「主だとわかっていた」 2023.10.8
ヨハネによる福音書 21章1~14節

 主イエス・キリストは、死から復活され、その日曜日の夕方、そして8日後にもまた弟子たちに御自身を現されました。特に最初に主イエスが弟子たちに姿を現された時に居合わせていなかったトマスの疑いに対して、主イエスが寛大にトマスを受け入れてくださったお話が20章に記されていました。そしてヨハネは、この書物を書いた目的を記しており、いかにもこれでこの話はおしまいであるかのように見えます。実際21章以下は別の人が後から付け加えたという説もあります。何となく読んで受ける感じも多少違うような面もありますが、定かなことはわかりません。しかし、私たちは、今こうして完結している21章までをヨハネによる福音書として受け入れており、それを主なる神が聖書として私たちに読めるように残し与えてくださっているので、何も心配することなく、神の御言葉として聞くことができます。ここには、復活された主イエスと弟子たちとのその後の話が、何とものどかな雰囲気の中で示されており、しかもその中に、今日の私たちもよく覚えるべきことが込められている、そういうお話です。


1.漁に出かける弟子たち

 主イエスがトマスにも御自身を現してくださってから後、主イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現してくださいました。ティベリアス湖と言うのは、ガリラヤ湖のことです。この出来事の10年ほど前に、ヘロデ・アンティパスがこの湖のほとりに町を建て、ローマ皇帝ティベリウスの名前に因んで名前を付けたので、この湖もそういう名で呼ばれるようになっていました。

 ペトロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たちつまりヤコブとヨハネ、そして他の二人の弟子たちがいました。元々漁師であったペトロが、自分は漁に行くと言ったので、他の弟子たちも一緒になって舟に乗り込みます。夜通し舟の上にいたということは、元々漁師であるだけあって、かなり本格的に漁に臨んでいたのでしょう。この頃、復活した主イエスは、それまでのようにいつも弟子たちと行動を共にしていたわけではありませんでした。14節にある通り、復活後に現われたのは3度目ですから、弟子たちは今までのようにいつでも主イエスの傍にいて何でも聞いたり、その御業を見たりすることはできませんでした。ペトロのこの時に心境は分かりませんが、自分たちに必要な食糧を得る、という単純な理由もあったでしょう。しかし彼らは、復活された主イエスが最初に現われてくださった時に、「聖霊を受けなさい」と言われて(22節)、今後の自分たちの働きについての約束をいただいていたので、漁師の仕事に戻ろうとしていたのではないと思われます。まだ、次の段階へとどのように進んでいくのかを示されていなかった弟子たちは、穏やかに過ごしてその時を待っていたのかもしれません。

 ペトロのヤコブもヨハネも漁師でしたから経験は充分です。それでも夜通し働いて魚が取れなかったことはありました(ルカ5章5節)。世が明けてきましたから、「今日は収獲はなしか」と思っていたことでしょう。


2.そうすればとれるはずだ

 しかし夜が明けた頃のこと、イエスが岸に立っておられます。弟子たちは岸から200ぺキスばかり、つまり90メートルほどの所にいました。少し遠くて、それが主イエスだとはわからなかったのでした。誰だか分からないのに、岸に立っている人が、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言ったので彼らはそのようにしたのでした。夜通し漁をしてみたものの、何も取れなかったのに、その人の言葉に従います。言われたとおりにすると網を引き揚げられないほどの魚がかかっていたのでした。ここで弟子たちはそれが主イエスであると気がつきます。イエスの愛しておられたあの弟子とは、ヨハネのことです。

 この光景は、先ほどの、ルカが5章で記した記事を思い出させます。夜通し苦労しても何も取れなかった後で、イエスが網を降ろして漁をしなさい、と言われてその通りにすると網が破れそうなほどの魚がかかったのでした。ペトロやヨハネはすぐにその場面を思い出したことでしょう。

 この出来事は、今日の私たちの日常にも起こってくることを教えられています。私たちは日常の生活の中で例えば自分の仕事や務め、働き、或いは奉仕でも、それに慣れており、熟練してくることもあります。その仕事に自信を持つこともあります。しかしその苦労が実っていないように思えることがあります。あるいは、それなりに懸命に働いたのに、結果が伴わずに空振りに終わってしまった、というようなことです。或いは、どうしたら良いか迷っている時、または最善の選択がどれであるかが分からない時があります。そういう時、ここに登場された主イエスのように、舟の右側に網を打ちなさい、というこんな具体的な指示がもらえたら、どんなにいいでしょうか。果たしてこの場面のように、主イエスが具体的な指示を出してくれることを、今日の私たちは求めることはできないのでしょうか。もしそうだったら本当にありがたいことですし、私たちの苦労もなくなるかもしれません。しかし、主である神は、この世での私たちの生活や人生の歩みについて、そのようにはお考えになっていない、ということをまず知りましょう。主イエスはこの時、弟子たちに網を右側に降ろしてみなさいと言われましたが、この先いつでもそのようにあれこれの指示を出されたわけではありません。むしろそうではなくなっていったでしょう。ここで主イエスが弟子たちにこのようになさったのは、弟子たち自身ではどうにもできなくても、主イエスは見ておられ、そしてどこに魚があるかも知っておられる、そのことを示し、弟子たちがどうにもできないと思っても、主はそうは見ておられないことを、また弟子たちが主を見上げて、自分たちの力に頼らずに主により頼んで進むことを望んでおられるのです。

 私たちも、この世の歩みの中で、日常出くわすいろいろなことで、その一つ一つのことに関して、右側に行きなさい、左に曲がりなさい、とまるで車のカーナビのように言ってもらうことを神に求めるのでしょうか。確かにイザヤ書には主が「これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け」という主の言葉を聞く、と預言者が民に語っています(30章21節)。しかしそれは日常の一つ一つのことについてああしなさい、こうしなさい、という指示が与えられるということではなく、最も良い道は何であるか、主に従う道を示すということです。

 だから私たちも、主の御言葉に何を求めるのかといえば、日常生活の中であれやこれやのことについて、いちいち指示を出してもらうことではなく、あなたの人生をどのように歩むのか、何を土台として何に聞いて、何を目指して歩むのか、ということ。それを主は私たちに教えておられるのだ、ということを知らねばなりません。聖書は、この世の生活が少々良くなるようにするためではなく、また、人の歩みを細かく指示するためにあるのではないのです。


3.主であることを知っていた

 それゆえ、私たちはまず、私たちがこの世でいろいろ迷ったり悩んだりしている時にも、主はそれを見ておられ、そして私たちが進むべき道を外れないように導いてくださることを覚えましょう。そしてその上で、時には様々な手段で、実は具体的な道を示してくださることもあります。根本的な人生の目的とか、信じるべき神について教えるというだけではなく、それと共に、具体的なこの世での歩みも導いてくださることを信じましょう。そして、この場面で湖に飛び込んだペトロのように、魚が153匹も取れて驚いた弟子たちのように、現れてくださった主を、そして思いがけず、たくさんの収獲をくださった主を認めることができるのです。153匹という数字については、特に象徴的な意味を読み取る必要はないと思います。とにかく、多くの魚が採れていた。そして、網は破れなかった。ここにも主の御力が示され、弟子たちのすることに助けを与えて、祝福してくださったことが示されています。

 こういった一連の出来事を通して、弟子たちはもう、あなたはどなたですか、と尋ねたりはしませんでした。主イエスであると分かっていたからです。私たちも同じ経験をします。私たちは何かが起こって来た時に、慌てたり、迷ったり、あたふたとしたり、苦労が報われないと言ってぼやいたり、がっかりしたり、空しさを感じたりします。しかし主イエスは見ておられます。一見遠くから、と思えるようないような所から御言葉をくださいます。

 それを私たちが良く聞き取り、主イエスだとわかるためには、やはり日頃から御言葉に親しむこと、祈りを続けることは欠かせません。日頃から祈ることもせずに、御言葉を全く読みもせずに、困った時だけ助けてくれ、と叫び、それで聞かれないと、神は耳を傾けてくれない、と言ってもそれは虫のいい話です。しかしそれでも心から求める者に主は答えてくださいます。旧約聖書の実例が示しています。私たちは主がおられて、生きて働いておられることを信じましょう。自分に都合よく主を求めるのではなく、どのようであっても信じてついて行こうとする者に、主は御自身を現してくださいます。それを信じて、私たちはついてゆきます。そうすることで、「主がそこにおられたのだ」と分かるようにしていただけるのです。

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