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「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節

 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得る。今日は、この力強い御言葉を与えられました。今年も敬老の日に因んで、それを踏まえながらお話ししますが、御言葉は老齢を過ごしておられる兄弟姉妹たちだけではなく、すべての人が聞くべきものです。自分がどのような世代に属していようが、今、この時に神の御言葉が与えられ、そしてそれを聞けるのは幸いなことです。年齢を考えれば、若者も倦み、疲れますが、高齢の方々はどうでしょうか。倦む、という言葉を手元の国語辞典で引きましたら「同じことなどを長く続けて嫌になる。退屈する。また、飽きて疲れる」とありました(小学館:現代国語例解辞典)。特に高齢の方は、人生の何十年という歩みの中で、同じことを長く続けて来られたかもしれません。もちろん同じ、と言っても全く同じことはないわけですが、やはり同じことの繰り返しは人を疲れさせるのは確かです。だから人はいろいろと何かしら新しさを取り入れ、気分を変えて変化を求め、目新しいものに目を奪われるのでしょう。しかしそういうやり方では際限がありません。ここで言われる通り、私たちは主に望みをおくことによって本当に新しい、神からの力を得られるのです。 1.神の創造の御業の前で  主なる神は手のひらにすくって海を量るとか、手の幅をもって天を測る、と言われます。この時代の天文学の知識に比べたら,今日の私たちにははるかにまさる科学的知識があります。この時代の人々にとっては、空に輝く天体の内、最大のものは太陽でしたから、太陽の何百倍もの直径を持つ巨大な星が宇宙にはある、ということを知ったらそれこそ仰天するでしょう。私自身、それを知った時には宇宙の途方もない大きさに驚いたものです。そもそも、果てがない、と言われてもそれを実感することはできません。天地の主なる神は、地球規模の、或いはせいぜい太陽系程度の範囲で天地の主であるのではなくて、今日の宇宙観においても、同じように天地の主であることを私たちは信じています。それを考えると実に人間など小さなものです。地上の国々など革袋からこぼれる一滴のしずくであり、天秤の上の塵にすぎません(一五節)。そこに住む者は虫けらに等しいとまで言われます(22節)。しかしここの翻訳は、他は大抵イナゴ、或いはバッタ、と訳されます。その方が良いと思われます。虫けら、という

「罪を負った主のしもべ」 2023.9.10
イザヤ 52章13節~53章12節

 旧約聖書中の書物の中で、イザヤ書は特に重要なものです。創世記以下の5冊、サムエル記、詩編など、特に重要な書物がいくつかあります。もちろんすべてが神の権威ある御言葉ですが、その重要度には差があります。もしもイザヤ書がなかったら、キリスト教会がイエス・キリストを神の御子、救い主として信じ宣べ伝える力がもっと弱かったでしょう。しかしそれは杞憂で、聖書を与えてくださった神は、今ある66巻の聖書全体によって、ご自身の御心を伝えてくださいました。今日はそのイザヤ書の中でも特に重要な、苦難のしもべの歌です。 1.主のしもべの歌  イザヤ書の中には、主のしもべの歌、と呼ばれるものが4つあります。第1は42章1~4節、第2は49章1~6節、第3は50章4~9節、そして今日の箇所が第4のしもべの歌です。このしもべが誰なのかは、それぞれのしもべの歌によって多少違いがあります。同じ人物を示しているとは限りませんが、第一の歌である42章のしもべは、主の霊により、諸国への裁きが告げられます。第2の歌は、しもべがイスラエルとも呼ばれているので、共同体としてのイスラエルのことかもしれませんが、個人という面も見られます。そして諸国の光となる、と歌われます。第3の歌では、誰か個人としてのしもべが辱めを受ける面が示されます。第2と第3の歌は、しもべ自身の独白です。  それらの中で、この第4の歌は、特にしもべの非常に大きな苦難が示されます。それは小さなものではなく、またしもべ個人だけに関わるものではありません。多くの人々の罪に関わるものであり、その罪と、僕の苦しみとが深い 関わりを持っています。52章13節以下、神が「わたしのしもべ」と語られます。最初に、しもべが栄え、高く上げられあがめられると告げ知らされます。ところがそのすぐ後で、しもべは大変な苦しみを受けることが分かります。その姿は損なわれて人とは見えず、肉体的に非常に痛めつけられます。そしてそのことが人々を、そして王たちを驚かせることになります。それはだれも今まで聞いたことのなかったような物語として示されるからでした。 2.私たちの罪をすべて負った  その内容が53章から語られます。ここで言われていることは、諸国の王たちを驚かせます。そして注意すべきことは、この文体は日本語でもわかるように過去形と未来形です。このような詩文の形で

「わたしは主を見ました」 2023.9.3
ヨハネによる福音書 20章11~18節

 私たちにはいろいろな感覚、いわゆる五感というものが与えられています。もちろん健康上のいろいろな事情でそれが十分でない状態に置かれている人もありますし、生まれながらそれを備えておられない方もいます。それでも私たちは何らかの手段によって、目には見えない神を見ることができます。それは信仰によってです。今日は、はっきりと目の前で復活された主イエス・キリストを見た、ひとりの女性の言葉を私たちは聞いています。彼女は主イエスの弟子たちにそれを告げましたが、その証言は、弟子たちだけではなく、今日に至るまで世界中の人々に向けて語り続けられている証しなのです。 1.復活したイエスを見分けられないマリア  イエスの墓の前から、ペトロとヨハネの二人の弟子たちは家に帰って行きました。二人は、イエスは必ず復活されることになっているという聖書の言葉をまだ理解してはいなかったのですが、それでもとにかくイエスの遺体はもはや墓にはない、ということは認めて墓を後にしたのでした。しかしマグダラのマリアは、墓の前に残って泣いていました。そして墓の中を見ると、そこに二人の天使がいました。ペトロたちがいた時にはいなかったのですから、天使たちはいきなり現れたということで、ただの人ではないことが示されます。彼らが語ったことは、マタイによる福音書などに詳しく書かれているので、ヨハネは既に知られていることとして、あえてそれを書かなかったのでしょう。  天使たちの問いかけに対して、マリアは先に2節で書かれていたこととほぼ同じ言葉で答えます。わたしの主が取り去られたこと、どこに置かれているのか自分にはわからないことです。どこに置かれているのか、という言葉から、マリアはまだ主イエスが死んだ方で、あるはずの遺体が見当たらない、という点に捉われていたのだとわかります。  しかし振り向くと、そこには死んだはずの主イエスがおられました。ただし、マリアにはまだイエスだとは分かりません。イエスの顔を近くで見ていたはずのマリアでしたが、死んだ方だという固定観念があるので、見分けられなかったのでしょう。それは、ルカ福音書に書かれている二人の弟子たちが、復活したイエスと道を共にしても気がつかず、ルカはそれを「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(24章16節)と記しているのと同じことがマリアにも起こっていたと言え

「聖書の言葉を理解する」2023.8.27
 ヨハネによる福音書 20章1~10節

 私たちは今、日本語の聖書を目の前にしています。日本語を理解できる人なら、その内容を言葉として受け取ることはできます。しかし、初めて教会に来て聖書を手にした人が、そこで朗読された言葉の意味を正しく悟る、ということは難しいことです。今日は、私たちがこの聖書の言葉を理解する、とはどういう意味かを教えられています。そしてここで語られていることは、キリスト教信仰の最も大事なことに関わりますし、聖書全体の中でも非常に大切なことです。それをどう理解するか。これはその人のその後の信仰の歩みを左右するほどの、とても大事な問題です。 1.書かれている言葉を単純に理解する  それはつまり、私たちの信仰と生活は、神の言葉である聖書をどう理解するかにかかっているからです。主イエスをどういうお方として信じているか、そしてどのように生活しているかも、すべて聖書をどのように理解しているかによっています。ただし、大事な点は、私たちが聖書の内容を、聖書本来の目的に沿って理解しているか、です。自分流に勝手に理解しているのでは、本当の意味で理解しているとは言えません。だからこそ皆さんも教会に来て聖書の言葉を聞いておられるわけですが、それは教会には牧師がいて、聖書の話を正しく語ってくれているだろうという一般的な信頼感があるからかも知れません。改革派教会に属している方であれば、大抵は他の教会の牧師や説教者の説教を聞く機会があります。そうすると、人によって語り方などはいろいろ違うけれども、みな聖書から語っていることは分かると思います。そして教理問答書などで、歴史的にも教会の中で信じられてきた内容だな、ということ、その教会の牧師の独りよがりで、勝手な解釈のもとに語っているのではないと分かってくると思います。  さて、では今日の箇所に目を向けましょう。今お話ししたような根本的に、信仰生活を左右するようなことの前に、もう少し基本的なお話をします。語られている聖書の箇所の背景などをまず理解することです。今日の日本語聖書の読者である私たちからすると、読まれた箇所にもよりますが、たとえば、今日の箇所、20章1節にはマグダラのマリアという人がいて、朝早く暗いうちに墓に行き、墓から石が取りのけてあるのを見た、という出来事が書かれています。それは週の初めの日でした。では、週の初めの日とは何曜日でしょうか。  週の初

「神の道を歩む」 2023.8.20
使徒言行録 18章24~28節

 今日の箇所には「主の道」「神の道」という言葉が出てきます。どちらも同じことです。主イエス・キリストを信じて信仰の道を歩み出した人はクリスチャンと呼ばれます。その人は主の道を歩き出したのです。主イエスは「わたしは道である」と言われました。イエスを主と信じ、共に歩む、そしてイエスという道を歩む。それが主の道を受け入れることであり、神の道に生きることです。ですから、神の道と言った時、それは主キリストを信じる信仰をいただいた者が言う神の道です。聖書において、主キリストと切り離された形で神を語ることはありません。さて、皆さんは今、何の道を歩いているでしょうか。主イエスを信じている人は、今は主の道を歩いていると言うでしょう。では信じる前は何の道を歩いていたのでしょうか。 1.主の道を受け入れる  今日の朗読箇所は、初代教会が主イエス・キリストについての福音宣教を始めた紀元1世紀の話です。使徒言行録の後半はほぼ使徒パウロの活動を記しています。彼はユダヤ人でキリスト教の迫害者であり、旧約聖書律法の専門家でした。そのパウロのアテネやコリントでの宣教活動についての話が続く間に挟まる形で記された出来事です。パウロはコリントで宣教した時、アキラとプリスキラという夫婦に出会いました。彼らは同じ職業だったので、パウロはこの夫婦の家に住み込んで働き、そして安息日ごとにユダヤ人の会堂で論じていたのでした(18章1~4節)。  今日の箇所は、パウロが二人のもとを離れてアンティオキアに戻った後の話です。プリスキラとアキラのいるエフェソにアポロという雄弁家がやって来ました。彼はアレクサンドリア生まれのユダヤ人で聖書に詳しく、イエスについて熱心に語っていました。しかし、ヨハネの洗礼しか知りませんでした。洗礼者ヨハネが教えていたことは、自分の罪を悔い改めて正しい行いをし、そして来たるべきメシア=救い主キリストに対する備えをせよ、というものでした。ヨハネが活動していた期間は、主イエスの初期の活動と重なります。アポロが、ヨハネの洗礼しか知らなかったというのは、イエスこそヨハネが告げたメシアであることを知ってはいましたが、そのイエスがその後捕えられて十字架につけられ、死んで葬られ、そして三日目に復活されたこと、更に天に昇られたこと、そしてその後、ペンテコステに聖霊が教会に降られたこと、そして教会が福音

「命の水を汲むところ」2023.8.13
 雅歌 4章9節~5章1節

 旧約聖書には、多くの書物がありますが、その内、この雅歌とエステル記には「神」という言葉がでてきません。それでも、エステル記には背後に神の見えない御手の導きがあることをうかがわせる出来事があり、信仰を持つ読者が読むと、そこには神の導きがあるということがわかるのです。しかしこの雅歌の場合、エステル記とは違って、神の摂理的な御手の導きを特に読み取れるというわけでもなく、もっぱら男女の愛とその行方について述べていると言えます。それで、この雅歌をどのように解釈し、理解したらよいのか、ということが議論されてきました。細かいことはここでは、述べませんが、男女の愛を歌っている、という文字通りの意味に理解してお話をします。そして、この雅歌において神が何を私たちにお語りになっているのであろうか、ということを共に学びたいと願っています。 1.雅歌が聖書の中にある事実  雅歌に神の御名が書かれていないと言っても、この書物はユダヤ人の中で、神の言葉として、聖書として受け入れられてずっと読まれてきました。キリスト教会においても、神の言葉として受け入れられ、読まれてきました。また主イエス御自身が、律法と預言者と詩編という旧約聖書全体を示す言葉を用いて、創世記からマラキ書までを当たり前のように聖書として受け入れておられたのでした。もっとも、主イエスはヘブライ語の聖書に基づいて語っておられ、その順番では、創世記から始まって歴代誌で終わります。キリスト教会は、ギリシャ語に訳された旧約聖書の順番に倣って配列しているのです。いずれにしても、私たちにとって、この雅歌は神の御言葉として私たちに伝えられているものであって、私たちもまた、ここに神の御心が示されている書物として読み、聞き、学び、信じるのです。 2.愛するものよ、愛に酔え  今日の朗読箇所は、登場人物の若者が愛する恋人を花嫁と呼んでいます。二人は結婚することになる男女です。「妹よ」と呼んでいますが、文字通りの妹ではなく、同じ一族に属する親族か、或いは友情を示すものだと思われます。  雅歌の言葉は、若い愛し合う男女が相手の美しさをいろいろに描写し、言葉を尽して褒めそやしていますので、読んでいるとなんだか気恥しくなると思う人もいるかもしれません。また、何十年も結婚生活を送って来られた人にとっては、この雅歌で描かれているような男女の様子

「その証しは真実である」 2023.8.6
ヨハネによる福音書 19章28~42節

 信仰とは、目に見えない神を信じることです。それは、過去に神がなさったことについて信じることであり、またこれから先、神が言われたことが起こる、と信じることです。それだけではなく、神が言われたことが自分の身に起こる、と信じることです。例えば、ある人がイエス・キリストを信じたとします。その人が信じている、という事実は、だれも変えることができません。その人の家族は、自分は信じていなくても、その人がクリスチャンだと認めるしかありません。それは信仰でも何でもなく、目の前にある事実を認めるだけです。しかし、その人の中に神の聖霊が働いて、信仰を起こし、信仰告白へと導かれたのだ、と周りのクリスチャンが認めるのは、これは信仰です。神のお働きが確かにその人の内にあって、心を動かし、イエス・キリストを目撃していないのに信じている、と受け止めるのは周りの人の信仰です。ではどうしてそのように受け止めるのか、と言えば、それはその人が信じるようになったということについて、私たちに対するいくつもの証言があるからです。この証言によって私たちの信仰は成り立っています。今日は、この朗読箇所から、このことを教えられているのです。 1.十字架上のイエスについての証言  十字架につけられたイエスについて、ヨハネは旧約聖書の預言を引きながら語って行きます。十字架の上から弟子のヨハネ(ヨハネによる福音書の記者)に自分の母親のマリアをゆだねた後、イエスはすべての事が成し遂げられたのを知ったのでした。「渇く」とは、詩編69編22節によります。「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」という一節です。詩編の言葉がイエスおいて実現したのでした。全てのことが成し遂げられた、とは、罪のない神の御子が十字架にかかることにより、多くの罪人の罪が償われ、罪の赦しが与えられるために必要なことが実現に至ったからです。この後、イエスは人々が差し出した酸いぶどう酒を受け、そして「成し遂げられた」と言って息を引き取られました。息を引き取られた、という言い方は私たちも普通に使いますが、これは霊を引き渡すという表現です。人の霊は神から与えられたものであり、それは、この世を去る時に与えてくださった神に引き渡すものである、ということを教えています。私たちは死んでこの世を去る時に、自分のこの後がどうなるのか

「イエスを十字架につけた」 2023.7.30
ヨハネによる福音書 19章16b~27節

 私たちは先ほど、使徒信条を一緒に唱えました。その中に「主は、~ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」という一節があります。教会に来始めてから、いったい何度、イエス・キリストと十字架という言葉を聞いたことでしょうか。何十年と教会生活を送っておられる方は、礼拝の度に聞いて来られて、何千回と耳にして来られたのではないでしょうか。それ程に、私たちにとって「イエスと十字架」、この二つの言葉は切り離せず、また、これを抜きにして教会は存在しませんし、私たちの救いもあり得ません。今日は、皆さんが何十回、何百回、何千回と聞いて来られた「イエスと十字架」について、しかもイエスが十字架につけられた、というその場面を12弟子のヨハネが記しているところです。ここには、イエスを十字架につけた、或いはつけてから、という言葉が3回出てきます。何度も聞いてきたことの言葉を、今日また改めて聞きましょう。 1.彼らはイエスを十字架につけた  ローマ総督ピラトは、イエスに罪を見いだせない、と言ったものの、ユダヤ人たちの勢いに圧倒され、そしてイエスを釈放するならあなたはローマ皇帝の友ではない、という脅しの言葉をかけられて、ピラトは仕方なくイエスをユダヤ人たちに引き渡したのでした。イエスは自ら十字架を背負い、ゴルゴタと呼ばれる処刑場へと向かわれました。十字架の横木を担いだのだろうと言われています。それだけでも、人が架けられるわけですから相当しっかりしたものでしたでしょうから、何十キロかはあったでしょう。鞭打たれて体力を消耗しておられた主イエスにとっては大変なことだったと思われます。他の福音書が記しているように、キレネ人シモンが途中からイエスの代わりに十字架を背負ったことをヨハネは書きません。もはやそのことは周知の事実だったということもあるでしょう。そして4つの福音書に共通することですが、皆イエスの苦しみをことさらに描き出そうとはしていないように見えます。淡々と、十字架につけられた、という客観的な出来事を記すのです。福音書記者たちは自分とイエスとの関係がそれぞれにありますが、自分がどう感じたのか、ということは書きません。  処刑される人を十字架につけるためには、十字架として立てる木材をまず横に倒し、処刑される人の体をその上に寝かし、縛り付け、そして釘を打ち、そしてそれを立ち上げる、

「神は救うことができる」 2023.7.23
マタイによる福音書 19章16~30節

 人の命とは一体何なのだろうか。この問いは、大昔から人が考えて来たことでしょう。それを考えるということが、人間を外の動物たちから区別している点だ、ということもできると思います。今日は、一人の青年が主イエスのもとにやって来て質問をしたお話ですが、ここには、聖書の教えの本当に重要な点が教えられています。 1.金持ちの青年の質問  ここに登場する青年は、ただ命について、というだけではなくて、永遠の命について主イエスに質問しました。命についてだけではなく、永遠の命について答えられる人などいるでしょうか。いないはずです。なぜなら、人はみな、自分で命を造り出せませんし、命を生み出す力がないことを知っているからです。しかしこの青年は、近頃のイエスのうわさを聞いていたでしょうし、この方ならきっと他の人とは違う何か素晴らしい示唆を与えてくれると思ったのではないでしょうか。この青年は金持ちであったとありますから、生活には不自由せず、裕福に自由に暮らしていたのでしょう。そして、ユダヤ人として、神の律法を学んできたので、神が教えておられることもそれなりに分かっていたはずです。しかし彼は何か足りないと感じていたのでした。神を信じて生きてきたが、それで自分は永遠の命を得られるのだろうか、今のままで良いのだろうか、もっと何かをしなければいけないのではないか、と。  そもそも、永遠の命、永遠の救い、については、旧約聖書では例えばイザヤ書45章17節、「イスラエルは主によって救われる。それはとこしえに続く救い」という言葉があります。永遠の命につながる言葉です。もっとはっきりしているのは、ダニエル書12章2節にある、「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」という言葉です。ちなみにここでの永遠と永久は同じ言葉です。このような預言の言葉がありますから、聖書の言葉を信じる人たちが永遠の生命に入りたいと願うのは、当然と言えるでしょう。入れない者の恥と憎悪について書かれていればなおさらです。 旧約聖書に収められていない外典(新共同訳では続編)には、殉教しようとしているユダヤ人のことが記されており、拷問をしている相手に「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へと