(1章11節)。その民とは、ユダヤ人のことでしたが、単にユダヤの人々、というだけではなく、この世において主イエスは人々から受け入れられず、かえって憎まれる、と言われます。それゆえに弟子たちも憎まれる、と。しかしそのような世のために救い主は来られました。神に逆らい、救い主に逆らうのが神の前に罪のある人間の姿です。   1.世に愛されるか憎まれるか  主イエスは、弟子たちは世に憎まれる、と言われます。ここで主イエスは、世に憎まれる、とか世が身内として愛するかどうか、世に属しているかどうか、といったことを語られました。「世」というものをこの世界、とか世の中、という意味に理解すれば、全ての人はこの世界に生きています。弟子たちが世に属していないと言うからには、世という言葉を違う意味で用いているからです。ここで主イエスが言われる世とは、神に造られ、生かされていながら神をあがめず、或いは無視し、自分流に、人間の考えに従って生きている生まれながらの人間のことを指しています。イエスの弟子たちはそういう世から救い出されて神の民とされました。そしてこれは、今日、主イエスを救い主として信じている者たちも同じです。それゆえ、世は弟子たちを憎むと言われますが、ここでの憎むとは、愛さない、という意味です。弟子たちが周りの人々から憎しみを抱いて見られていたというわけではありません。今日、クリスチャンは信者でない人々から憎まれているということでもありません。自分たちに同調する仲間としては見ておらず、自分たちとは違う生き方をしていて、身内ではないという感覚を持っているのです。もしも神に従わず、世に同調しているなら、身内のように仲間として世が受け入れているはずです。  何故なら、主イエスが弟子たちをこの世から選び出したからです。弟子たちも、元々は世に属していました。しかしそこから主イエスが取り分けて選び出し、神のものとしてくださいました。それで弟子たちは世の人々が持つ世界観、人生観とは異なる世界観の中に生きています。唯一の真の神がおられ、唯一の救い主イエス・キリストがおられる、そういう新しくされた世界観の中に生かされているのです。   2.自分の罪について弁解の余地がない  そのような弟子た

「すべては神のものである」2022.10.23
 歴代誌上 29章10~20節

 すべては神のものである。神を信じるクリスチャンには、至極当たり前のことかもしれません。しかし、改めて聖書からこのことを学び、本当にそう信じてその信仰のもとに生きているだろうか、と私たちは改めて考えてみる必要があります。この信仰に立つ時、私たちのこの世での生活が、何に根ざしているのかもはっきりして来ます。   1.私たちの持ち物とは何か  小学校に上がったばかりの頃、学校から持ち物には名前を書くようにと言われたので、算数の道具だったでしょうか、とても小さなもの一つ一つにまで母が小さな字で書いていたのを思い出します。それ以前にも自分のおもちゃなどはありましたが、そのことが記憶に残っています。そんな小さなものから始まって、私たちにはどんどん持ち物が増えていきます。後に、アルバイトで測量のお手伝いをしたことがありました。土地の境界線を定めるために、土地の所有者が立ち会って、どこまでが誰の敷地、個々からは誰の土地、と確認することもありました。ある時、境界線がどこにあるかを確認するにあたって、とてもピリピリしているのを感じたことがありました。ほんの数センチでも、自分の土地は狭くしてもらっては困るからです。そしてそこには、自分のものは確保したい、譲れない、という人間の強い性のようなものを見た思いがしました。  しかし、いくら人がそこは自分の土地だと言っても、元をたどれば先祖代々のものだったり、お金を出して買い取ったりしたものです。先祖代々地主だったとしても、先祖がある時にお金で買ったか、或いは力のあった先祖が自分のものとして宣言してきたのか、といったものでしょう。力で占領してか、お金で買い取ったか、そして先祖がそのどちらかで手に入れてものを受け継いだか、今日土地を所有している人も、それらのいずれかでしょう。今住んでいる土地を、自分の力で生み出し、造り出した人など一人もいるはずがありません。手に入れた方法はいろいろでも、人はただ、この広大な大地のほんの一部に住まわせてもらっているだけです。それなのに大自主ともなるとその地域では大きな顔をし、国家ともなれば領土確保や、拡張のためには相手を殺すことも厭わないのが現実です。  私たちも、国家権力者でも大地主でもないとしても、やはり自分のものにはそれなりの執着心があり、これは自分のもの、しかも大事なものだから人には譲れない、なくし

「イエスはあなたを友と呼ぶ」2022.10.9
 ヨハネによる福音書 15章11~17節

 救い主イエス・キリストは、御自身をぶどうの木にたとえ、主イエス・キリストを信じる者たちをぶどうの枝にたとえられました。そして、いつも葡萄の木につながっていなさい、と弟子たちにお命じになりました。それは今日、こうして教会に集い、主イエス・キリストの御言葉を聞いて信じる者たちに同じように言われていることです。それは、言い換えれば主イエスの愛にとどまることでした。主イエスの愛にとどまるとは、その御言葉を信じ、より頼み、私たちのために十字架に架かってくださったその愛を感謝して受け止め、その愛による救いの御業により頼むということです。何をなすにも主の助けと導きを信じて歩み続けることです。そして、この後に言われているように、互いに愛し合うという掟を守ることです。   1.主イエスが与える掟  主イエスは、御自身の喜びが信じる者の内にあり、その喜びが満たされるためにこれらのことを話した、と言われます。主イエスのこの後の歩みは、十字架に向かいます。そして処刑されることになります。それは弟子たちからすると悲しいことこの上もありません。神の御子として世に来られ、神の御言葉を語り、神の力によって素晴らしい奇跡を行い、病人を癒してくださっているイエス様が捕らえられ、殺されてしまうことは、大変な悲しみを弟子たちにもたらすことになります。そのことを主イエスはご存じでありますが、それを見越した上で、信じる者たちに喜びが満たされる、と言っておられるのです。今は、弟子たちにはそれは分からないことでしょう。しかし後になって分かるようになります。これは今日の私たちも全く同じであって、主イエスに従っていく歩みを続けてゆく中で、先々の不安を感じることもあり、いつも喜んでいなさい、と言われるものの必ずしもそうできない自分がいます。しかし、それでも主イエスについて行く時、必ず喜びに満たされるということ。その信仰に私たちがしっかりと立てるように、主イエスはこの後のことを語っておられます。  先ほどふれました主イエスの掟とは、イエスが私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うというものでした。大事な点は、主イエスが愛してくださったように、です。世の中にはいろいろな関係がありますが、それぞれの関係の中で、互いに愛し合っている、という状況はあるでしょう。しかしそれが永久に続くかどうかは分かりません。

「主の愛にとどまりなさい」2022.10.2
 ヨハネによる福音書 15章1~10節

 主イエス・キリストは、いろいろなたとえをお話しになりました。御自身のこと、御自身と、信じる者たちとの関係、この世の成り行きのこと、人の死後のこと等、実に多くのたとえとたとえ話を話されました。それらの中でも、このぶどうの木の幹と枝のたとえは、特に印象深いものの一つと言えるかもしれません。主イエスと私たち信じる者との関係を示すものとしては、羊と羊飼いのたとえがありますが、ぶどうの木のたとえはそれと同じように私たちの心に深く印象付けるものではないでしょうか。   1.ぶどうの木の幹と枝のたとえ  聖書の中には、ぶどうに関係する記事が400回以上も出ているそうです。主イエスは、今日の箇所の他に、ぶどう園の労働者のたとえや、ぶどう園と農夫のたとえを話されました(マタイによる福音書20章、21章)。ぶどう酒と革袋のたとえなどもあります(同9章)。今日の私たちにとっても、教会では聖餐式のぶどう酒(ジュース)のことがすぐに思い浮かびます。それだけでなく、日常的にも葡萄は果実としても飲み物としてもお菓子としても、大変多く用いられているもので、ぶどうがなかったら、私たちの食卓は寂しくなっていたかも知れません。そのような葡萄の木は、旧新約を通じてしばしば教えの中で用いられました。神の民であるイスラエルそのものがぶどう園にたとえられてもいます(イザヤ書5章)。ぶどうの木が実を結ぶ。この点が、民が主に従って良い実を結ぶかどうか、ということの中でたとえとしてしばしば用いられてきました。  ここでも主イエスは、主を信じる者たちが良い実を結ぶかどうか、という点について強調しておられます。そして、このたとえで特筆されるのは、主イエスの父である神が手入れをされて、実を結ばない枝を取り除かれることです。逆に実を結ぶものはいよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさるのです。  ここで主イエスは、イエスにつながっていながら実を結ばない枝は父が取り除かれる、と言われました。しかし、5節では、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言っておられます。主イエスにつながっていれば実を結べるはずなのですが、つながっていても実を結べない者がいる、ということでしょうか。ここで主イエスが言われる「わたしにつながっていながら」と言われている者たちは、そもそも本当につな