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3月, 2021の投稿を表示しています

「自分を救わない救い主」2021.3.28
 マタイによる福音書 27章27~44節

 昨年の今頃、世の中がどうなっていたかを思い返しますと、特に新型コロナウイルスの感染が拡大しつつある中で、有名人が亡くなったり、東京五輪の延期が決まったり、というようなことがありました。教会では、三月から聖餐式を行わず、4月、5月は会堂での礼拝を休止するという事態にも至りました。皆さんのそれぞれの家庭や職場、学校などでも実に大きな変化があり、形はいろいろに変わったり、対応が進歩したりしてはいますが、それがなお継続しているのが今の状況でしょうか。そういう中で、今年もまた、主イエス・キリストの復活を記念するイースターを前にして、主イエスの受難週を迎えました。この世界のこと等を考えながら、私たちのためにこの世に来られ、そして十字架におかかりくださった救い主イエス・キリストの恵み深い御心と御業に今年も改めて信仰の目を向けたいと思います。   1.救い主が到来された「この世界」とは何か  救い主イエス・キリストは、約2,000年前にこの世にお生まれになり、そして30年ほどの地上の御生涯の最後に十字架につけられました。そのために主イエスは来らました。では、「この世」とは一体どういう世界なのか改めて見ておきます。  これまでの人類の歴史の中で、何度もこのような流行病の影響を世界は被ってきました。それだけでなく、大災害も度々起こり、その度に多くの人が亡くなり、個人の生活にも大きな影響を及ぼしてきました。そういったことを人間は何千年何百年と続けてきています。常に様々な困難な状況が襲いかかって来るのがこの世の生活です。しかし、人類はなお、この世で、この地球上での営みを続け、文化を築き、文明を発展させてきました。それはやはり天地を創造された主なる神が、人に対して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1章28節)と御命令になったからであり、それに従って人は常に増え広がり、生産活動をし、地上に様々な物を築いてきたのでした。しかしそれは最初の人アダムの堕落によって、すぐに罪が入ってきたことにより、当初、神が人に与えられた目的に完全にかなうものではなくなっています。それでも神は堕落後の人間にも産めよ、増えよ、と命じておられますから、今日の人間も同じように活動しています。  神は天地創造によって、御自身の栄光を輝かし、栄光の御国を築き上げて完成される御計画をお持ちです。それが実

「人よ、主の御前に黙せ」2021.3.21
 ゼカリヤ書 2章5~17節

 今日はゼカリヤ書から、神の御言葉を聞きます。「ゼカリヤ」とは、「主は覚えたもう」という意味です。預言者ハガイとほぼ同じ頃、約2ヶ月遅れて主の言葉がゼカリヤに臨んだ、と冒頭にあります。ダレイオスはペルシャの王であり、その第2年というのは、紀元前520年のことです。主は、ゼカリヤに告げられたその御言葉のはじめから、主がイスラエルの先祖に対して激しく怒られたことをお語りになっています。そして主に立ち帰れと呼びかけてきたと(1章2、3節)。しかし先祖たちは聞き従わなかったのでした。まずこのことを覚えておき、その上で主の語られる御言葉を聞かねばなりません。このゼカリヤ書では、小見出しにあるように、いくつもの幻をもって主はゼカリヤに御心を示されました。今日の朗読箇所は、その第3の幻です。   1.測り縄の幻  ここには、測り縄を手にした人の幻が示されます。測り縄については、1章の16節でも既に言われていました。それは、主が再び神の民の都であるエルサレムを慰め、選ばれることを語る中で言われています(16、17節)。それは、町を再建するための準備としての測量を始めることを示しています。  幻、というと何だか頼りない、ぼやっとしたもの、夢か幻か、などとも言われるように、現実かどうかわからなくて、すぐに消えてしまうもののような印象があります。しかし、聖書が言う幻は、そういうぼんやりしたものではありません。英語でビジョンと言いますようにはっきりと「見る」ものです。しかし、その意味を正しく理解しないといけないものです。意味がわからなければ、意味不明の不思議なもので終わってしまいます。  実はゼカリヤ書では「幻」という言葉自体は13章4節に出て来るだけですが、小見出しに「幻」とついているのは、実際これらが幻である、という点からきています。預言者たちは、いろいろなものを幻で見ましたが、それらは主が、人々に御心を知らせるために用いられた手段であって、ある意味では、聞いた人々に大変強い印象を与えます。そしてそのイメージのようなものが残るので、忘れにくいのです。主イエスがたとえ話を多くされたのも、人々の心に強く印象付ける、という面がありました。言葉の上で、理屈だけ言われても人はすぐに忘れてしまうのですが、映像として、たとえそれが聞いた人それぞれが頭の中で描いたものであっても強い印象を与える

「神の御心に適うイエス」2021.3.14
ヨハネによる福音書 8章21~30節

 主イエス・キリストは、御自身が父なる神のもとから来られた方であることを再三語られましたが、それに反発する人たちは、イエスの父はどこにいるのか、と尋ねました。彼らは特にファリサイ派の人々で、ユダヤ人たちの中でも神の律法を厳格に守ろうとする人たちです。彼らは、イエスが神のもとから来られた方であることをなかなか認めることができませんでした。自分たちがこれまで聞いてきたこと、学んで来たことに縛られていて、直接神の御言葉を語っているイエスを受け止めることができなかったのです。主イエスは、御自身がどこから来られたのか、どこへ行くのか、そしてどのような存在なのか。これらについてはっきりお語りになりました。   1.自分の罪の内に死ぬ  主イエスは、御自身のことを人々に証しされましたが、頑なに受け入れない人たちがいました。彼らはそれなりに聖書(旧約聖書)の知識がありますから、それに照らし合わせてかみ合わないと、イエスの御言葉を決して素直に受け入れませんでした。主イエスは、そういう場合、非常に厳しい言葉を語られたことがあります。今日の箇所でも、「あなたたちは自分の罪の内に死ぬことになる」と言われます。これは、もしもイエスの御言葉を聞いても受け入れず、頑なに拒むならば、そうなるという意味です。では自分の罪の内に死ぬとはどういう意味でしょうか。  人間には、神の前に罪がある。これはユダヤの人たちであれば皆知っている聖書の教えです。現代の日本人からすると、自分の罪、と言われると何かの犯罪に手を染めたことがあるかどうか、と思い浮かべるでしょう。しかし聖書が言う罪は、それだけではありません。心の中にある思いも、軽い気持ちで言った言葉も、ちょっとした嘘や、意地悪、悪戯、わがままな言動も、神の前には罪とされます。そして、あれこれの心の中の思いや言動だけではなく、私たちが生まれながらに持っている性質のことも含みます。その性質とは神に背いている性質、神を崇めず、従おうとしない性質です。神に従うよりは自分の考えに従い、自分の求めを第一とすること、人よりも自分優先、更には悪事を隠そうとすること、そう言った傾向が生まれた時から備わっているのです。「わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです」(詩編51編7節)。  それは、天地創造の後、最初の人アダ

「イエスは世の光である」2021.3.7
 ヨハネによる福音書 8章12~20節

 救い主イエス・キリストは、御自分のことをいろいろに表現なさいました。今日の朗読箇所で言われている、「わたしは世の光である」という自己紹介はそれらの中でも特に目立つものでしょう。こんなことを言う人は、他にいるでしょうか。いたとしても、そのような発言は、みな眉唾ものとして退けられてしまうでしょう。今日、イエスのことを「世の光である」と教会は告げ知らせていますが、多くの世の人々にとっては気にも留めないことか、一つの宗教の中で、教祖を持ち上げて言っていることだ、と思われているのかもしれません。しかし、私たちはイエスというお方が、ある日突然世に登場して大それたことを言いだしたわけのわからない人物ではなく、ユダヤの国で、何世紀にもわたって語られてきた預言者たちの言葉の上に立って世に登場し、世に向かって語られた方です。今日の日本に住む現代人にも、神は聖書を通してイエスについて語り、変わらず語りかけられていることを知らねばなりません。   1.イエスは世の光  ご自身を光にたとえることのできるイエス・キリストは、御自分がこの世界に対してどういう存在であるかを知っておられました。だからこそ、このようなことを言うことができたのでした。イエスが世の光である、ということは、イエスが地上を歩んでおられた紀元一世紀だけの話ではありません。イエスが「わたしは世の光である」と言われる時、それは地理的にも時間的にもあらゆる国々、あらゆる時代を通じて、世の光であられるのです。  この、光であられるイエスに従う者は暗闇の中を歩かない、と主イエス御自身が言われます。暗闇の中を歩いているというたとえは、人の弱さと罪を表しています。自分の周りを照らしてくれる光がなければ、自分がどこにいるのかわかりません。何かにつまずくかもしれないし、現に道を踏み外して暗闇に落ちているのが人間です。  私たちは、視力がある限りはこの世で肉眼によって光を感じることはできますが、たとえ肉眼で光を感じてはいても、生まれながらに暗闇を歩いているのだ、と聖書は私たちに教えています。神の前に堕落し、背を向けている状態で生まれてくるのが人類一般です。それは暗闇の中を歩いていることです。  そのような人間に対して、光となって照らしその歩む道を導いてくださる方としてこの世に来られたのが神の御子イエス・キリストです。導くだけではなく、