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「真の幸福とは何か」2019.6.23
 コヘレトの言葉 6章1~12節

 真の幸福とは何か。この答えを知ったとして、では、その幸福を手に入れるにはどうしたらよいのか。今日の題からはそのようなこと考えさせられるかもしれません。旧約聖書のコヘレトの言葉を手掛かりに、聖書がどのように教えているのかを学びましょう。「コヘレト」とは集会で教える者、というような意味があります。この作者は、人間の生きる世の中について、私たちがまず真直ぐにその現実を見るようにと勧めています。そうして、何が真の幸福なのかを見極めなさい、そして真の幸福を手にいれなさい、と私たちに促しているのです。 1.この世の現実を見つめる このコヘレトの言葉では、「太陽の下」という言い方をしばしば使っています(1章3、9節、2章11、18,20節、4章1、7、15節、5章12、17節。8章以下も多数)。太陽に照らされて生活している人間とその世界、ということをとても意識しています。天の下、という言い方もします(1章13節、3章1節等)。この言い方をする時、それほど大きな区別をしているわけではないと思いますが、「天」というのは神がおられる所を表す表現でもありますから、神がおられる天に対して人が住む天の下、それが太陽の下、ということです。太陽の下も、実は神が支配しておられる所です。しかしコヘレトの言葉では、「太陽の下」という言い方で、私たちが目に見ているこの世界のことを表しています。そしてそこでは神に背を向けた人間が動きまわり、生きてはいるけれども空しさの内にあって、不幸の下に支配されている、というのです。 この6章で描き出されているこの世の現実は、なるほどその通りだと思わせるものです。いくら富や財宝や名誉を得たとしても、自分でそれを十分楽しむことができずに、多くの財産を後に残して世を去ったり、いくら長生きをしても、幸福でなかったりしたら、何になるだろうか。これは本当にその通りです。長生きして子どもや財産を沢山残したとしても、その人生に満足できず、幸福でなかったら、そして、葬式も上げてもらえなかったら、生まれて来なかった子どもの方がまだ幸いだ、と言っています。富や財産を得るのは、それによって幸せに暮らすためなのに、富の獲得が人生の目的になってしまい、人生そのものに満足できなかったら、それは不幸なことです。 そして、7節以下では少し違う角度から人生について見ています。懸命に働くことと

「神の子とする霊を受けた」2019.6.9
 ローマの信徒への手紙 8章1~17節

今日は、紀元1世紀のキリスト教会に、イエス・キリストが約束された通りに神の聖霊が降られたことを記念する、聖霊降臨日です。ペンテコステ、と普通私たちは呼びならわしています。ペンテコステとは、「50番目の」という意味があります。使徒言行録2章にその時のことが記されています。今日はそちらの記事を逐一見ませんが、5旬祭と言われています(同1節)。ユダヤ人にとって大変重要な祭りである過越しの祭りから50日目にあたる、刈り入れの祭りです。主イエスは、過越しの祭りのときに十字架にかけられて処刑され、死んで葬られましたが3日目に復活されました。それがちょうど日曜日であり、その日から50日目の日曜日、それが5旬祭であり、刈り入れの祭りでした。その日に神の聖霊は教会に降られました。この聖霊降臨、という出来事があったので、教会はこうして今日までこの世に存続し続けており、世界中への宣教を継続しているのです。今、私たちがこうして集まっているのも、聖霊降臨の出来事ゆえです。聖霊は昔も今も変わらず教会においてその信徒たち一人一人の内に働いておられます。 1.キリストに結ばれている者 キリストに結ばれている者は、罪に定められることはない。これは、この世で何らかの犯罪に手を染めたとしても有罪になることがない、というわけではもちろんありません。私達一人一人は、みな最後に神の前に立たされて、この世での罪について、神の判定を受けなければならない、というのが聖書の教えです。この世で犯したあの罪、この罪、というだけではありません。この世で裁判沙汰、警察沙汰になることがたとえ一度もなくても、神の前には罪がある。これが私たちです。神は人の心の中もご存じです。その神の前に、私たちはいくら自分の正当性を主張しても無駄です。なぜなら私たちは生まれながらに罪の汚れを受けており、自分自身でも神に反することを行なっており、それは神の前に弁明できません。しかし、キリストが私たちの代わりに罪を償ってくださったから、私たちがそれを信じて受け入れるなら、私たちは罪に定められることがない。これがこの8章1節が言っていることです。 私たちはたとえキリストを信じたとしても、なお私たちのうちに残っている罪がありますので、この世で完全に清くなることはできません。しかしもはや罪を赦していただいたので刑罰を受ける必要がない。そればかりか、

「すべてのものへの福音」2019.6.2
 マルコによる福音書 16章1~20節

今日の朗読箇所は、8節まではイエスの復活を記念するイースター礼拝にてお話ししましたが、今日改めて16章1節から20節までを朗読し、私たちに伝えられている福音書の語るところに聞きたいと願っています。それで今日は、9節以下を中心にお話しします。 1.この福音書の終わり方について このマルコによる福音書は、16章8節の後に結び一と結び二というものがついています。9節の前と20節のあとに、〔 〕があって括られています。新共同訳聖書の凡例にありますように、この〔 〕で括られた部分は、古代の加筆と見られているが年代的に古く重要である箇所を示す、とされています。この新共同訳聖書の底本となったギリシャ語聖書を出版するに際して、マルコが書いたそのものではないだろうけれども、キリスト教会において古くから付け加えられてきたのでこの〔 〕入りで印刷されてきたものです。今では、マルコによる福音書は16章8節までがマルコが書いたものであり、その後についている九節から20節までの結び一と、更にその後についている、結び二は、マルコよりも後の誰かが付け加えたものであろうと見るのが定説になっています。マルコの語彙と違うとか、言い回しが違う、という理由もあります。 8節までがマルコの手によるとすると、8節で終わっているのはいかにも不自然である、という見方もでてきます。日本語で「恐ろしかったからである」で終わっていますが、言語でも「~だからである」という単語で終わっています。文章がこの語で終わることは全くないことはないようですが、大変珍しい文章であるとされています。書物全体がこの語で終わるのは他に例がないそうです。それで、この福音書の終わり方について三つほどの説があります。一つは、マルコはここまでで終わりにした、というもの。もう一つはこの先があったのだけれども、何かの事情で散逸してしまった、というもの。三つめは、マルコはこの先を書こうとしていたのだけれども、突発的な何らかの事情によって書けなくなってしまったというもの。これらは結局推測にすぎません。おそらくマルコはここまでで福音書を閉じたけれども、復活の記事そのものを加えようとした後代の人によって書かれたものが集められて結び一と二として今日のように付加された形で伝統的に伝えられてきたものと思われます。全く信頼に足らないずっと後の付加ならばまだしも、

「人には造れないものがある」2019.5.26
 使徒言行録 17章22~34節

 「人には造れないものがある」。この言葉を、皆さんはどう思われるでしょうか。そんなことは当たり前である、という答えもあるでしょうし、確かにそうだ、という答えもあるでしょう。この言葉を裏返すと、人には造れないが、神ならば造れるものがある。さらに、神にしか造れないものがある、ということです。そちらに目を向けていただきたい、ということを初めに述べておきます。 1.人には造れないもの 先ほど朗読しました使徒言行録17章の箇所は、キリストの使徒パウロがギリシャのアテネで神について語ったことが記されています。今日のお話の題に関わる言葉としては、「世界とその中の万物とを造られた神がその方です」(24節)と、「神は、一人の人からすべての民族を造り出して~」(26節)という二つの文章がありました。 この世界はどのようにできたのだろうか。自然に出来たのか、偶然の産物なのか、誰かの意志によってできているのか。無神論の立場と神を信じる立場とでは全く違ってきます。私たちは今、もちろん聖書の言葉を前にしていますから、神がこの世界とその中にあるすべてのものを造られたと信じ、その言葉に聞こうとしています。けれども、その前に、人には造れないものについて、少し考えてみたいと思います。 人は様々なものを加工して道具を作り、家を建て、道路や橋、その他いろいろなものを造ってきました。何百メートルもある高層ビルなどを見上げますと、実に凄いものを人は造っている、と思います。飛行機も、あれがなぜ飛ぶのか、実はまだその理由は良くわかっていないということですが、それでもあんなに大きなものを空に飛ばせる。果ては宇宙のはるか彼方に宇宙船を送って、惑星や、小惑星などに着地させる。長年の人類の知識と技術と知恵と経験が蓄積されて、今日に至っているわけですが、大したものだと思います。逆に微小な世界を考えてみると、パソコンのハードディスクやメモリの中に、本にすれば10万冊以上もの情報を詰め込むことができる。これまた、人間は凄いものを作ったと思います。電気信号によるものとはいえ、どうしてあんな微小なものに膨大な情報を書き込めるのか、不思議です。それこそその道の知識を持っている人にしか、把握できないことではないでしょうか。 そうです。今の時代では知識や技術の専門化が進み、一部の人しか分からないことがたくさんあるわけです。し

「あなたの隣人を愛しなさい」2019.5.19
 マルコによる福音書 12章28~34節

 今日は「あなたの隣人を愛しなさい」という、聖書全体を通してとても大事な戒めを神から私たちは受けている、ということを教えられています。隣人愛の教えは、キリスト教の教えの中でも際立って大事なものであることは、世の中の割と多くの人が知っていることかも知れません。この戒めが何を意味しているのか、何のために与えられているのか、私たちはこれを聞いてどうすべきなのだろうか。このような問いを念頭に置きながら、この聖書の教えに聞きたいと思います。 1.律法学者の問い 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という、一人の律法学者の問いに対してイエスは、二つのことを言われました。まず、隣人を愛しなさい、の前に、唯一の神を愛しなさいという戒めがあります。この神は唯一の神ですから、他の神々にも同じように愛を注ぐのではなく、ただ一人の神だけを愛する。そして、神に対しては、心と精神と思いと力を尽くしてです。言い換えれば全身全霊で、最高に心からの愛をもって愛する、と言えます。 更に主イエスは、第二の掟として「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。隣人を愛する場合は、神に対する愛とは明らかに違って、自分のように愛しなさいと命じられています。基準が違います。ここには、人間は自分のことは誰でも愛している、という前提があります。人は、自分のことを愛せ、と命じられなくても普通は自分のことを愛している、と言えるからでしょう。確かに私たちは誰からも命じられなくても、自分にとって良いと思うことを選択します。快適な環境を求め、飢えや空腹を満たそうとします。生きていくのに必要なことを自然と求めていきます。自分の利益になることを特に意識しなくてもやっているのです。隣人に対しては、神に対するのとは違って全身全霊をもって愛するほどの愛を求められていません。しかし、目の前にいる人は自分と同じ人間だから食べなければ腹が減るし、のども渇く。少しでも快適に過ごしたいと思う。自分と同じように目の前の人が過ごせるように手を貸し、配慮をしなさい、ということです。旧約聖書では、レビ記19章18節という所に、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と命じられており、これが隣人愛について一言で語っている掟です。 2.隣人とは 主イエスは、ある時、何をしたら永遠の命が得られますか、と質問してきた律法の専門家に対し

「あなたの父母を敬いなさい」2019.5.12
 出エジプト記 20章1~17節

 今日は「母の日」ということで「あなたの父母を敬いなさい」という、十戒の中にある神の戒めに聞きたいと思います。十戒は、その昔映画にも取り上げられたことがありますが、モーセの十戒として有名で、先ほど朗読した旧約聖書の出エジプト記の中の一つの戒めです。「父母を敬いなさい」という戒めは五番目にある戒めです。この十戒は、初めの4つが神様に関する戒め、後の六つは人に関する戒めです。言い換えると、前半4つは神への愛について、後半六つは人への愛についての戒めです。人への愛は、隣人愛と言われることもあります。隣人とは、自分以外のあらゆる人を含みます。隣人愛については、次週お話しする予定です。 1.十戒の第五戒としての戒め 十戒は、神が、エジプトの地で奴隷生活を送っていたイスラエルの人々を救い出してカナンの地、いわゆるパレスチナの地へと導かれた時、途中のシナイ山でお与えになった戒めです。年代について多少学説の違いがありますが、今から1,400年程前のことです。イスラエルの民は荒野の旅をしていましたが、神が指導者として立てられたモーセに、シナイ山でお授けになった戒めです。神は2枚の石の板の両面に十戒を刻んでモーセに授けられました。 この戒めが与えられたのは、イスラエルの人々が、神が彼らをエジプトから救い出されたことを感謝して、その戒めを守り、神の民として相応しく生きるにはどうすべきかを教えられたものです。民が神を畏れる畏れをもって、罪を犯さずに生きることを学ぶためでした。 前半の4つは、まず神を神として信じる民は、この神のみを神として信じあがめること、他の神々を拝んではならないこと、手で造った像を拝んではならないこと、主の御名を尊ぶこと、安息日を心に留めてその日は仕事から離れて安息し、神の創造の御業を覚えること。これらのことを命じています。 そして、人はただ神を崇めて神を信じて、神に対してだけ守るべきことを行なっていれば良いのではなく、人と人との関係の中でも、守るべきことを示されました。まず神を覚えるべきなのですが、その神は、人間を神の形に似せて造られましたので、神の形を担っている人間は、お互いを尊ぶべきなのです。そして特に親である父と母を敬うようにとお命じになりました。そうすることによって、自分を低くし、父母よりも更に上におられる天の父である神を畏れ敬うことを、私たちに学ば

「子どもをイエスのもとに」2019.5.5
 マルコによる福音書 10章13~16節

 この一ヶ月間は、尾張旭教会だより第5号でご案内した題によってお話をします。今日は、日本では「子どもの日」であり、それに因んでお話しします。大辞林によると、「子供の人格を重んじ、子供の幸福をはかるとともに母に感謝する日」とあります。「母に感謝する日」というのは、あまり知られていないかも知れません。もともと「端午の節句」で、「古くはショウブ・ヨモギを軒に挿して邪気を払う風があった」とありました。これらの言葉には、ある面でとても大事なことが含まれています。今日は、聖書からお話をしますが、この、辞書に言われていることを視野に入れながら、考えてみたいと思います。 1.イエスに触れていただこうとする 先ほどの辞書の説明に、「子どもの人格を重んじ」とありました。そもそも聖書では、人間は神の形に似せて造られたものである、と教えています。それは、他の動物とは違って人間は神というお方の中にあるイメージに似ているものを刻み込まれているものだということです。動物には言葉がなく、倫理や道徳、つまり正義とか善悪についての判断はできません。どんなに知能が高くてもそれはできないわけで、人間とは決定的に違います。自分の存在について考えて、死んだらどうなるのだろうかとか、永遠に思いを馳せたりするのは、人間がそのようなことを考える者として造られているからです。それは子供の内にもあるわけであって、一人の人間として重んじなければならないわけです。 しかしながら先ほど見た新約聖書の記事を見ればわかるように、子供はある面軽んじられやすい者であることがわかります。大人が何かやっているところに子どもは容易に入ることはできませんし、大人の話に口をはさむな、と言われます。日本でも同じことで、子供の日について「子供の人格を重んじ」と敢えて言われるのは、普段軽んじられていることの裏返しと言えます。普段から重んじられていればそうは言わないはずです。 イエスのもとに人々が子供たちを連れてきて、触れていただこうとしたのは、近頃評判のイエス様に触れていただければ、子供たちにとってはありがたいことだ、子供たちが元気に成長してゆけるように祈っていただけるのではないか、祝福の言葉をいただけるのではないか。何がしかをいただけるに違いない。そういう思いを抱いて子供たちを連れて来たのだと思われます。それは、親としては自然な思いであ

「常に主を覚えて歩け」2019.4.28
 箴言 3章1~20節

 私たちのこの世での生活や人生は、それを過ごす、とか歩む、と言われます。歩むと言われるのは、それが常に進んでいる、動いているということが意識されているからでしょう。たとえある一つの場所に留まって、生涯その土地に住むとしても、それでもその人の人生を歩む、と言います。それはどんなにそこにじっと留まっているとしても、私たちは時間の流れの中に置かれているので、黙っていても変化してゆくからでしょう。自分ではそんなに意気込んでいなくても、世の中に流されているようでも、私たちはこの世を、自分の人生を歩んでいると言えます。世の中には勇ましい人もいて、自分の人生は自分で切り開いていく、と強い意志をもって生きている人がいるようです。しかし、私たちはそもそも自分が生きていること、今この時代にどこの国で、男か女か、どこの国に属する人であるか、ということを自分で決めたわけではありません。自分の意志ではないものによって自分の人生があてがわれていて、気がついたら自分の人生を歩んでいのが私たちです。そんな私たちは、自分がこの世を歩んでゆくことの根拠、或いは土台をどこに据えたら良いのでしょうか。箴言の語るところに耳を傾けたいと思います。 1.常に主を覚えよ この礼拝に集っておられる方々の内、既に信仰によって歩んでおられるクリスチャンの方にとっては、それは何かという答えは、言葉としては簡単に出てくるものでしょう。求道者の方にとっても、今日の説教題を見れば、それは箴言3章6節にある言葉だ、ということに気がつかれると思います。常に主を覚える。それは具体的には何を意味するのでしょうか。ただ何となく、天地の創造者なる神がおられてすべてを造り、支配し、導いておられる。つまり全能者なる神がおられる、と信じることでしょうか。何となく、と言いましたが、もしこのことをちゃんと信じているなら、それはとても大事なことです。天地の創造者なる神がおられて、私をも生かしておられる。だから、自分の人生は、神によって与えられたものである。だから自分は神に従って生きようと思い、そう努める。それは確かに主を覚える、ということです。言い換えると、創造主であり、しかも摂理によってすべてを導く主なる神を覚えて、つまり心に留めていることです。心に留めているとは、単に忘れずにいる、というだけではなく、すべてのことに神の御手が及んでいるという

「新しい命に生きる」2019.4.21
 マルコによる福音書 15章42~16章8節

救い主イエス・キリストの復活を祝い記念するイースターの日を迎えました。こうして主の教会において、ともに礼拝を献げられる幸いを感謝します。福音書が私たちに告げ示していることを、改めてよく聞きましょう。 1.イエスの埋葬 イエスが十字架上で息を引き取られたのは、ユダヤ人たちが神の律法に従って守っている安息日の前日のことでした。時は既に夕方です。ユダヤでは、安息日は日没とともに始まります。旧約聖書の律法には、「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日の内に埋めねばならない」と命じられています(申命記21章23節)。安息日には死体をきれいにしたりすることができませんから、日没で安息日が始まる前に、アリマタヤ出身のヨセフは死体を十字架から降ろしたかったのです。ローマの慣習では、十字架に架けられた罪人の死体は、要請があれば引き渡されましたので、ヨセフはそうしたのでした。ヨセフは「勇気を出して」ピラトの所に行きました。彼はユダヤ人悪中で身分の高い人でしたから、ユダヤの最高議会が死刑であると判定したこのイエスの死体を引き取ることには勇気がいったわけです。彼は同僚の決議や行動には同意しなかった、とルカは書いています(23章51節)。彼は神の国を待ち望んでいました。マルコがこう記しているということは、このヨセフは、イエスが神の国を来たらせてくださる方だという期待を抱いていたからです。 この申し出を受けたピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思ったとあります。それは、十字架に架けられた人が何日間も生きながらえることがあるためで、それに比べるとイエスが息を引き取られたのは早いと思ったからでしょう。しかし、イエスがこの過越しの祭りにおいて十字架につけられ、死なれたことは、大いなる神の摂理のもとにあることでした。罪を贖う犠牲の小羊として主イエスは十字架で死なれたのでした。こうして主イエスは死んだ人として墓に葬られました。墓に葬られたことは、イエスが確かに死なれたことを証ししています。だからこそ復活されたのです。 2.墓は空であった  安息日が終わって、日曜日の朝早く、マグダラのマリアたち三人の婦人は、イエスに油を塗るために香料を買って、墓へ行きました。イエスはおそらく血まみれのまま急いで墓に収められたことと思われます。それゆえ、婦人たちはイエスの体をきれいに