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【宗教改革記念礼拝】「信仰によって生きる」2020.10.25
 ハバクク書 2章1~20節

 月に一度、旧約聖書から一巻ずつを順番に取り上げてお話ししています。先月はミカ書でしたから、今日はナホム書のはずでは、と思った方もいるかもしれません。ナホム書は、アッシリアの都ニネベについての主の託宣が記されています。これもまた神の御言葉として聞くべきものです。またいずれお話しします。今日、ハバクク書を先に取り上げたのは、教会暦との関係です。今日はプロテスタント教会では宗教改革記念礼拝を献げるところが多いと思います。10月31日が宗教改革記念日です。ドイツで宗教改革ののろしを上げたマルチン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に、95ヶ条の提題を張り付けて、カトリック教会に問いかけたのがこの日なので、それを記念して宗教改革記念日としています。これをきっかけに宗教改革の大きな波が起こってきたのです。彼は信仰によって人は神の前に義とされる。正しいと認められて受け入れていただける、という聖書の真理を述べたのでした。人の業によって救われるのではなく、ただ神の御前に罪を悔い改め、キリストを信じる信仰によって義と認められる、信仰義認を強調したのです。それは使徒パウロが教えていることを改めて確認し、それが聖書の教えだと確信したからです。そして、使徒パウロはこのハバクク書の一節を引用してそのことを語っていました。それで今日はこの箇所を選んで宗教改革記念日に合わせてお話しすることにしました。 1.ハバクク書と使徒パウロの引用  このハバクク書には、どの王の時代、ということが書かれていませんが、その内容から、紀元前7世紀の終わり頃から6世紀の初めにかけての預言とみられています。そうすると彼はヨシヤ王の後のヨヤキム王の時代の人です(列王記下23章34節)。ハバククという名前の意味は不明確で、預言者ハバククと冒頭に記されているだけです。  使徒パウロは、ローマの信徒への手紙1章17節や、ガラテヤの信徒への手紙3章11節で、ハバクク書の2章4節を引用しています。ヘブライ人への手紙10章38節にも引用があります。パウロは、私たちが救われるのは神を信じることによる、という非常に大事なことを述べました。ローマの信徒への手紙は、ユダヤ人ではなく異邦人宛に書いたものですが、それでもユダヤ的な考え方や思想的な影響が入って来ていたのでしょう。それでパウロは、ユダヤ人の守って来た律法の行いと種々の儀式を

「銀貨を捜す女」2020.10.18
 ルカによる福音書15章1節~10節  小原光稔委員

 今日の奨励は元名古屋教会の牧師:鈴木英昭先生の『神の国への招き』から奨励題をいただきました。ルカによる福音書には、たとえ話が多くあります。聖書箇所は8節~10節ですが15章1節から10節までをお読みします。    イエス様が収税人や罪人たちと一緒にいると、パリサイ人や律法学者たちはつぶやいて「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」(2節)と不平を言いました。ここで、彼らは、つぶやくと同時に裁いています。  3節から10節には、2つのたとえが書いてあります。  1つは羊のたとえで、1つは銀貨のたとえです。それぞれなくなった羊1匹(銀貨1枚)を見つけて、大喜びしてパーティーを開くというものです。このたとえは、私たちに対する神様の愛に関して語っています。罪人である私たちが悔い改めて神様に立ち返るとき、神様は大喜びしてくださるのです。  迷い出た羊が私。羊飼いはイエス様。イエス様がこの私を見出してくださるうれしさです。  しかし、今回の奨励では、もっと深いところにイエス様の言われた本当の意味があることを少しだけ知ることができました。 まずひとつ手がかりは、このイエス様のたとえ話が、誰に向けて語られたかということです。それは先ほど読みました15章の最初のところに書いてあります。  徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された(同1-3節)。  たいへん有名な羊、銀貨、放蕩息子のたとえ話すべてを、この徴税人や罪人に対して、ファリサイ派の人々、律法学者たちが不平を言い出したことについて、イエス様が語り始められたということです。  99匹の羊を残し、1匹の羊を探しに行った羊飼いのたとえ話も、まさにそういうふうに理解しないといけないわけなのです。そして間違いなく、ファリサイ派の人々、律法学者たちは、自分が迷い出た1匹の羊だとは、絶対に思っていないということであります。彼らにとっては、神さまの喜びは、ただ正しい人々だけに向けられるものだ。  正しい人々をご覧になって神さまはお喜びなるのだ。正しい人々以外は、神さまはお喜びになりはしまい。そう考えていたというのです。しかし、イエス様がこ

「誰のもとへ行くべきか」2020.10.11
 ヨハネによる福音書 6章60~71節

 御自身のことを、天から降って来た永遠の命を与える命のパンである、と言われた主イエス・キリストは、更にご自分の肉と血を食べる者は永遠の命を得て、永遠に生きると言われました。このような話を聞いていた弟子たちの多くの者が、今日の朗読箇所のように、「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」と言ったのでした。  先に議論し始めたのはユダヤ人たちと言われていましたが、ここでは弟子たちの多くの者です。しかし、主イエスが特別に選ばれた12弟子ではなく、これまでイエスについてきて、弟子となっていた多くの人々のことです。そしてこの人たちの多くが主イエスから離れ去ってしまったのでした。主イエスの語られることは、このようにイエスとたもとを分かつ行動にまで人を至らせてしまうこともあることがわかります。つまりイエスの言われることは、誰にでも耳触りの良い、聞きやすく、抵抗のない言葉ではない。これは明らかです。最終的にはイエスにつくか、それとも離れていくか、という究極の選択にまで至る、というものなのです。その点を心に留めつつ、私たちもまた、イエス・キリストというお方の前に立っています。その御言葉を聞いて、私たちはその後についていくのか。また背を向けて行くのか。突き詰めればどちらの態度をとるか、という問いかけを与えられているのです。   1.イエスにつまずく  主イエスの言われたことをまっすぐに受け止められなかった弟子たちの多くの者は、イエスにつまずきました。人々がイエスにつまずいた話は福音書に何度か出てきます。つまずく、とは日本語では中途で挫折する、とか失敗する、という意味があります。そのまますんなりと道を進むことができなくなってしまうのです。イエスのお話を聞いて、その素晴らしい御業を目のあたりにしてきたはずの多くの弟子たちでしたが、イエス御自身の肉を食べ、血を飲む、という話になってくると、それを素直に受け入れて、イエスに従って行くことができなくなってしまいます。結局は、自分の考えの及ぶ範囲、許容できる範囲を超えてしまうと、もうその後についてゆくことができないです。  主イエスは言われたことがあります。「わたしにつまずかない者は幸いである」(ルカ7章23節)。イエスの御言葉が、たとえどんなに自分の考えや知識や感覚からかけ離れていても、なお、イエスのなさることと御言葉に心を留め

「永遠に生きる」2020.10.4
 ヨハネによる福音書 6章52~59節

 主イエス・キリストは御自身のことを天から降って来た、永遠の命を与える命のパンである、と言われましたが、今日もそのことを中心にお話しします。特に、「このパンを食べるものは永遠に生きる」(59節)と言われた主イエスの御言葉に込められた深い意味を、私たちは教えられています。私たちが生きるとは、どういうことなのか、主イエスはここで明らかにしておられます。   1.イエスの肉を食べ、血を飲むとは  主イエスは、ご自分のことを天から降って来た生きたパンであり、これを食べる人は永遠に生きる、と言われたものですから、またしても聞いていたユダヤ人たちから疑問の声が上がりました。41節以下でもすでにユダヤ人たちの質問が出されていました。そのときは、「天から降って来た」ということに重点が置かれていました。イエスの生まれ育ちを知っているのに、なぜ天から降って来た、と言えるのかというのです。この疑問について、主イエスは「どうしてそんなことが言えるのか」という質問には直接答えておられません。天の父である神が引き寄せてくださるなら、その人には分かる、という答えをされました。どうしてそう言えるのか、そういう問いに対しては、本当にそうだからだ、というのが答えです。そしてそれが真実かどうかは、主イエスを信じる者でなければ分からないのです。イエスを神のもとから来られた神の御子だと信じる人からは、もはやこのような問いは出てきません。  そして、51節までの主イエスとユダヤ人たちとのやり取りでは、イエスという天からのパンを食べる、ということについても語っておられましたが、具体的に食べる、ということについては語っておられなかったので、今日の箇所では、どうして、つまりどのようにして食べさせるのか、とユダヤ人たちは疑問を投げかけています。しかし、ここでもまた主イエスは、どのように、という方法についてはお語りにならないのです。イエスの肉を食べ、血を飲むなら永遠の命があり、復活にあずかれる、というのですが、イエスの肉を食べ、イエスの血を飲むとは具体的にどういうことなのかを、ユダヤ人たちの疑問に沿っては答えておられません。  しかしこのことは難しく考えるよりも、これまで主イエスが語ってこられたことを振り返れば見えてきます。イエスの語られる御言葉を素直に聞き、受け入れて信じることです。それはイエスというお方を本