投稿

6月, 2017の投稿を表示しています

「神の言葉を無にしない」  2017.6.25
マルコによる福音書 7章1節~13節

 救い主イエス・キリストは、当時の人々の間で、本当に大事なことを第一とする、という点を常に明らかにされたお方でした。たとえどれだけ歴史と伝統があろうとも、それが本当に神の御心に適っていることなのかどうか。本当に神の御言葉はそれを教えているのか、それは神に従う者が真に守り行うべきことなのかをいつも見ておられました。今日の朗読箇所は、そのことを如実に示している出来事です。 1.昔の人の言い伝え  ファリサイ派の人々と律法学者たちは、聖書に何が書かれているかという点については、十分な知識をもっています。しかし彼らは、神の律法に少しでも抵触することがないように、律法に細則のようなものを付け加えておりました。しかしここに描き出されていることは、昔の人の言い伝えを堅く守っている姿です。この言い伝えは、律法を破らないために付け加えられてきた細かい規則などが書き留められずに口伝で伝えられてきたものです。後に、紀元三世紀ごろになってこれらが集められて記述されるようになりました。  ここでは、手を洗うことについて議論されています。イエスの弟子たちの中に、洗わない手で食事をする者がいました。私たちも今日、食事の前によほど手が汚れていれば洗います。しかし、例えば外出先で会議の後に、では食事に行きましょう、という時など、そのまま行くということもあります。今では店でお手拭きが出ますので、それで手を拭けば十分、ということです。私たちが日常手を洗うのは、ほぼ衛生面でのことです。しかしここでイエスの弟子たちについてファリサイ派の人々がとがめたのは、宗教的なもの、儀式的な面での汚れです。  確かに旧約聖書では、穢れについて非常に細かく規定しています。ある動物は汚れていますから、食べてはならないものでした(レビ記11章)。重い皮膚病にかかった人は汚れている、と祭司から言い渡されました(同13章)。ほかにもいろいろなことで清いか汚れているか、を左右する規定がたくさんあります(同13~15章)。死体に触れた人は七日間汚れる、という規定もあります。(民数記19章)  このような規定がありますから、穢れているものと清いものについて民は非常に神経を使っていたわけです。ユダヤ人から見れば真の神を信じていない異邦人は穢れています。それゆえ、いろいろな人がいる市場に行った後は、その穢れを除くために身を清める

「先立って進まれる神」 2017.6.18 
申命記 1章1節~33節

 人生は旅である、などと言われます。では旅とは何か、と考えると、自分の定住しているところから離れて別の土地へ行き、滞在すること、と言えます。 辞書を引いてみますと、「自宅を離れてある期間ほかの土地で・不自由に(のんびりと)暮らすこと」とありました(新明解国語辞典)。 不自由に、のんびりと、というのは場合によってかなり違うかもしれませんし、ふだんの居住地からの距離や、その期間などによっても違います。相当に裕福な人が、何不自由なく生活できるようなものをすべて取り揃えて旅に出るとしても、旅をして移動してゆく、ということになると、どうしても不自由な状態であるということは否めないでしょう。旅と言えば、旧約聖書では、イスラエルの民が荒れ野の旅を40年も続けました。 今日朗読した申命記の一章は、その旅の終わり近くに、イスラエルを導いてきたモーセがこれまでのことを振り返りながら、主なる神がどれだけのことをしてくださったのかを人々に教え、改めてこれからさらに歩みを進めていく民を戒めています。荒れ野の旅は不自由そのものでした。そして40年というとんでもなく長い期間に及ぶ旅でした。それはとてものんびりなどということのできないもので、他の民族の住む土地を通らねばならなかったですし、時には戦いもあり、常に緊張感を持って生活していなければなりませんでした。その末にたどり着いたカナンの地は、乳と蜜の流れる土地、と言われるようにとても潤った、緑豊かな土地でした。そうして定住の地を得たイスラエルの人々はやっと旅の生活に終わりを告げ、落ち着いた生活を始めることになります。 しかしその後もまた、周りの異民族との戦いが続き、緊張は続きます。しかし今日はその先のことではなく、荒れ野の旅の最後に当ってのモーセの言葉から、神がどのように民を導かれたのかを学び、そして今日の私たちにとっての神はどうなのか、ということを御言葉に聞きましょう。 1.主の命令か、人の意見か  今日は、「先立って進まれる神」という題でお話ししています。そのことを中心に今日の箇所を見ておりますが、28節までのところでは、その神に従おうとしなかった民のことをモーセは振り返っています。先立って進まれる神がおられるのに、自分たちは進もうとしなかったのです。  民数記にその後のことがより詳しく記されています。山地を偵察した人々の報告

「恐れるな、主がおられる」  2017.6.11
マルコによる福音書 6章45節~56節

 神の御子、救い主イエス・キリストは、多くの奇跡を行ない、ご自身が神のもとから来られた方であることを証しされました。6章44節までの記事では、主イエスが五千人もの人々に五つのパンと二匹の魚を分けて、しかも皆が満腹するほどに分け与えられるという奇跡をなさいました。このことを通して、主イエスはご自身が真に人々を養うことのできる牧者であられることをお示しになりました。  主イエスは単にこの世で生きるための食糧を人々に提供することを第一の目的としておられるわけではありません。しかし、私たちの体も心・魂もどちらも養うことができるお方であります。主イエスは、目に見えるもの、食べ物、自然現象、そういった一切のものを御手の下に従えておられる方であることを、私たちは今日の朗読箇所からもまた、教えられております。 1.湖の上を歩くイエス  主イエスは、弟子たちを船に乗せてガリラヤ湖の東側にあるベトサイダへ先に行かせました。このベトサイダは、ペトロとアンデレの町でもあります。そして群衆を解散させ、ご自分は祈るために山に登られます。夕方になると、とありますが、これはおそらく夜になって、ということのようです。ガリラヤ湖は南北約20キロメートル、東西の最も幅のある所で約12キロメートルあります。尾張旭市と瀬戸市を合わせた広さよりも少し広い面積があります。琵琶湖の4分の1ほどですが、それでも結構な広さです。それほど広い湖に漕ぎ出していた弟子たちは逆風でこぎ悩んでいました。  群衆と別れてからのイエスは山で祈っておられましたが、弟子たちがどのような状況に陥っているかは、ご存じだったことでしょう。あえて弟子たちを湖上でこぎ悩むままにさせておいて、夜が明けるころ歩いて湖の上を歩いて弟子たちの所に行かれました。このような話を聞くと、おそらく現代人の多くはそんなことは信じられない、ということでしょう。しかしここで福音書記者マルコが言いたい第一の点は、イエスという方は湖の上をも歩くことのできるすごいお方なのだ、ということではなかったように見えます。イエスは神の御子として多くの奇跡をなさいましたから、湖の上を歩かれたからと言って、それを殊更に強調しているわけでもない書きぶりです。  湖の上を歩いたことなど、至極当たり前のようにさえ書いています。むしろマルコがここで言いたかったのは、そばを通り過ぎよ

「神の偉大な業を知る」  2017.6.4  ペンテコステ礼拝
使徒言行録2章1節~13節

 今日は、ペンテコステを記念する礼拝です。「ペンテコステ」とは、新約聖書の書かれたギリシア語で、「五十番目の」という意味で、日本語では「五旬節、五旬祭」と呼ばれます(2章1節)。イスラエルでは、その昔、神がモーセを立ててイスラエルの民をエジプトから救い出してくださったことを記念して、過ぎ越しの祭りをずっと行ってきましたが、その二日目から数えて七週間後、五十日目に守られた祭りで、「刈り入れの祭り」とか「七週の祭」と呼ばれました。元々小麦の収穫感謝祭で、イスラエルの民が必ず祝う大切な時でした。主イエスが十字架にかけられたのが過越しの祭りの時で、復活された日曜日から数えて五十日目(七週間後)がその五旬祭でした。これは偶然ではなく、神がご計画されていたことです。その時主イエスの約束を信じて集まっていた信徒たち聖霊が降ったので、それを記念するのが今日のペンテコステです。今年は4月16日が主イエスの復活を記念するイースターでしたから、その七週間後が今日、6月4日というわけです。 1.聖霊に満たされて  エルサレムには、周囲の国々から帰って来た人々が住んでいたので、いろいろな国の言葉を知っている人たちが町中にいました。主イエスを信じ、熱心に祈っていた弟子たちが一堂に集まっている所に、聖霊が降り、一同は「聖霊に満たされ」ました。ここで信徒たちが経験したことは、誰が見てもわかる現象でした。激しい風の吹いて来るような音(音声)、炎のような舌の出現(視覚的)、一同がいろいろな国の言葉で話し出したこと(人の言動)によって示されました。聖霊(神の霊)のお働きは天地創造から続いており、旧約聖書の預言者を通して、イスラエルの歴史の中で働いてこられましたが、ここでは、特に主イエス天に昇られた後に集まっていた信徒たちの上に聖霊が降られました。このことを聖霊降臨と言いキリスト教会にとって非常に重要な出来事となりました。聖霊が降られることによって、信徒たちがイエス・キリストの復活の証人として力強く宣教のために働き始める出発点となったからです。この聖霊降臨により、この世にキリスト教会が姿を現し、組織されていきました。この時弟子たちが各国の言葉で語り出したのは、世界宣教の始まりを象徴的に表した奇跡的な出来事でした。  そして、信徒一人一人に聖霊の力が与えられ、主イエスの復活を信じ、聖書がイエスを証し

「永遠の命が保証される幸い」 2017.5.28
ヨハネによる福音書 10章22節~30節

 神は、「永遠を思う心を人に与えられる」と旧約聖書『コヘレトの言葉』に記されています(3章11節)。「永遠」という言葉の意味は、手元の辞書によれば「(過去・現在から)未来に至るまで、時間を超越して、無限に続くこと」です。時間を超越している、とか無限に続く、ということは言葉の上ではわかりますが、なかなか私たちには実感できないのではないでしょうか。恋人同士や結婚する二人が永遠の愛を誓う、などと言う場合がありますが、死んだ先も未来永劫にお互いに愛する、と言っても果たして本当にそれが実現できるかどうかは実は疑わしい、と言えないでしょうか。そんなことはわかっているけれども、その時のお互いの気持ちを表しているだけだ、と言われるかもしれません。実際、永遠の愛を誓ったつもりなのに、何年かしたらさようなら、ということがあるのも人間の現実です。ある歌の歌詞に「永遠なる愛なんて信じてない」という一節がありました。これは人間同士の愛を言ったものと思います。私はそれを聞いた時、ひねくれてはいますが「永遠の愛を誓う」などと簡単に言うよりはよほど人間の真実の一面を表しているな、と思ったことがあります。こんな歌詞の入った歌は、一般にはあまり喜ばれないでしょう。それでも、人間にとっては、愛であろうと、命であろうと、自分の力と決意だけでは保証できないのが「永遠」という言葉だと思います。 1.キリストが永遠の命を与える  聖書で永遠と訳される言葉がありますが、時間を超越している、というよりも、限界のない時間、という面が示されています。神について言われる時には、時間を超越しているという面もあるように見えます。「大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神」(詩編90編2節)、という一節が旧約聖書にあります。しかし大方は単純にいつまでも、限りなく、つまり無限にという面が表されています。また、「永遠」とは過ぎ去っていくものとの対比でも語られています。「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」(ヨハネの手紙一 2章17節)。いずれにしても、人は永遠の愛にしても永遠の命にしても、自力で手に入れることはできないのが本当のところです。 私たちはこの世に生きてきて、人は必ず死ぬという事実をある時から知るようになります。そしてそれは例外なく誰にも、当