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「救いは主の御手による」2017.8.20
士師記 7章1~15節

 神は、私たち人間にいろいろな知恵と力を授けてくださいました。その知恵や力を用いて、人は様々なことを行います。そして次々に新しい力を発揮してゆきます。今日では、人口知能の進歩が際立っているといえましょう。お隣の瀬戸市出身で将棋棋士の藤井聡太四段によって注目された将棋の世界でも、人口知能が名人に勝つ、ということが起こってきました。以後の世界も同様です。人口知能などは、素人には全くわからないことだらけです。確かに人間の知恵は優れたものであり、いろいろな発明発見をした人々の中には、真の天才と呼べる人もいるわけです。しかし、私たちは、その優れた知恵を与えられている人間を造った方、人間に優れた知恵を授けた方に目を留めます。先ほど朗読した士師記7章2節に、「心がおごり」、という表現がありました。私たちは、どんなに人間が優れた働きをし、その知恵と力によって大いなる成果をあげたとしても、神の御前に心がおごるようなことのないようにしなければなりません。人間の力で何でもできるなどと思うことは、人間の思い上がりです。 1.しるしを求めたギデオン  モーセの後継者ヨシュアの死後、この頃のイスラエルには、まだ王が立てられておらず、民族としてのまとまりがありませんでした。その上イスラエルの人々は、ヨシュアや、彼と共にいた長老たちが世を去ると、主に背いて悪を行うようになり、その結果、主がお怒りになって、イスラエルを敵のミディアン人に渡してしまう、ということがしばしばありました。そのたびにイスラエルの人々は主に助けを求め、そうすると主は「士師」と呼ばれる人々を遣わしてくださって、敵の手から助けてくださる、ということが繰り返されてきました。今日登場したギデオンも「士師」の一人です。「士師」という言葉は今の私たちにはなじみが薄いですが、裁き人、裁判官のことです。  イスラエルの人々がミディアン人に苦しめられていたので、彼らが主に助けを呼び求めると、主はギデオンを立ててくださいました。ギデオンとは、「切り倒す人」という意味です。今日では、ギデオン協会と言って、聖書を無料で配布する伝道団体の名前に付けられています。勇ましい人、勇者であったギデオンにあやかって、そのような名をつけているわけです。  ギデオンは、この七章のお話に入る前の所で、自分を立ててイスラエルを救おうとしている主に問いかけます。

「かたくなな心を砕く力」 2017.8.13
マルコによる福音書 8章11~21節

 救い主イエス・キリストとは、いったいどのようなお方なのだろうか。この問いは、主イエスが人々の前に姿を現してから今日に至るまで、常に重要な問題です。この理解を間違うと、わたしたちは主イエス・キリストというお方を正しく知ることができません。今日の朗読箇所から、そしてマルコによる福音書が語っている流れから、この点を私たちは教えられています。 1.天からのしるし  四千人もの人々に、パンと魚を十分に分け与えられた主イエスのもとに、ファリサイ派の人々がやってきました。彼らはイエスを試そうとしました。何を試そうとしたのか。イエスが本当にメシア=キリストであるかどうか、ということを試そうとしたのでした。主イエスは、この時代の人々がしるしを求めることを嘆かれました。ファリサイ派の人々が天からのしるしを求めたのは、主イエスのなさることを謙虚に認めようとはしなかったからです。彼らは、イエスの語られることに素直に聞こうとせず、却って、イエスが天から来たというのなら、そのしるし、つまり証拠を見せろと言うのです。しかも、病人を直すとか、パンを増やす、とかいうのではなく、天からのしるしです。通常の自然現象でも、たとえば虹はノアの時の大洪水の後、神が契約のしるしとして定められたものでした(創世記 9章13節)。また、雷は主がサムエルの呼び求める声を聞かれたことのしるしでした(サムエル上 12章18節)。それ以上の特異なしるし、つまり通常の自然現象以上のしるしを見せろ、ということです。  主イエスは今の時代の人々にはそのようなしるしは与えられないと断言されました。この記事の並行箇所であるマタイによる福音書12章39節によると、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と主イエスは言われました。ヨナのしるしとは、主イエスが三日間墓の中にいて、その後復活されたことです。預言者ヨナが嵐の中、船から海に落とされた時、主が備えてくださった大きな魚の中に三日間おり、そして陸に吐き出された、という出来事を指しています。ヨナが三日間魚の腹の中にいたように、主イエスも墓の中に三日間おられる、ということです。それだけがこの時代に与えられるしるしである、ということがマタイによる福音書からわかります。しかし復活のほかに、天からの目覚ましいしるしなどはない、と主は言われるのです。  そもそも、しるしを求める

「群衆を養うイエス」  2017.8.6
マルコによる福音書 8章1節~10節

 救い主イエス・キリストは、神の御子として多くの奇跡を行なわれました。今日朗読した八章には、四千人の人々にパンと魚を十分に食べさせた出来事が記されておりました。似たようなお話が6章30節以下にありました。似ているお話ですが、確かに別の時に起こった出来事です。この出来事を通して、今日私たちに教えられていることを、今日もよく聞き取りたいと願っています。 1.弟子たちの態度  主イエスの周りには、その話を聞きたい、病人を癒してもらいたい、という人々が押し寄せてきており、イエスの行かれる所へついてゆく、ということがしばしばありました。群衆がイエスのもとを離れなかったのは、それだけイエス、というお方に何かを求める、という気持ちが強かったのだと思います。6章34節で言われていましたように、群衆は飼い主のいない羊のような有様でした。日々の仕事に励まなければならない人々は、おそらくイエスの後についてくる、ということはなかなかできなかったのではないかと思います。弱さや病を抱えている人々、仕事はあるけれども、イエスのお話を聞きたい、さらに何をなさるかを見てみたい、という人もいたことでしょう。そのような群衆は、もう三日もイエスと共にいたのでした。  このような状況を見たイエスは、「群衆がかわいそうだ」と言われました。6章に記されていた記事では、弟子たちが人々のことを心配して、イエスに人々の解散を促します。しかし今回は、三日も経っているのに、弟子たちからは何にもイエスに問いかけることをしていません。弟子たちの心境は、ここには記されていませんのではっきりとはわかりません。もしかすると、前に五千人もの人々を養われたように、今回も主イエスは何とかされるのではないか、と期待していたのでしょうか。ここでの弟子たちは、「いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」と言いました。既に五千人以上の人々にパンと魚を分け与えてくださっていた主イエスがここでも同じようにしてくださると思わなかったのでしょうか。6章52節で言われているように、弟子たちはパンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていた、とありましたから、弟子たちはそれほどイエスの御業を期待していなかったのでしょうか。いずれにしてもここでの弟子たちは、6章に比べるとなんとなく冷めているような印象を受けます。

「聞こえるようにする恵み」 2017.7.30
マルコによる福音書 7章31節~37節

 ティルスの地方でギリシア人の女性の娘から悪霊を追い出された主イエスは、そこから北の方のシドンを経てガリラヤ湖の方へ戻ってこられました。そこへ耳が聞こえず、話すのが不自由な人が連れてこられました。この記事は、四福音書の中で、マルコによる福音書だけに記されているものです。この人の耳を開き、はっきりと話せるようにされた主イエスの御業は、私たちに対しても、違った形で現れていることを私たちは教えられます。私たちは、このような福音書の記事から、先ず何が起こったのかを正しく知ること、そしてこのお話は今日の私たちに何を教えているかを知ることが大事です。 1.イエスの御業と口止め  主イエスはいろいろな病気の人に対して、通常は一人一人に手を触れることを通して癒しを与えられました(ルカによる福音書 4章40節)。時には、直接触れずに、離れた場所にいる人を癒されたこともありました(マタイによる福音書 8章13節)。今日の朗読箇所では、主イエスは、耳が聞こえず、口が不自由な人に対して、特に細かく触れるなどの動作を多くなさって癒しておられます。マルコによる福音書はこのように、割とイエスの動作などを詳しく知らせてくれている面があります。  イエスは、天を仰いで深く息をつき、「エッファタ」つまり「開け」と言われました。「エッファタ」とは、イエスや弟子たちが日常話していたアラム語という言葉の発音をそのまま記したものです。耳が聞こえるようになるために開くこと、口も、自由に話せなかったけれども、自由に話せるように開かれること、そのどちらも示しているわけです。主イエスは神の御子としての力をもって、病気の人や、体の機能が不自由な人をこのように癒すことがお出来になりました。先ほども言ったように、その癒し方は、その時その時によって多様な仕方でした。やり方はいろいろでしたけれども、共通していることは、病気や不自由な面を持っている一人一人に対して、一人ずつ向き合って癒してくださったことです。この点をよくよく覚えておきたいものです。  そして主イエスはここでも、この出来事を話してはいけない、と人々に禁じます。それは、この時点では、イエスのことがただ驚きを伴う目覚ましい奇跡としてだけ伝わって一人歩きしてゆくことを望まれなかったのだと思われます。このように福音書に記されることを通して、やがては全世界にまで告げ