「神の道を歩む」 2023.8.20
使徒言行録 18章24~28節

 今日の箇所には「主の道」「神の道」という言葉が出てきます。どちらも同じことです。主イエス・キリストを信じて信仰の道を歩み出した人はクリスチャンと呼ばれます。その人は主の道を歩き出したのです。主イエスは「わたしは道である」と言われました。イエスを主と信じ、共に歩む、そしてイエスという道を歩む。それが主の道を受け入れることであり、神の道に生きることです。ですから、神の道と言った時、それは主キリストを信じる信仰をいただいた者が言う神の道です。聖書において、主キリストと切り離された形で神を語ることはありません。さて、皆さんは今、何の道を歩いているでしょうか。主イエスを信じている人は、今は主の道を歩いていると言うでしょう。では信じる前は何の道を歩いていたのでしょうか。


1.主の道を受け入れる

 今日の朗読箇所は、初代教会が主イエス・キリストについての福音宣教を始めた紀元1世紀の話です。使徒言行録の後半はほぼ使徒パウロの活動を記しています。彼はユダヤ人でキリスト教の迫害者であり、旧約聖書律法の専門家でした。そのパウロのアテネやコリントでの宣教活動についての話が続く間に挟まる形で記された出来事です。パウロはコリントで宣教した時、アキラとプリスキラという夫婦に出会いました。彼らは同じ職業だったので、パウロはこの夫婦の家に住み込んで働き、そして安息日ごとにユダヤ人の会堂で論じていたのでした(18章1~4節)。

 今日の箇所は、パウロが二人のもとを離れてアンティオキアに戻った後の話です。プリスキラとアキラのいるエフェソにアポロという雄弁家がやって来ました。彼はアレクサンドリア生まれのユダヤ人で聖書に詳しく、イエスについて熱心に語っていました。しかし、ヨハネの洗礼しか知りませんでした。洗礼者ヨハネが教えていたことは、自分の罪を悔い改めて正しい行いをし、そして来たるべきメシア=救い主キリストに対する備えをせよ、というものでした。ヨハネが活動していた期間は、主イエスの初期の活動と重なります。アポロが、ヨハネの洗礼しか知らなかったというのは、イエスこそヨハネが告げたメシアであることを知ってはいましたが、そのイエスがその後捕えられて十字架につけられ、死んで葬られ、そして三日目に復活されたこと、更に天に昇られたこと、そしてその後、ペンテコステに聖霊が教会に降られたこと、そして教会が福音宣教を始めたこと、こういった一連の出来事について、まだ知らなかったのであろうと思われます。

 それでも彼は主の道を受け入れていました。そこまでしか知らなくても、イエスについて正確に教えてはいました。これは、今日の私たちから見ると一体どういうことなのだろうと思います。イエスの十字架の死と復活、昇天、聖霊降臨、教会の誕生と宣教を始めたこと、という一連の出来事を良く知らずに宣教ができるのだろうか、と思います。しかし現代のように情報がたちどころに伝わるような状況とは違い、事柄の全体が十分に伝わるのには時間が必要でした。アポロは聖書(旧約聖書)に詳しかったので、洗礼者ヨハネが指し示したイエスはメシアだと信じたのは確かです。それが主の道を受け入れたということでした。しかし、メシアなるイエスの到来によって救いが与えられ、それによってこの世に教会が姿を現して宣教を始めたことなど、まだ知らずにいたことが多々あったわけです。


2.正確に神の道を知る

 アポロは聖書に詳しく、主の道を受け入れてはいましたが、もっと正確に教えを知る必要がありました。これは、信仰の道を歩むにための段階があることを示しています。これは何にでも言えますが、技術を学ぶにも、語学を学ぶにも初歩から中級、上級へと進んで行きます。初歩のことしか知らなくても、そこまでのことは正確に理解している、ということはあります。語学でも、初級は身に着けたけれども、中級レベルには至っていないことがあります。それでも、その人は初級レベルのことを正しく理解していれば、その理解は間違っているわけではありません。その人から教わった人も、そこまでは正しく理解することができるわけです。アポロの場合も、語学を学ぶこととは少々違いますが、そのような状態で、もっと詳しく学ぶ必要があったのでした。プリスキラとアキラは、それを見抜いて、アポロにもっと詳しく、もっと正確に教えたのでした。そしてアポロは、これまでも熱心に大胆に語っていましたが、一層力強く語り、イエスが救い主キリストであることを公然と立証してユダヤ人たちを説き伏せたのでした。

 アポロは雄弁家で熱心に大胆に語りました。彼が知っている範囲では間違いなく、正しい内容を語っていたのでしたが、使徒パウロと親しく生活して、その教えを良く理解し、そしてパウロの生活を間近に見ていたプリスキラとアキラは、落ち着いてアポロの話す内容を聞き分け、吟味してより正確に教えることができました。アポロの教えていたことも正確ではあったのに、もっと正確に知る必要があったとはどういうことでしょうか。例えば、私たちはウェストミンスター小教理問答を礼拝で一緒に読んでいます。私たちが主イエスを信じないで、自分の善い行いによって救いを得るように教えるのは、正しい教えではありません。そうではなく、救い主と信じれば救われる、と教えるとしたら、それは正しい教えです。しかし、それをもっと正確に教えることができます。私たちには生まれながらの罪がある。罪は神に対して犯されたもので、私たちはそれを自力で償うことができないということ。そしてイエスは神の御子であり、罪なきお方である。この方が私たちのために与えられている唯一の救い主であり、真の神、真の人であられる。これらを知ることにより私たちは神による救いの大きさ、有難さ、尊さをより深く知るのです。

 アポロのように熱心に雄弁に語れることは優れた賜物ですが、語る内容についてはプリスキラとアキラは更に正確に知っていました。つまり更に詳しく、深く知っていたのです。彼らが熱心であるとか雄弁であるとか、そういうことは一切書かれていません。しかし、彼らはアポロの語る内容を冷静に聞きとり、更に教えることができたのでした。それもまた、神がお与えになった大事な賜物でした。


3.神の道を歩み続ける

 アポロはこうしてもっと正確に神の道を教えられて、より一層力強くイエス・キリストについての福音を語り、特に、イエスは旧約聖書が証しして、その到来を告げ知らせていたメシヤ=キリストであることを公然と立証したのでした。ユダヤ人たちを説き伏せたということは、旧約聖書に照らしてみて、色々な箇所で預言されていることがイエスに当てはまることを示し、反論できないほどに筋道立てて語ったということでした。

 私たちも、主イエスをキリスト、救い主と信じて生き始めたなら、それは主の道即ち神の道を歩き始めたのです。それはアポロが更に詳しく正確に教えてもらったように、信仰の初歩から成長して、聖書の教えの理解を深めることがまず大事なことです。しかしそれだけではなく、主の道、神の道に生きる者は、それぞれが与えられた場で主イエスに結び付けていただいた者として生き始めます。アポロの場合は宣教者としての働きがありました。使徒ではありませんでしたが、エフェソを中心として、一定の地域である働きをし続けたことでしょう。

 信徒一人一人は、それぞれの職業や生活があります。プリスキラとアキラの夫婦には、テント造りという職業がありました。その中で、彼らはパウロに教えられて神の道を正確に知り、その知り方は、他の人に教えることができるほどでした。主の道に生きる者は、まず正しく正確に主イエス・キリストのなさったことについて知る必要があります。そしてそれを人にも教えてあげられることが必要になる場合もあります。しかし誰でもがそのように教える賜物があるわけでもありません。プリスキラとアキラは、アポロを教えましたが、その前にパウロを家に住まわせて一緒に働き、生活面でパウロを支えました。この夫婦は、そのように特にパウロを助けて全面的に支えたので名前が書き記されたのでしょう。しかしほかにも、パウロやアポロたちの働きを影ながら支えた人たちが大勢いたはずです。

 今日も同じです。牧師、教師、宣教師などの目立つ働きをする人たちよりも、それ以外の目立たない信徒たちが大勢います。しかし、むしろそういう信徒たちは、自分の生活と職業、社会での立場、家族の中での立場など、みんな違う環境と立場に置かれています。その中で主の道を歩み続けます。信仰の戦いもあります。しかし、主の道には、先だって進まれる神がおられます。救い主イエス・キリストがおられます。主イエスは信仰の創始者であり完成者でもあります(ヘブライ12章2節)。神御自身が先だって進まれます(詩編59編11節)。「先だって」進むだけではなく、先に行って「出迎えて」くださいます。この先立つ、という言葉は文脈によっては、出迎えるという意味にもなります。実際両方に訳されています。主イエスは共にいると約束してくださり、先立って、先に行って出迎えてくださいます。これほどまでして、神の道に歩むようにと招いてくださっているのですから、私たちは主にゆだねて自分に与えられたこの地上での歩みを歩み通させていただけるのです。

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