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「創造主に心を留めよ」 2023.7.16
コヘレト 12章1~14節

 青春の日々がとても貴重なものであるということに気がつくのは、かなり後になってからかもしれません。しかし、人によっては年を取ってからの方が、色々なことがわかってきて、人間としては充実していると思うこともあるかもしれません。いずれにしても青春の日々、若い時に創造主を覚えよ、というこの御言葉は、コヘレトの言葉の中ではしばしば語られる、覚えやすい教えです。何かと取り上げられる言葉です。今日は、このコヘレトの言葉の最後の章に目を留め、この一風変わった書物が教えていることを聞きましょう。 1.青春の日々は空しい  作者は、コヘレトと呼ばれる人ですが、それは名前ではなくて、集会で教える人というような意味があり、務めについての名称です。コヘレトは11章の終わりの所で書いています。青年時代を楽しく過ごせ、しかし若さも青春も空しい、と。若さも青春も空しい、と言いますが若い時代とか青春時代が無駄であるとか、その年代を過ごしても意味がないとか言うことではないと思います。ただ、あっという間に過ぎ去る、ということを強調しているのです。  特に健康状態に問題がなければ、自分の将来はまだずっと先があるかのように思います。もちろん、今日のように医学など種々の科学が発展していない時代では、命に関する不安の度合いは違うかもしれません。しかし、11章9節にあるように、若者は若さを喜べるもの、楽しく過ごせるもの、という一般的な感覚はあるわけです。しかしその楽しい時代もすぐに過ぎ去るのだ、と。だからその若い時代にこそ、心に留めるべきことがあるのだ、と既に青春時代を通り過ぎた作者は言うのです。 2.苦しみの日々を迎える前に  それを知っているからこそ、作者は勧めます。青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。そのこと自体を見る前に、1節で言われている「苦しみの日々」について見ておきます。次の言葉からわかるように苦しみの日々とは年を重ねることによって来るものです。ここでは、一般的な意味において年を取ることが、人間にとっては嬉しくないこと、喜ばしくないことという面を描き出しています。考え方によっては、年齢を重ねることで見えてくる人生の機微とか、若い時には分からなかったことが見えてくるとか、経験が増えてくることで物事に対処しやすくなったとか、少々のことでは動じなくなったとか、年を取ることで身につ

「神から来たのでなければ」 2023.5.9
ヨハネによる福音書 19章8~16節a

 私たちは、今こうしてこの教会の会堂に集まり、神を礼拝しています。それは救い主イエス・キリストの御名のもとに、キリスト教会という名を与えられてここで礼拝をしています。それは、ひとえに、主イエス・キリストというお方が、神から来た方だから、ということが根拠です。そうでなかったら、私たちはこの猛暑の日に、或いは大雨の日に、或いは台風が来ている時に、なんだってわざわざ礼拝などするものでしょうか。しかし、私たちがこの世でキリストの御名のも徒に集まって礼拝をしているとしたら、主キリストが神から来られた方であり、この世に対して神からの権威を持つ方であるからです。そのことを今日、私たちは新たに教えられています。 1.お前はどこから来たのか  ピラトは、ユダヤ人たちに対して、「この男には何の罪も見いだせない」と3回も言っていました。しかし訴え出ていたユダヤ人たちの強い主張に押されてしまいます。ユダヤの律法によれば、イエスは自分を神の子と自称していたから死罪に当ると。ユダヤ人の律法によれば確かに神の御名を呪う者は死刑に処せられます(レビ記24章16節)。自分は神の子だ、と言うことは、それを言ったのがただの人間であるとしたら、自分を神のもとに迄引き上げて高ぶることであり、唯一の神の御名を貶めることになるからです。しかしイエスは本当に神の御子です。そうであるにも拘らず、それで押し切ろうとした圧力にピラトは負けて、ユダヤ人が妬みのゆえにイエスを処刑したかったのを受け入れて引き渡してしまいます。罪なき方が訴えられ、罪は見いだせないと裁判官が言ったにも拘らず有罪とされ、十字架につけられることになるのでした。  ピラトはユダヤ人たちの言葉を聞いて恐れたのでした。自分はいったいどういう人物の裁判に当っているのだろうか、ということで恐れたわけです。ということは、ピラトは、自分はローマの総督としてユダヤの地に立てられ、裁判官の務めも果たしているけれども、ユダヤの宗教に関して、ある人物が神の子なのか違うのか、というような裁判については関わりたくないと考えたのでしょう。つまりこの世の政治的なことに関しては裁くつもりはあるが、ユダヤの宗教に関することの裁判官にはなりたくない、それは自分の務めではない、と思っていたからです。それは地方総督であったガリオンという人の言葉にも表れています(使徒言行録18章

「イエスに罪を見いだせない」 2023.7.2
ヨハネによる福音書 18章38節b~19章7節

 先ほど朗読していただいたこの箇所では、いかにもおかしなことが起こっています。罪なき方が裁判にかけられて、死刑判決を受けようとしています。7節まででは、まだ死刑判決を受けてはいませんが、訴えている人たちは、このイエスを何とか死刑にしたいと思っています。それを裁判官として扱うローマの総督ピラトは、全く違う考えを抱いていました。しかし、訴える人々の要求は高まるばかりです。今日はこの箇所から、題の通り、イエスに罪が見出せないと言ったピラトの言葉によって、イエスというお方がどういうお方であるかをまた私たちは示されています。そしてそれを示された私たちは、このイエスに対して自分はどう思うのか、ということを問いかけられているのです。 1.イエスではなくバラバを  ピラトは、ユダヤ人たちの前に出てくる前に、主イエスと話していました。その際、イエスが真理について話されたので、真理とは何か、と問いかけて、それからユダヤ人たちの前に出て来たのでした。ピラトは真理とは何か、という質問をイエスにしたにもかかわらず、その答えを聞いていません。イエスが答えようとされなかったのか、或いはピラト自身、特に答えを求めるでもなく、答えが特に聞きたいわけでもなく、一体あなたは何のことを話しているのか、と問いかけるだけでその場を去ったのかもしれません。ピラトは、本当に心から真理についてイエスに伺いたいというよりも、訴えられている被告についての取り調べの気持ちでいたでしょうから、裁判官としての判断に役立つことだけ聞けばよいと思っていたのではないかと思います。もし本当に聞きたいのだったら、ピラトはイエスの答えを待って教えを乞うたはずですが、彼はそこまではしなかったのでした。  そういうピラトは、ユダヤ人の前に出て行きますが、人々の反応は、イエスではなくバラバを釈放してもらいたい、というものでした。過越しの祭りの際には、未決の囚人を一人釈放するという慣例があり、ユダヤ人の慣例を尊重して総督ピラトはそれを実行しようとしたのです。バラバは強盗として捕まっていたのですが、イエスを訴えていた人にとっては、バラバがどんな犯罪人であろうが関係なく、イエスを釈放することだけはしたくなかったのです。  こういう時の群衆は、深くものを考えているわけではなく、指導者たちに扇動されていたので(マルコ15章11節)、理性を失

「尊ぶべき神の御名」 2023.6.25
詩編 74編1~23節

 私たちは自分に名前があることをある時知ります。自覚するより前に、名前を呼ばれていてそれが自分に対するよびかけや、語りかけであることをいつの間にか知っています。そして段々と自分の名前の意味や名づけの由来なども知るようになります。そして誰でも、自分の名前を変な風に呼ばれたり、からかわれたりすると不愉快になると思います。やはりそれは、名前はその人そのものを表わすのであって、名前を軽んじることは、その人を軽んじる、と言うことだからです。今日は、そういう人間の名前ではなく、人間に名前を与えてくださっている神様のお名前について語っているこの詩編七四編から、神の御名を尊ぶことについて教えられています。 1.神の羊の群れとされた民  神様は、ご自分の民を羊として養い、ご自身は羊飼いとして民を導いて来られました。エジプトの奴隷の地から、モーセをお立てになって救い出してくださったことは、イスラエルの人々が永久に語り継ぐべきことでした。そしてこのことは、イスラエルの人々にとっては、民族としての誇りでもあり、もろもろの国々と自分たちとは違うのだということを自覚していました。  しかし、今この作者のいる状況では、イスラエルは他の国によって踏み荒らされ、エルサレムの聖所は廃墟とされてしまっています。そのような中から神様に救いを求めているこの詩から、特に神の御名を尊ぶという点に目を留め、今日の私たちの時代においても、神様の御名が尊ばれるべきことを教えられます。しかしながら、この私たちの国と時代状況において、神様の御名そのものが知られていない、ということもまた事実です。  さて、まず11節までで、主への問いかけが続きます。エルサレムが永遠の廃墟となってしまった、という表現から、おそらくバビロン帝国の侵略によって、エルサレムが陥落し、町と神殿が焼き払われてしまった時、紀元前6世紀の前半のことだと思われます。エルサレムを滅ぼした軍隊は、イスラエルの神、主の聖所を焼き払ったのですから、自分たちの神がイスラエルの神よりも強いのだと思っていたことでしょう。しかし、この作者は、違う見方をしています。  主がその民を突き放してしまったのです。それは永遠にと言われているように、いつまでも続くように見え、神様はもうイスラエルを顧みてくれないように見えます。しかしこれは詩の文章であって、こういう表現がな

「主が道を備えてくださる」 2023.6.18
箴言 16章1~9節

 私たちは、自分の将来についていろいろ思いを馳せることがあります。夢を描いたり、具体的な計画を立てたりしますが、人によって随分違うかもしれません。人によっては子どもの時代から自分は将来こういう職業に就きたいという願いがかなりはっきりしている人もいます。逆に就職しなければならない年齢になっても、自分が何をやりたいのかが良く分からない、という人もいることと思います。今日は、そのような人間の歩む道に、主なる神はどのように関わっておられるのか、ということをこの箴言から学びます。実はこのことは、6月の初めの日曜日に取り上げたことにつながる内容でもありますが、今日は特に、この16章9節の後半に目を留めたいと思います。 1.箴言の教えについて  箴言は、いわゆる格言が集められているものですが、この題名となっている箴言という言葉は、原文のヘブライ語を他の言語に訳すのは大変難しいそうです。ですから、箴言も単に格言、という自分の抱いているイメージに閉じ込めないで考えられるのが良いと思います。  全体は、ある程度の内容的なまとまりがありますが、例えば今日の一六章なども、何かを順番に論理的に述べて結論に至る、というようなものではありません。いろいろな格言が次々に述べられている印象があります。そういうものではありますが、それでも読んでいると、何となくあるテーマのもとに語っているのかな、ということも浮かび上がってくる面があります。今日の朗読箇所も、いくつかの言葉を拾い上げてみると、それが分かると思います。 2.主にどのように相対するか  9節までで語っていることの中で、私たちが主に対してどのような姿勢や態度を取るかという点を述べている言葉がいくつかあります。自分の業を主にゆだねる(3節)、主を畏れる(6節)、主に喜ばれる道を歩む(7節)、などです。そして、主が答えるべき言葉を与えてくださる(1節)、とか私たちの精神を調べられる(2節)、或いは、私たちの高慢な心をいとわれる(5節)、とも言われています。  この箴言は、神を知らされているユダヤの人々に語っているものですから、もともとイスラエルの主なる神の御言葉を聞いてきた人々に与えられたものです。それに対して、私たち日本人の殆どは聖書の神を知らずに過ごして来ています。また、親から神様のことを教えられてきた人でも、学校に行くように

「神に導かれる人生」 2023.6.4
イザヤ書 30章18~26節

 「あなたの人生は何によって導かれていますか」という問いを受けた時、皆さんはどのように答えるでしょうか。はっきりと神を信じイエス・キリストを救い主と信じて告白した方からは、「神によって導かれている」という信仰者としての答えが返ってくることでしょう。  しかしまだはっきりと自分の信仰の確信に至っておられない求道者の方は、まだそこまでは言えない、と思われるかもしれません。また、ほとんどキリスト教や聖書について知らない方からは違った答えが返ってくるかもしれませんし、よくわからないということもあるでしょう。そもそも、自分の人生が何かに導かれているかどうか、ということ自体、あまり考えることはないかもしれません。キリスト教以外の宗教を信じている方の場合、自分の信じる信仰の対象によって導かれていると信じている方はおられるでしょう。  自分の人生の中に、信仰の対象としての存在を認めていない方にとっては、自分の人生を決めるのは自分自身であり、自分の努力や才能、人の助け、生まれついた環境、そして運や巡り合わせだ、ということになるかもしれません。しかし、今日朗読した聖書は私たちに教えています。  「私たちを導かれる方は主なる神である」。  この一つの言葉を私たちはいただいています。今日は特にこの旧約聖書イザヤ書を通して、神ご自身が私たちに教えておられることに聞きましょう。  さて、神の導きとは何なのでしょうか、また何のためにあるのでしょうか。それがあるかないかで何が違うのでしょうか。また、神の導きとはどのように、また何に対して与えられるのでしょうか。このようなことに目を留めながら神の御言葉に聞きましょう。  先ほど朗読したイザヤ書 30章20節には、「あなたを導かれる方」という言葉は2回出てきます。あなたたち、とかあなた、という呼びかけの言葉がありますが、これは古くから神に導かれて来たイスラエルの人々のことです。預言者イザヤは、紀元前の8世紀、イスラエルの北にあるアッシリア帝国におびやかされていました。彼らは強力な軍事力によってイスラエルに攻め込もうとしていたからです。  実際、北イスラエル王国は、攻め滅ぼされてしまいます。しかし南のユダ王国は保たれます。イザヤは、その南の王国の人々に向かって語るのです。実は北イスラエル王国の人々は、落ち着いて神を信頼していることができませ

「聖書が示す人生観・世界観」2023.5.28
 使徒言行録 17章22~34節

 私たちがこの世を生きていく上で、どのような世界観を持っているかということはとても大事なことです。はっきりした世界観、つまりこの世界はなぜこのようになっているのだろうか、そして人はなぜこの世に生まれて来て生活し、人生を送って行くのだろうか、という問題です。そしてどういう世界観を持っているかによって、その人の人生観も違ってきます。今日は、私たちに対して、人生観、世界観について示している聖書の教えに聞きたいと思います。 1.知られざる神に  イエス・キリストの使徒パウロがギリシャのアテネで宣教活動をしていた時のことです。パウロは、アテネの西の方にあるアレオパゴスと呼ばれる丘で語っています。ここにはアテネの最高法廷があり、哲学者たちが集まって議論する場になっていました。その様子は16~21節に書かれています。  パウロはアテネで、人々が拝んでいるいろいろなものを見かけました。その中に『知られざる神に』と刻まれている祭壇があったのでした。人々が拝むいろいろなものがあるのは日本でもよく見かける情景です。時には、一つの家の中に、神棚と仏壇が両方あるかもしれません。一寸地方に行って、町中を歩けば道祖神とか、祠とか、いわゆるお地蔵さんとかがあります。パウロはアテネの町の様子を見て、人々の信仰心があつい、と言っています。日本の場合どうでしょう。新年は神社に初詣、結婚式はキリスト教式によりどこかのホテルで、七五三は神社で、葬式は仏教で、という人もいそうです。それは信仰心があついからでしょうか。どうもそうではなく、逆のように見えます。特別な信仰心がないからいろいろな宗教を形だけ行うようになってしまうのだと思います。パウロがアテネの人々のことを信仰があつい、と言ったのは、少し相手を持ち上げているような感じがしますが、人々が、拝まれていない神々がいたとしたらまずいのではないか、つまり罰を受けるのではないか、と考えて、そのようにしたからだと思われます。  パウロは信仰があつい、と言いましたが、このような姿勢で神を拝むのは、どうも窮屈な感じがします。そういう考え方はあちらこちらにあるのではないでしょうか。祟りや呪いを恐れる、という態度です。パウロは、そのような人々に対して、知らずに拝んでいるものを知らせましょう、と言います。ここでのパウロの言葉は、今日の日本に生きている私たちも、耳を

「人を動かす力あることば」 2023.5.21
エフェソの信徒への手紙 4章25~32節

 私たちは、言葉によって多くのことを知り、学び、世の中のことを理解しています。世の中には大変感銘を受ける言葉もあれば、人を痛めつける言葉、人を尊び育てる言葉と貶める言葉、だます言葉などがあります。今日は、私たちが日頃読み、書き、聞き、語っている言葉について、聖書から学びます。 1.聖書には何が書かれているのか  今日、情報・印刷などの技術が大変進歩しているので、ふた昔前だったら耳に入ってこないようなこともたくさん入ってきます。情報伝達の手段が発達すること自体は、便利になって良いと言えば言えますが、子どもたちや若い世代にとって、聞いたり読んだりしようと思えば何でも聞けてしまい、読めてしまうという状況は、やはり考えものです。私たちは取捨選択して言葉を聞かねばなりませんが、本当に聞くべき言葉を見いだせるか否か。これはとても大きな問題です。そして私たちは何らかの言葉を聞いたり読んだりした後に、それに影響されたり、大きな励ましや示唆を受けたり、目を開かれたり、それこそ行動や生き方への変化を促されたりもします。逆に例えば本を読んだり、テレビを見たりしていても、たくさんの言葉を聞いたがその時だけ、その時は感心したり、面白がったりしても、その時間が過ぎてしまえば何事もなかったかのようである、ということもあります。そして自分の存在とか人生とかを揺り動かすような言葉にはそうそう出会えるものではないことでしょう。しかし、私たちは今、神の言葉である聖書を前にしています。今日は、この聖書が教えている「ことば」を聞きます。神の言葉である聖書には、確かに私たちを動かす力があります。  今日の朗読箇所の教えは、神を信じ、キリストを信じたクリスチャンたちに宛てたものですが、これは、人間一般に対して語られている普遍的な教えでもあります。「神の聖霊を悲しませてはいけない」とか「聖霊により贖いの日に対して保証されている」、「神がキリストによってあなたがたを赦してくださった」という言葉は、聖書の教えを良く知らない方にとってはもちろん説明が必要ですが、それでも、まずここでの教えに目を留めます。そしてここには言葉についてと、行いとか生活についても教えられています。  言葉に関することを抜き出してみますと、「偽りを捨て、隣人に対して真実を語りなさい」(25節)という戒めから始まります。そして「悪い言葉

「人との関わりの中で生きる」 2023.5.14
ローマの信徒への手紙 12章9~21節

私たちはこの世に生まれてくると、人々の中に自分がいることを段々と知ります。初めは大抵の場合親、家族がいて、その周りにいろんな人がいることも知るようになります。兄弟姉妹、祖母や祖父、おじさんおばさん等の親戚の人たち。そして近所の友だち。幼稚園や保育園、そして学校で会う友だちなど。そしてやがては社会に出て行きます。今日は、このように人との関わりの中で生きている私たち人間について、聖書が何を教えているかを学びます。 1. 人のおもな悩み  私の子ども時代のことを振り返りますと、人が何かの問題で悩む時に何が大きなものとしてあるか、ということについて挙げられていたことを聞いた時、「人間関係」という答えがあったのを聞いて、子どもながらにそういうものなのか、と思った覚えがあります。もちろん、子ども時代にも、友だちと喧嘩をしたりするようになると、何でも自分の思うようには行かないことを段々と知るようになります。そして次第に、人は人間関係で悩むのだということをあちらこちらで聞きますし、自分の周りにもいろいろな人がいて、時にうまくいかないことを思い知らされます。自分に好意的な人ばかりではなく、意地悪な人もいれば、喧嘩っ早い人もいます。そしてやがては、自分も人に対して何らかの不快な気持ちを与えて、嫌な人だと思われているかも知れない、ということにも気づきます。私たちはどうしても自分中心に考え、感じますから、いつも人が自分に対してどういう態度を取るか、ということが気になりますが、立場を変えると、自分の態度が他人に対してどのように移っているのか、ということも気になり出すのではないでしょうか。そして人に注文ばかり付けていたが、自分も人から注文をつけられても仕方がないのだ、と知るのです。そうして人の世は何と面倒なのだろうと思ったりもします。少し調べると分かりますが、人の悩みの八割から九割は人間関係のことだと言われているようです。あとは健康のことが大きいでしょうが、殆どは人間関係であるようです。 2.なぜ人間関係で人は悩むのか  しかし、どうして人は人間関係で悩むのでしょうか。皆同じ人間なのだから、同じ痛みを感じたり、悲しんだりするのに、なぜ傷つけあうのでしょうか。それはやはり、先ほども触れましたが、私たちがまず自分中心に物を考え、自分本位で感じ、自分を基準にして人を見たり評価したりす