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「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

 待降節=アドベントに入りました。救い主イエス・キリストの御降誕を感謝し、その時を祝い記念するクリスマスを前にして、備えをする期間です。同時に、再び世に来られる主イエス・キリストを待ち望む信仰の姿勢を整える時でもあります。救い主は既に世に来られて、人として地上を歩まれ、そして人々と接し、神の国の福音を宣べ伝えてくださいました。そして十字架にかかり、死なれましたけれども復活されました。その方がこの世に誕生されたこと、これは神の御子が人として生まれられたことなので、特別に降誕と言います。天から降りて来て生まれた、という意味です。私たちはこの世に人として生まれてくる前は、存在していませんでした。しかし神の御子であるイエス・キリストは、地上に人として生まれる前から天の父なる神のみもとにおられました。そして父なる神と一つの方として永遠に天地の造られる前から存在しておられたのです。私たちは、このような方の御降誕を感謝し、祝い、記念するために今、この待降節を過ごしています。そして同時に、再び来られるその方を待ち望んでもいるわけです。 1.主があなたと共におられる  25節までのところには、祭司ザカリアとその妻エリサベトの間に子供が生まれることを天使ガブリエルが告げに来た話が書かれていました。天使の予告通りにエリサベトは身ごもりました。今日の話はその半年後のことです。ナザレというガリラヤの町がありました。花という意味です。そこはガリラヤ湖の西20キロメートルほど、エルサレムからは直線で北へ100キロメートルほどのところにあります。ヨセフという人のいいなずけであるおとめマリアのところに天使ガブリエルが現れました。祭司ザカリアに現われた天使です。マリアとは、諸説ありますが「貴婦人」とか「神に愛された者」という意味があります。   天使はまず祝いの言葉を述べました。マリアは主に恵まれた方だ、と天使は言います。主がマリアと共におられるからです。そして神から恵みをいただいた、とも言います。恵み、とは辞書的な意味では利益、幸福をもたらすもの、と言えます。恵む、という動詞だと、情けをかける、憐れむ、かわいそうに思って金品を与える、という意味になります。大体そのような意味ですが、聖書では無償で与える、という点が強調されます。使徒パウロが特にそれを強調しています。代価を払って受け取るならそれ

「神による救いの物語」 2023.11.26
?ルカによる福音書 1章1~25節

 今年は待降節(アドベント)の始まりが12月3日で来週からです。そういう時季になりました。今年はルカによる福音書の1章から順にクリスマスへ向けて、救い主の御降誕を感謝しつつ神の御言葉に耳を傾けて行きます。この福音書の冒頭には、原始教会で福音書が公に書かれるに至った経緯を示す最も古い証言が書かれています。 1.私たちの間で実現した事柄  私たちは今、この21世紀という現代世界に生きています。はるか2000年もの年月を超えて、この福音書は今もなお私たちの近くで、語りかけています。ルカは「わたしたちの間で実現した事柄」と言っていますが、その事柄こそが、今日生きている私たちをも真に生かすものなのです。それはイエス・キリストに関すること、イエス・キリストその方についての事柄です。ルカのように、多くの人たちがイエス・キリストに関する事柄を書き連ねようとしていたのでした。そいういう中で、今日、新約聖書の中に入れられて神の権威ある御言葉の内に数えられるようになったのは、このルカによる福音書、そして他のマタイ、マルコ、そして時代は後になりますがヨハネによる福音書でした。他の人たちのものでは、もしかすると未完成だったり、不十分だったりしたのかもしれません。ルカは初めから詳しく調べて順序正しく書きました。しかし何と言っても、神がこれら四つの作品を聖書、神の御言葉として読まれるように取り計らってくださり、今日の私たちにまで届けてくださいました。ルカが詳しく順序正しく書いているからという理由で人間が選定して、聖書にしようとしたのではなく、その内容に基づいて、教会の中で自ずから信頼するべきものとして読まれるようになり、そして神の息吹によって吹き出されたものとして教会がそれを認めるようになったのです。そういう一連の動きの中にも神の御手の導きがあって、今の私たちにこの物語が伝えられたのです。  ここでルカはそれ以上詳しくは語っていませんが、私たちの間で実現した事柄、とは、実現することが期待されていた、という意味もあります。これを実現したのは神であって、神の御計画があって、それがこの紀元1世紀という時代に実現したわけです。そしてもちろん、紀元1世紀というのは、御承知の通り救い主イエスの誕生を起点として数えています。ただし、古代のことですから、今の西暦紀元1年は、イエスの誕生よりも数年前だっ

「あなたがたは力を受ける」2023.11.19
 使徒言行録 1章1~11節

 先日、ヨハネによる福音書の最後の所からお話をしました。ずっと続けてこの福音書から御言葉を聞いてきました。そのすぐ後に置かれている使徒言行録は、その続きというわけではありません。冒頭にありますが、この著者は先に第一巻を著した、とありますように、ルカが書いたものです。間にヨハネによる福音書が入っていますが、もともとはルカによる福音書に続けて書かれたので、流れからするとルカ福音書に続けて読むと分かり易いのです。  4つの福音書はイエスの復活について語りましたが、ルカはイエスの昇天まで書きました。つまりキリスト教会は、主イエスを肉眼で見ることのできない時代に入ってきたわけで、新しい時代になったと言えます。旧約、新約、という意味では、すでに新約の時代になっていますからそのくくりでは同じ時代ですが、主イエスが天に昇られて、そして教会に聖霊が降り、それによって地上の教会が世界宣教に向かって歩み出すという新しい局面を迎えたのです。今日は、そのことを覚えつつ、この使徒言行録の冒頭に記されている御言葉に聞きたいと思います。 1.イエスのなさったすべてのことを記した  著者のルカは、テオフィロという人に福音書を書き送りました。この人の名前は「神を愛する者」という意味があります。ルカはその福音書を「献呈する」とも言っていますので、ある身分の高い人であると思われます。ルカは、先に記した福音書で、「イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」と言っています。すべてのこと、とありますが、ヨハネによる福音書の最後の所では、イエスのなさったことの一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう、と書いて締めくくっていました。ルカが使徒言行録で言っているのは、ヨハネが書いたような意味ではなくて、イエスのなさったあらゆることの内、例えば、その誕生とその時に起こったこと、イエスがなさった様々な御業と、あちらこちらで語られた御言葉、そして十字架で苦難を受けられたこと、死んで復活されたこと、そして天に昇られたこと、そういった一連の事柄の内、イエスというお方がどんな方であるかということについて、欠かしてはならないことをすべて書き記したということです。当然ヨハネの言うような意味ではないわけ

「私たちは主に立ち帰ろう」 2023.11.12
哀歌 3章34~66節

 旧約聖書の哀歌から、神の御言葉に聞きます。前回、2020年の1月に、この第3章の前半を取り上げてお話をしました。今回は、単純に残りの後半部分を取り上げました。この第3章は見出しにあるとおり、アルファベットによる詩です。新共同訳では3節ずつ1行空ける形になっていますがヘブライ語の聖書でもそうなっています。各節の冒頭の文字がヘブライ語アルファベットの順です。1から3節までは冒頭の文字が3つとも英語で言うとAになっているというわけです。技巧的な作りになっていますが、技巧を用いながらも、エルサレムの悲惨な状況を描き出し、神の御業と人間の罪の実態、そして神がその人間にどのように相対してくださるのかを描き出しているものです。 1.主は見過ごしにはされない  33節までで、主の慈しみは深く、懲らしめても憐れんでくださる、と作者は述べていました。主が人を苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない、と。その後で今日の箇所が始まるのですが、この34節から39節には、人間とこの世について神がどのようにご覧になっているかという実に深い理解が示されています。この短い箇所に聖書が示す世界観が凝縮されているとっても良いくらいです。  34節では話題を切り替えて、エルサレムに敵が攻め込んできて征服し、人々を蹂躙し、捕えて自国へ捕囚として引き連れていく、という状況を目にして述べています。他国に入り込んで人々を足の下に踏みにじったり、他人の権利を奪ったり、申し立てを曲解して裁いたりする。こういったことは、この旧約聖書の時代から今日に至るまで世界のあちらこちらで行われてきたことです。私たちの日本も同じです。しかしここで、主は決してそれを見過ごしにはされない、とあります。果たして現実にはどうでしょうか。ここに書かれているのは、神の民とされてきたイスラエル、さらに細かく言うとイスラエルが南北に分かれた後の南ユダ王国、その都であるエルサレムが舞台となっています。エルサレムが悲惨な状態になっているのは、バビロン帝国が侵略してきたからでした。では、主はそのようなことを見過ごしにはされずに、ただちにそれに対して対抗処置をなさるのでしょうか。この場合、バビロンが攻め込んできたのは、イスラエルの罪に対する裁きという意味があったのでした。  一般の世界史の中では、大帝国が勢力拡大のために、他国へ侵略

「神の栄光を現すようになる」 2023.10.29
ヨハネによる福音書 21章15~19節

 主イエスは復活された後、弟子たちに姿を現され、3度目にはガリラヤ湖で御自身を現し、弟子たちと共に食事をされました。その後で主イエスが弟子のペトロに言われたのが今日の朗読箇所の初めに言われていたことでした。ここには、主イエスを信じる者は、どのような歩みをするのか、ということについて大事な教えが示されています。 1.わたしを愛しているか  主イエスは、ペトロに対して「この人たち以上にわたしを愛しているか」と聞かれました。これは、他の弟子たちが主イエスを愛している、その愛以上に愛しているか、という問いです。しかし、そのような比較は実際できるのでしょうか。けれども主イエスがあえてそう聞かれたのは、ペトロに自分の気持ちを明確に述べさせるためだったのだと思います。例えば、自分の家族、配偶者のことを考えてみたらどうでしょう。自分の家族について、誰か他の人も愛しているでしょうが、その人たちが愛するにまさって自分は自分の家族を愛している、とはっきり言えなかったらどうでしょうか。もしそうだったら、家族はがっかりするでしょう。なんだ、自分のことを外の誰よりも愛しているのではなかったのか、と。主イエスと弟子たちの場合、確かにペトロの他の弟子たちも、主イエスに対する関係は同等のものです。ペトロだけが特別な関係にあるというわけではありません。しかしイエスはあえて聞かれるのです。それはやはり、ペトロが、かつてイエスが捕らえられた時に、弟子の一人ではないかと問われて、それを否定してしまったことに原因があります(18章17、25、27節)。  ペトロが、他の弟子たちはともかく、とにかく主イエスを愛しているかと問われたのでした。ペトロは自分が主を愛していることは、あなた御自身がよくご存じである、と言います。しかし主イエスはそれを三回も聞かれます。ペトロは3回目には悲しくなったのでした。ペトロ自身も自分が3回、主イエスを知らない、一緒にいた者ではない、と否定したことを忘れるはずもなく、自分のしたことへの恥ずかしさ、情けなさを重々味わってきたことでしょうから、そういう思いが沸いて来て、しかも主イエスがそれと同じ3回も聞いて来られたので、悲しくなったのでしょう。  主イエスは、ペトロが3回否定したことをあえて思い出させて、それに合わせて3回聞かれたのですが、それはやはりペトロのためでした。ペト

「神の言葉が心に記される」 2023.10.15
エレミヤ書 31章31~40節

 私たちには旧約聖書と新約聖書が与えられています。この2つは、初めて聖書を手にした人にとっては、何の違いがあるのか分からないと思います。しかし段々と教会で聖書の話を聞いて行く内に、イエス・キリストを中心として、イエスの誕生前は旧約、イエスがお生まれになってからは新約、という大変大雑把な区別を知ったかもしれません。そういう中で、このエレミヤ書では主がイスラエルとユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と言われています。この箇所は、旧約聖書中でも非常に重要な箇所です。新しい契約、とは、新約聖書の新約、つまり新しい契約です。ここでは、その契約を結ぶ日が来る、と言われており、来るべき日に主がイスラエルの家と結ぶ契約である、と言われています。この新しい契約とは、どういうもので、今日の私たちにとって、一体どういう意味があるのでしょうか。 1.新しい契約  ここで主は、新しい契約をイスラエルと結ぶ、と言っておられますが、新しいものがあるなら当然、古い契約もあるわけです。新しい契約は新約、古い契約は旧約です。古いものと新しいもの、何が違うのか、ということですが、契約というと、この世では通常、当事者同士が一定の条件のもとで結ぶ約束で、それは両者がそれぞれの立場で納得して結びます。神とイスラエルの間にも、契約が結ばれました。この世の契約は、普通は双方がある条件のもとで約束を交わします。雇う側は一定金額を支払う約束をしますが、雇われた側はそれに見合う働きをして成果を上げねばなりません。雇われる側は、その条件が気に入らなければ、契約を結びません。人間同士ではそうですが、神とイスラエルの場合は違います。イスラエル、つまり人間の側は、神が結ぼうとされる契約は嫌だから、その条件では契約しないという選択肢はありませんでした。神が一方的に結ぶ契約で、人間には、それを拒む選択肢はなかったのです。  契約とは、その当時者同士の関係を映し出しています。神とイスラエルの間では、神が主導権を握っています。そして神が与える条件のもとで、人がそれを守るかどうかが問題でした。 2.神の民の心に主なる神の律法が記される  神とイスラエルの場合、どうでしょうか。主なる神は、十戒を代表とする律法を与えてこれを守るようにお命じになりました。戒めを守れば祝福、破れば呪い、という厳しいものです。実は人間は神の前に

「主だとわかっていた」 2023.10.8
ヨハネによる福音書 21章1~14節

 主イエス・キリストは、死から復活され、その日曜日の夕方、そして8日後にもまた弟子たちに御自身を現されました。特に最初に主イエスが弟子たちに姿を現された時に居合わせていなかったトマスの疑いに対して、主イエスが寛大にトマスを受け入れてくださったお話が20章に記されていました。そしてヨハネは、この書物を書いた目的を記しており、いかにもこれでこの話はおしまいであるかのように見えます。実際21章以下は別の人が後から付け加えたという説もあります。何となく読んで受ける感じも多少違うような面もありますが、定かなことはわかりません。しかし、私たちは、今こうして完結している21章までをヨハネによる福音書として受け入れており、それを主なる神が聖書として私たちに読めるように残し与えてくださっているので、何も心配することなく、神の御言葉として聞くことができます。ここには、復活された主イエスと弟子たちとのその後の話が、何とものどかな雰囲気の中で示されており、しかもその中に、今日の私たちもよく覚えるべきことが込められている、そういうお話です。 1.漁に出かける弟子たち  主イエスがトマスにも御自身を現してくださってから後、主イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現してくださいました。ティベリアス湖と言うのは、ガリラヤ湖のことです。この出来事の10年ほど前に、ヘロデ・アンティパスがこの湖のほとりに町を建て、ローマ皇帝ティベリウスの名前に因んで名前を付けたので、この湖もそういう名で呼ばれるようになっていました。  ペトロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たちつまりヤコブとヨハネ、そして他の二人の弟子たちがいました。元々漁師であったペトロが、自分は漁に行くと言ったので、他の弟子たちも一緒になって舟に乗り込みます。夜通し舟の上にいたということは、元々漁師であるだけあって、かなり本格的に漁に臨んでいたのでしょう。この頃、復活した主イエスは、それまでのようにいつも弟子たちと行動を共にしていたわけではありませんでした。14節にある通り、復活後に現われたのは3度目ですから、弟子たちは今までのようにいつでも主イエスの傍にいて何でも聞いたり、その御業を見たりすることはできませんでした。ペトロのこの時に心境は分かりませんが、自分たちに必要な食糧を得る、という単純な理由もあったでしょう。しかし彼