「私たちは主に立ち帰ろう」 2023.11.12
哀歌 3章34~66節

 旧約聖書の哀歌から、神の御言葉に聞きます。前回、2020年の1月に、この第3章の前半を取り上げてお話をしました。今回は、単純に残りの後半部分を取り上げました。この第3章は見出しにあるとおり、アルファベットによる詩です。新共同訳では3節ずつ1行空ける形になっていますがヘブライ語の聖書でもそうなっています。各節の冒頭の文字がヘブライ語アルファベットの順です。1から3節までは冒頭の文字が3つとも英語で言うとAになっているというわけです。技巧的な作りになっていますが、技巧を用いながらも、エルサレムの悲惨な状況を描き出し、神の御業と人間の罪の実態、そして神がその人間にどのように相対してくださるのかを描き出しているものです。


1.主は見過ごしにはされない

 33節までで、主の慈しみは深く、懲らしめても憐れんでくださる、と作者は述べていました。主が人を苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない、と。その後で今日の箇所が始まるのですが、この34節から39節には、人間とこの世について神がどのようにご覧になっているかという実に深い理解が示されています。この短い箇所に聖書が示す世界観が凝縮されているとっても良いくらいです。

 34節では話題を切り替えて、エルサレムに敵が攻め込んできて征服し、人々を蹂躙し、捕えて自国へ捕囚として引き連れていく、という状況を目にして述べています。他国に入り込んで人々を足の下に踏みにじったり、他人の権利を奪ったり、申し立てを曲解して裁いたりする。こういったことは、この旧約聖書の時代から今日に至るまで世界のあちらこちらで行われてきたことです。私たちの日本も同じです。しかしここで、主は決してそれを見過ごしにはされない、とあります。果たして現実にはどうでしょうか。ここに書かれているのは、神の民とされてきたイスラエル、さらに細かく言うとイスラエルが南北に分かれた後の南ユダ王国、その都であるエルサレムが舞台となっています。エルサレムが悲惨な状態になっているのは、バビロン帝国が侵略してきたからでした。では、主はそのようなことを見過ごしにはされずに、ただちにそれに対して対抗処置をなさるのでしょうか。この場合、バビロンが攻め込んできたのは、イスラエルの罪に対する裁きという意味があったのでした。

 一般の世界史の中では、大帝国が勢力拡大のために、他国へ侵略しようとする国としての政策の結果起こってきたことですが、聖書は神の裁きの結果だと言います。それゆえ、イスラエルにバビロン帝国が攻め込んで来て悲惨な状況をもたらすことは神の御心でもありました。だからエルサレムの民は、ある一定の期間苦しみを受け、悲惨な状態を耐えなければなりませんでした。しかし、神の民への裁きを実行する役目を与えられたバビロン帝国の残虐な行いに対して、それを見過ごしにすることはない、というのです。ただし、それがいつ実行されるのかは、すぐに、ただちに、というわけではないのです。しかし神は必ず見ておられて必要な時に、裁きをなさるのです。


2.主に立ち帰ろう

 そして、37節以下では、さらに掘り下げて、この世に起こることは一切、主なる神が命じられるのでなければ起こり得ない、と語ります。災いも幸いも、すべていと高き神の命令によるのだと。これは非常に重要な事柄です。これは非常に究極的なことです。例えば、大震災、感染症の蔓延、ロシアとウクライナの戦争、パレスチナとイスラエルの争い。これらはどうでしょうか。或いはこれまでの日本の歴史の中で行われてきたこと、起こって来たこと、様々なことがあり、世界中でも同じであります。それらはみな、主なる神が命じられて起こることなのでしょうか。突き詰めれば一切のことは、神の許しなしに起こるものはないと言えます。では、それを神が積極的に起こそうとしておられるのかということが問題です。

 しかし逆に、もし神がおられるのに災いも幸いも神が御自身の手によって起こすことができないとなったらどうでしょうか。この世に起こることが手に負えない、神はいるけれどもすべてのことを御自分の思うようにはできない、ということだったら、そういう神を信じてより頼めるでしょうか。それは実に頼りないと思います。しかし、全てを造り、治めておられる主がおられます。その神のもとに、私たち人間は生きています。人間である私たちが神の前にどういう者であるか、どうあるべきなのか、そういうことについて、この後作者は語っていきます。39節の言葉は、訳すのが難しいとされている箇所ですが、この新共同訳だと少し分かりにくい感じがしますが、多くの翻訳は、人は自分の罪について、どうして不平を言えるのか、ぶつぶつ言えるのか、というような意味に訳しています。恐らく、次の節との関係で、神が幸いも災いも命じて起こされるのであれば、自分の罪についても責任逃れをしようとするという考えを持たずに、主に立ち帰る、ということを第一にするべきだ、という勧めと受け取りたいと思います。

 そして作者は自分たちが主に背き逆らったこと、主は赦してくださることなく、祈りも聞いていただけなかったと言います。もうだめだ、最期だとまで思ったのでした。しかしそれでも作者は御名を呼ぶのをやめません。そして、最も重要な願いを込めた一言を発するのです。


3.主が命を贖ってくださる

 それが、「主よ、生死にかかわるこの争いを、わたしに代わって争い、命を贖ってください」という願いです。作者は自分たちの置かれた窮状を知っています。そしてそれが自分たちの罪のゆえだということも分かっています。それでも、自分たちに加えられた不正な行いを主が見てくださって、その者たちに相応しい報いをあたえてくださいと願うのです。

 こうして見てきますと、この3章では作者は、自分たちが主の怒りに触れて苦しみを味わっていること。しかし主の慈しみは決して尽きないことを知っているので、望みを失ってはいないこと。そしてすべてを支配される主がおられるので主に立ち帰ろう、と自覚していること。このような内容を歌っていました。しかし最後に至って再び嘆き苦しみを訴えかけ、敵に対する報復を主に求めています。つまり、起承転結が論理的に組み立てられているような文章ではなくて、今挙げたような心の内にある思いが入り乱れており、そして主語を「私たち」と言って民の声を代表しているような面もありますが、「私」と言って非常に個人的にも見える嘆きを歌うのです。しかもアルファベットを折り込むような大変技巧を凝らした形式の歌を作っています。このような形をとって、この哀歌は大変悲惨な状態に置かれた主の民の苦しみを描き出し、それが自分たちの罪によるものだと知ってはいるけれども、しかし主の憐れみと慈しみにより頼みつつ、酷い苦しみをもたらしてきた敵に対する報いも主がなしてくださるようにと祈るのです。

 つまり一見まとまりがないようにも見えるのですが、悲惨な状況に置かれた人間の苦しみを描き出し、その根っ子には人の罪の深さがあること、それが原因で様々なことが起こってくるけれども、全てを主がご存じであって、災いも幸いもいと高き神の御心によらずして起こるものはないのだから、それをよく弁えて、とにかく主に立ち帰り、命を贖ってくださる主を信じよう、という信仰をもって歩むことを教えているのです。

 私たちはもはや自分たちの命を自分でどうにかすることができない。生き死にに関わることは、人は自分の思い通りにはできず、自分の人生を自分の支配下に置くことはできない。これを悟らねばならないのです。今、目の前に起こっていることについて、いちいち自分が納得できるかどうかを一番大事なことにするのではなくて、私に代わって、私たちに代わって命を贖ってくださる方、救い主に一切を委ねるのが最善の道なのだ、だから主に立ち帰ることが人の本分なのだ、と教えていると言えます。

 今日、この救い主として、神の御子、イエス・キリストがこの世に来てくださったことを私たちは教えられ、信じています。人間には分からなくても、納得できなくても、災いも幸いも御手の内に治めておられる主なる神にゆだねます。私に代わって罪と戦い、十字架で命を贖ってくださった主キリストがおられます。この方が私たちの立ち帰るべき主であります。今は理由がわからなくても、全部のことを理解できなくても、もう最期だと思っても、主に立ち帰ることによって、一切をご存じの救い主であり主である方にゆだねることができます。救い主イエス・キリストこそ、私の命をこの罪と悲惨と苦しみの中から救い出すことができるのです。

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