「イエスを十字架につけた」 2023.7.30
ヨハネによる福音書 19章16b~27節

 私たちは先ほど、使徒信条を一緒に唱えました。その中に「主は、~ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」という一節があります。教会に来始めてから、いったい何度、イエス・キリストと十字架という言葉を聞いたことでしょうか。何十年と教会生活を送っておられる方は、礼拝の度に聞いて来られて、何千回と耳にして来られたのではないでしょうか。それ程に、私たちにとって「イエスと十字架」、この二つの言葉は切り離せず、また、これを抜きにして教会は存在しませんし、私たちの救いもあり得ません。今日は、皆さんが何十回、何百回、何千回と聞いて来られた「イエスと十字架」について、しかもイエスが十字架につけられた、というその場面を12弟子のヨハネが記しているところです。ここには、イエスを十字架につけた、或いはつけてから、という言葉が3回出てきます。何度も聞いてきたことの言葉を、今日また改めて聞きましょう。


1.彼らはイエスを十字架につけた

 ローマ総督ピラトは、イエスに罪を見いだせない、と言ったものの、ユダヤ人たちの勢いに圧倒され、そしてイエスを釈放するならあなたはローマ皇帝の友ではない、という脅しの言葉をかけられて、ピラトは仕方なくイエスをユダヤ人たちに引き渡したのでした。イエスは自ら十字架を背負い、ゴルゴタと呼ばれる処刑場へと向かわれました。十字架の横木を担いだのだろうと言われています。それだけでも、人が架けられるわけですから相当しっかりしたものでしたでしょうから、何十キロかはあったでしょう。鞭打たれて体力を消耗しておられた主イエスにとっては大変なことだったと思われます。他の福音書が記しているように、キレネ人シモンが途中からイエスの代わりに十字架を背負ったことをヨハネは書きません。もはやそのことは周知の事実だったということもあるでしょう。そして4つの福音書に共通することですが、皆イエスの苦しみをことさらに描き出そうとはしていないように見えます。淡々と、十字架につけられた、という客観的な出来事を記すのです。福音書記者たちは自分とイエスとの関係がそれぞれにありますが、自分がどう感じたのか、ということは書きません。

 処刑される人を十字架につけるためには、十字架として立てる木材をまず横に倒し、処刑される人の体をその上に寝かし、縛り付け、そして釘を打ち、そしてそれを立ち上げる、という非常に肉体にとって過酷な状態にするわけで、人がそんな痛みをどれだけ耐えられるだろうかと思うよほどのものです。しかしヨハネも他の記者たちも、「彼らはイエスを十字架につけた」と言うような簡潔な書き方を貫くのです。それはやはり、人の感情に訴えかけるようなことをせず、十字架につけられたのだ、という客観的な事実を私たちの前につきつけ、それをよく見なさい、考えなさい、受け止めなさい、と言っているように思います。そして何より、その意味を知らねばならないのです。


2.イエスの罪状書き

 こうして十字架につけられたイエスの上には、ピラトが自ら書いた罪状書きがかけられました。それはヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていました。ユダヤ人にはヘブライ語、ローマ人にはラテン語、ギリシア人にはギリシア語でそれぞれ読めるようにというものです。ピラトは、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書きました。しかしユダヤ人たちは、「『ユダヤ人の王』と自称した」と書いてくれと頼みます。しかしピラトはその願いをはねつけます。自分は無罪だと思っているこのイエスという人物を、ユダヤ人は有罪だと訴え、しかも十字架家に処することを望み、ピラトを脅し、ピラトもその勢いに折れてイエスを引き渡したのですが、ここでピラトは自分の意地を見せているかのようです。一から十までユダヤ人の言いなりにはなりたくないという思いがあるように見えます。

 そしてこのことは単にピラトの意地のようなものが前面に出て来たというだけではなく、このことを通して、本当にイエスはユダヤ人の王と言うべきお方なのである、という真実が公にされ、多くの人に読まれるように掲げられたのだと思います。ここには隠された神の御手が及んでいます。自称していたのではなく、本当に王なのだ、という事実が掲げられたのです。そのためにピラトの意地も用いられたと言えましょう。ピラトの中には、このイエスという人は何も罪を犯していない、というある種の恐れと敬意のようなものがあったのではないでしょうか。

 そして兵士たちはイエス・キリストの服を4つに分け、下着はくじ引きにしたのでした。他の福音書では兵士たちがイエスを侮辱した様子が描かれていますが、ヨハネは書きません。そして兵士たちがイエスの服を分け、くじ引きにしたことを強調します。それは聖書が実現するためでした。イエスに対して何の思い入れもないと見える兵士たちも、聖書の言葉を実現のために用いられたのでした。


3.聖書の言葉は実現している  兵士たちは、聖書の言葉が実現するために書かれている通りにしたのでした。この「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という一節は、詩編22編19節です。この詩編は、ヨハネによる福音書では言われていませんが、十字架上でイエスが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と叫ばれた言葉から始まる詩です。神に見捨てられたような状況に置かれている一人の神の民の苦しみからの叫び声を記している詩です。この人は、ひどい苦しみを受け、人々からは嘲笑され、体は酷い状態になり、苦しめる者たちが周りで自分をさらしものにして眺めている、と言っています。もうこれ以上ないほどに心も体も痛めつけられている状態です。自分は虫けらのように扱われている、とまで言っています(22編7節)。その中に、周りの者たちが自分の着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引いた場面があります。兵士たちはこれを文字通り行って千年ほども前に書かれた詩の中にある情況を実現したのでした。

 主イエスは、御自身が行ったことが旧約聖書に書かれていたことの実現であったという事実を自覚しておられました。しかし兵士たちはそんなことは全く意識せず、ただイエスの衣服が欲しいから分けるかくじを引くかしただけでした。それでも、聖書に記されている通りに彼らはしたのでした。兵士たちの行動すらも、旧約聖書の預言の実現のために導いている神が背後におられるという真理をこの出来事は示しています。そして、他の福音書が記していない出来事をヨハネは書き留めています。イエスが十字架の上から自分の母マリアと、弟子の一人ヨハネに語りかけたのでした。ヨハネがマリアを引き取るようにと。ヨハネはその通りにしたのでした。

 さてこのようにいろいろな出来事がイエスの十字架での処刑の場面に現れました。この福音書の記者であるヨハネは、具体的な箇所としては、先ほどの兵士たちが衣服を分け合い、くじ引きにした場面だけを挙げて、聖書の言葉が実現するためであった、と記しました。しかしながら、罪なき方が罪人の内に数えられて十字架につけられるということ自体、旧約聖書の預言の成就でした。旧約聖書がその到来を予告していたメシア、救い主こそイエス・キリストでありました。私たちには、聖書が証言している来たるべきメシア、救い主が与えられています。

 この方こそ、私たちに与えられた、唯一のまことの救い主です。この方により頼むならば、私たちが生まれながらに持っている神の前での罪の赦しをいただき、神の子どもとしていただき、永遠の命を保証していただけるのです。それは、この主イエスが十字架で私たちの罪を担い、代わりに贖罪をするために死んでくださったからです。そして、私たちの罪を担って一度は死なれましたが、主イエス御自身には罪がなく、そして罪と死の力に打ち勝っている方として復活されたのでした。神は、この主イエス・キリストに結びつけていただいた者から、罪による死と滅び、神の裁きと死に対する恐れを取り除いてくださいます。それは、ひとえに、今日ヨハネによる福音書で読みましたように、人々が、そしてそれは私たちの罪が、イエス・キリストを十字架につけたからでした。主イエス自ら、十字架に架かって罪の贖いをしてくださったからでした。この主イエスを信じ、救い主としてより頼む人は、真に幸いであります。

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