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「人と比べないで生きる道」2019.11.17
 ヨハネによる福音書 21章15~25節

 私たちは、この世に暮らしている以上は、周りの人々との関係の中で生きています。他の人々との関係を全く持たないで生きることはまず不可能です。どんなに山奥に住んでいるとしても人との関わりはどこかしらにあります。そういう私たちは何かにつけて自分と人を比べてしまう、ということがあります。自分に確固たる自信を持っている人で、全く人のことを気にせずに、人と自分を比べることをせずに生きていられる、という人ももしかしたらいるかもしれません。しかしそういう人でも、無意識の内に自分と他の人とを比較しているかもしれません。今日は、そういうことに焦点を当て、では、神の御言葉である聖書において、私たちはどのように教えられているかを学びたく思っています。 1.人と比較して生きている人間 小学校のころ、学期末ごとに通知票をもらいましたが、その評価の仕方は相対評価であったと思います。20年ほど前に新指導要領になって、絶対評価になったようです。クラスの中で、自分の成績はどのあたりにあるのかを示す相対評価と、ある目標に対してどれだけできているかをみる絶対評価との違いです。極端な話、相対評価では、例えばクラスみんなの成績が殆ど芳しくなければ、少しでも周りよりできる人が高評価になります。でもそれで喜んでいると、実は理解しておくべきことの半分も理解していなかった、ということもあり得るわけです。逆に周りが秀才ばかりであれば、普通以上にできていて、十分大事なことを理解できているとしても、成績はいつも下の方、ということになります。 絶対評価だとしても、自分はほかの友達と比べて、どのくらいできているのだろうか、と気になったりもします。自分のランクはどのくらいか、と知りたくなるのです。人と比べることは、場合によっては励みにもなりますが、逆に失望して、やる気をなくすことにもなりかねません。また、何が大事なのかを見落としてしまうこともあり得ます。 また、人の評価も、自分自身の評価も、それは間違うことがありますし、人は他人の能力とか、賜物とか、性格とか、全てを把握することはできません。人の評価はあてにならない、という面もあります。聖書の中にも、他人との比較であるいは人との競り合いで、罪を犯した人もいれば、失望して命を絶ってしまった人の例もあります。創世記に出てくるカインという人は、弟のアベルの献げ物は神に受け入れ

「自分探しに疲れた人へ」2019.11.10
 ヨハネの手紙一 2章28節~3章3節

 私は一体何者か。こういう問いを自分に投げかけてみたことのある方は結構いるかもしれません。このような問いに対して、大きく分けて二つの考え方があるように思います。一つには、私は人間であるが、そもそも人間とは何なのか。何のために存在しているのか、という問題についてです。もう一つは、私という人間は、いったい何ができるのか、人として、どんなことが自分にとってふさわしいのか。例えば社会の中で、どれだけ役に立つ人間になれるだろうか。このような問いも関わってくると思います。私も含めて人間とはいったい何者なのか。あるいは、私は、この世で社会において、いったい何ができるのか、何の役に立つのか。いずれにしても、今日は、このことについて、聖書がなんと言っているか、それを聞きたいと思っています。聖書が何と言っているか、ということは、神が何と言っておられるか、ということです。 1.存在意義や、役目を必要としている人間 私たち人間は、自分の居場所とか、存在意義とかをどこかで求めているのではないでしょうか。自分が、家族や地域や、学校や、ひいては社会の中で、何の役にも立っていないとしたら、ある種の寂しさを感じるのではないでしょうか。自分がいてもいなくても、人には何の影響もないのではないか、と思うとしたら、本当に淋しくなってしまいます。 先日あるテレビ番組で、アリの研究をしている人が出てきまして、アリの生態について話しておられました。アリの中には全く働かないアリがいる、と通常言われているようですが、実は普段働かないアリにも存在意義があるのだそうです。というのは、普段働いているアリに何か問題が起こって働けなくなった場合、普段何もしていないアリがその代わりをするのだそうです。そうすることで、全員が倒れてしまうのを防いでいるのだとか。人間の社会でも、何の役に立っていないように見えても、実はその人がいることで、周りにある影響を与えている、ということはあることでしょう。 私たち人間の場合、自分の存在理由などをつい考えますから、自分に何の役割もないと、生きがいを感じられなくなってしまうかもしれません。そして自分などいてもいなくても大して変わりがない、と思ってしまうのです。何にしても、自分以外のものに対して役に立っているかどうか、というのは人間にとっては非常に大事なことだと言えるでしょう。 だから、私

「悲しんでいる人は幸い」2019.11.3
 マタイによる福音書 5章1~12節

 聖書には、私たちに語りかける神の御言葉が記されています。本当に様々な仕方で神は語っておられます。今日朗読した箇所は、イエス・キリストが多くの人々に語られたもので、普通山上の説教、とか山上の垂訓などと呼ばれているものです。イエス・キリストは、多くのことを話されましたが、時にその言葉は、人々の常識的な考えとは相容れないものがありました。今日の題にしました、「悲しんでいる人は幸い」という言葉も、山上の説教に出てくるものですが、今日の私たちが通常考えていることとは違います。悲しんでいる人は幸い、だなどとは私たちは普通思わないからです。 1.キリストが語っておられる 私たちは喜んだり、悲しんだり、怒ったり、嘆いたり、そのような感情をいろいろな機会に抱きます。そして、人間にとって、例えば喜ぶことと、悲しむことだけに限ってみても、多くの人に共通に喜びをもたらすものと、共通して悲しみをもたらすものとがあります。例えば喜びをもたらす最たるものは人が生まれる、ということであり、悲しみをもたらすのは人の死、特に愛する人の死でありましょう。 では、ここでイエス・キリストが言っておられる、悲しんでいる人とは、どのような人のことでしょう。しかしその前に、まず目を留めるべきことがあります。それは、第一にこれを語っておられるのが、神の御子イエス・キリストである、ということです。神の御子キリストがこれを語っておられる、ということ。キリストが幸いである、と語っておられるということです。悲しむ人は慰められる、ということが、キリストとの関係の中で(つまり神との関係で)考えられる必要があるのです。 いつの世にもどこにでも、何らかのことによって悲しむ人はいます。愛する人を失い、持ち物も家も失ってしまった人がいます。そういう人たちに、このイエスの言葉はすぐに当てはまるのでしょうか。そうではないと言わざるを得ません。ですから、このイエスの言葉は、ただ一般的に普遍的にどこまでも広げて言われているわけではないのです。イエス・キリストは神のもとから来られた方であり、神に遣わされて、神による救いをもたらすためにこの世に来られた方です。その神を仰ぎ、神から遣わされてこの世に来られた神の御子イエスのもとでこの言葉を聞く必要があるのです。 2.悲しむ人は幸い ここでイエスが言っておられる、悲しむ人のことですが

「主を知る心を与える」2019.10.27
  エレミヤ書24章1~10節

 今日は預言者エレミヤの預言から神の御言葉を聞きましょう。この24章にはいちじくの譬えが出てきます。良いいちじくと悪いいちじく。この対比によってこの当時、二つに分断されてしまったイスラエルの人々のことを現しています。そして、良いいちじくとみなされた人々に、主なる神は何をしてくださるのか、ということをこの箇所は教えています。そしてこの箇所から、今日の私たちに対しても主なる神は何をしてくださっているのか、を私たちは聞き取るのです。そして今日教えられていることは、私たちの信仰の根本に関わることであり、私たちの信仰はどこから来ているのか、どこに根拠と土台があるのか、つまり私たちが神を信じることの確かさはどこにあるのか、ということです。 1.預言者エレミヤの時代 エレミヤは紀元前7世紀の後半から6世紀にかけて活動した預言者です。旧約聖書の中で、イザヤ書がまず預言書の最初に出てきます。イザヤはエレミヤよりも1世紀前、紀元前八世紀の預言者です。イザヤ書は66章まであり、章の数では最多です。エレミヤ書は52章です。それだけ見るとイザヤ書が一番長いのですが、分量で見ると、新共同訳ではちょうど同じページ数になります。イザヤ書に匹敵するかそれ以上の分量に及ぶ預言をしたのがエレミヤなのです。彼はイスラエルの王から迫害されて命を狙われ、大変苦しみを受けた預言者でした。その個人的な苦しみを述べたところもあります。そういう意味で預言者の個人的な心の思いが非常によく現されている預言書です。今日の箇所は、エレミヤ個人のことはあまり関係ありませんが、ここでエレミヤは主から二種類のいちじくを見せられて、これから主がなさることを教えられました。主の神殿の前に、いちじくを持った籠が文字通り置いてあったのか、あるいは幻として主が見せられたのかはっきりはわかりません。主は時に幻によって預言者たちに何かを伝えられましたから、このいちじくも幻のようにして示されたことは十分考えられます。 この頃のイスラエルは、バビロン帝国の脅威にさらされており、ネブカドネツァル王が紀元前六世紀の初めころにユダに攻め込んできて、国のおもだった人たちを捕囚としてバビロンへ連れ去ってしまいました。この一節の出来事は、紀元前597年のこととされています。 2.良いいちじくと悪いいちじく ある人たちが連れ去られた結果、イスラエル

「真の王なるキリスト」2019.10.20
 使徒言行録 17章1~9節

 この世の中には、国家権力というものがあって、私たち庶民を治めています。これは今日では全世界どこでもそうであって、統治の仕方はいろいろです。王がいたり、大統領がいたりします。日本はどちらでもありませんが、象徴天皇制という独特な仕組みです。近年、特に皇室への親しみの度合いが国民の中で高まっているようには見えます。そういう中で、今週の22日に新天皇の即位の礼という儀式が行われようとしています。国が相当な費用を注ぎ込んで国を挙げて行おうとしているわけで、このこと自体、日本の抱えている問題を示していると言えます。そのような中、今日の朗読した聖書箇所から、私たちにはイエスという王がおられる、と教えられています。この、紀元1世紀に書かれた使徒言行録の今日の箇所は、今日の私たちにもまた、この世の国家とそこに生きる私たちに、私たちは誰のもとで生きているのか、だれを真の意味で王として仰いで生きているのか、ということを教えているのです。 1.一世紀のクリスチャンたちの置かれていた状況 この当時、ユダヤ人たちは各地に散らばっており、それぞれの土地で会堂を建てて、安息日の礼拝を行なっていました。安息日は土曜日です。このテサロニケは、マケドニアの都市です。2節で、パウロはユダヤ人の集まっているところへ入って行き、聖書を引用して論じ合ったとあります。ここでいう聖書は、今私たちが手にしている旧約聖書です。パウロはまず、メシア、つまりキリスト(救い主)は必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた、と述べました。そして、パウロが宣べ伝えているイエスこそ、このメシアである、と説明しておりました。聖書(旧約聖書)に親しんできたユダヤの人々にとって、最初の点は同意できるものでした。しかし二番目の点は同意することができない人がいたのです。パウロの話を受け入れて信じた人たちは、かなりの数の人たちだったと言われています。ユダヤ人たちが住んでいた地域にいたギリシャ人たちの中には、神をあがめる多くの人たちもいたのでした。しかし、ユダヤ人の中にはパウロの話を受け入れず、却ってならず者を抱き込んで暴動まで起こし、ヤソンという人の家を遅い、乱暴なことをしでかしたのでした。その動機は妬みから来るものでした。自分たちを差し置いて、後から入ってきたパウロたちが、ユダヤ人のみならず、多くのギリシア人たちまで信じ