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3月, 2020の投稿を表示しています

「決して渇かない水をください」2020.3.22
ヨハネによる福音書 4章1~15節

主イエスは、この世において神の国の福音を告げ知らせるためにこの世に来てくださいました。そのために公に活動を始めるにあたって、まず弟子たちをお選びになり、弟子たちの働きを通して、イエス御自身によって神の国がもたらされることを告げ知らせられました。しかしその神の国の宣教も、今日朗読したこの4章のように、主イエスは一人一人の、その都度出会う人と一対一の対話をなさって、そうして行く中で御自身のことを示され、その存在の大きさと深さに触れさせ、御自身のもとへと招かれたのでした。今日の、サマリアの女性との対話はそのことが特に際立っています。私たちもまた、それぞれ形は違いますが、主イエスが私たちのこの世での歩みの中で近づいてきてくださって、対話をしていただいているのです。 1.サマリアを通る 主イエスは、ガリラヤとユダヤの間を行き来されましたが、ユダヤからガリラヤへ向かうには、サマリアを通らねばなりません。そのシカルという町でのことです。旅の疲れを覚えて井戸のそばに座っておられた主イエスの近くにサマリアの女性が水を汲みにやってきました。主イエスは「水を飲ませてください」と頼まれましたが、この女性にとっては、そのように頼まれるのは珍しいことでした。サマリア人とユダヤ人とは交際しないからでした。これにはイスラエルの歴史が絡んでいます。紀元前8世紀、イスラエルに来たからアッシリア帝国が攻め込んできて征服し、北王国の首都サマリアを陥れました。そしてアッシリアは、人々をアッシリアに捕囚として連れ去りました。そこへアッシリアから植民として送り込まれた人々と、残ったイスラエルの人々が共に生活してゆく中でやがて混血の人たちが生まれて、そこで増えていったのでした。その影響によって、宗教的にも社会的にも大変異教化していきました。南のユダ王国もバビロン帝国に侵略されてエルサレムは陥落し、おもだった人々は捕囚となります。 やがて紀元前6世紀にバビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちはエルサレム神殿を再建してユダヤ人としての純粋性を保っていこうとしましたので、サマリアの人々とは当然、相容れなくなるわけで、それで中が悪く、一般的に交際をしなくなっていったということです。ユダヤ人たちは、異教化してしまったサマリア人を軽蔑していたため、サマリア人たちは独自にゲリジム山という所に神殿を建てて、そこで礼拝を続けて

「天から来られた方に聞く」2020.3.8
 ヨハネによる福音書 3章31~36節

私たちはこの世に生まれてきていろいろなことを聞き、学び、語ります。そして多くのことを吸収し、考えるようになります。人類全体として考えると、人間がこれまで探求し、解明してきたことは数多くあり、私たちの今日の生活はそこから非常に多くの恩恵を被っています。しかし、それでも人間の知識や知恵にはやはり限界があります。たとえば宇宙の始まりはどのようであったのか、ということを今日の物理学などではいろいろな仮説が立てられていて、それらにはそれぞれある根拠があって語られているわけですが、やはり誰一人として目撃したわけではありません。そのようなことを思いつつ、今日の御言葉に聞きましょう。私たちはこの、神の御言葉である聖書から、地から出る人間の言葉ではなく、天から、上から、神から来る御言葉を聞こうとしています。 1.人間の限界を知る 先ほど、宇宙の始まりのことについて触れましたが、そう言いますと、聖書は人が直接的には書いたのに、天地創造の話が、まるで見てきたかのように書かれているではないか、という声が聞こえてきそうです。確かに神の存在を信じない人々にとっては、人間の創造や、それ以前のことがどうしてわかるのだ、それらは人間の作り出したお話、神話、物語にすぎないのではないか、と。私たち人間は、もし神からの言葉があって、それが人間に与えられているとして、それを何らかの証拠によって示すことができるでしょうか。特に神の存在を否定する人に対しては、何を言っても、証拠にならない、と言って受け入れられないことでしょう。ということは、今日私たちが神を信じていることは、神が私たちの心の中に、聖書の御言葉が本当に神から来たものだというある確信を与えてくださっているからです。それは聖書に示されています。聖書が本当に神の御言葉である、という確信は、私たちが聖書を学び、聞くときに神の聖霊が働いてくださって、悟らせてくださるからです。ですから、私たちは天地創造のお話しを聞いたときに、最初は分からないかもしれませんが、次第に神の御言葉である、という信仰に導かれます。それは、自分がすべて納得したとか、全ての意味が良く分かったということではありません。私たち人間には限界があって、理解できない面もあるけれども、確かにここで神が語っておられ、神が何かを私たちに向けて告げようとしておられることを信じるのです。 2.天か

「キリストの教会として立つ」2020.3.1
エフェソの信徒への手紙 4章1~16節

 今年、尾張旭教会は、「キリストの教会として成長する」という標語を掲げました。昨年からの継続で、エフェソの信徒への手紙2章20、21節によるものです。この2章では、神の家族である教会においては、キリストがかなめ石であり、キリストにおいて組み合わされて成長してゆくことに焦点が当たっています。今日の朗読箇所の4章でも「成長する」ということが言われています。今日の箇所ではどちらかというと私たちがキリストの体として造り上げられてゆくこととその状態、働き、という面に焦点が当たっています。これらの御言葉から、私たちがこの世においてキリストの教会として立てられていることの意味や目的について教えられています。それは取りも直さず、キリスト教会がこの世において与えられている使命や存在意義につながってくる話です。 1.キリストの体は一つである この第4章では、初めの方に何度も「一つ」という言葉が出てきます。体は一つ、霊は一つ、一つの希望、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、神は唯一、と。このことは、今日の私たちにとっては、特に重要な教えです。キリスト教会は世界中に広がって存在しています。そしていろいろな教団教派が林立しています。未信者の方が初めて教会に来られた際、カトリックとプロテスタントがある、ということを知っている方もありますが、そういったものを全く知らない方もおられます。そして様々な教団教派があることを知ると驚かれることもあります。確かに、どうして一つではなくてそれほどまでに多くの教派が存在しているのだろうか、と疑問に思うのは不思議ではありません。聖書では、これほどまでに「一つ」という点を強調しているではないか、という疑問です。確かに神は唯一、キリストはただ一人の救い主であられます。だとしたら、みんな同じ一つの教団でよいではないか、と思いたくなるでしょう。しかし、この世では人間は不完全であり、不十分であります。どうしても偏りがあり、見逃しがあります。そのため、いろいろな主張が時代によって、また地域によっても起こり、聖書の教えの理解の仕方にも違いが出てきました。それでも、一人の神のもとに、一人の救い主イエス・キリストのもとに、教会は立っていると信じてきたのがキリスト教会です。聖書の解釈が違ういろいろあっても、一人のキリストを唯一の救い主と信じ、父なる神と、神の御子キリスト、そして

「天から与えられなければ」2020.2.23
 ヨハネによる福音書 3章22~30節

私たちはこの世でいろいろなものを持っています。それは命、体、人(家族、友人、知人)、物、土地、家、仕事、才能、など、いろいろなものがあります。それらは、神との関係で考えると、全て与えられたものです。いろいろものを私たちはこの世で持っているかも知れませんが、実はどれ一つとして与えられたのでない、というものはない、と言えます。すべては神から与えられて自分のものとなっている、ということです。今日は、このことをこのヨハネ福音書の朗読箇所から、特に教えられております。 1.主イエスと洗礼者ヨハネ しかしこのことが語られた背景を知るには、洗礼者ヨハネと救い主であり神の御子であられる主イエス・キリストとの対比を見なければなりません。ヨハネと私たちとの対比と、ヨハネと主イエスとの対比を見ることで、私たちの真の姿を知ることになり、主イエスというお方を知ることになります。 さて、洗礼者ヨハネが神から遣わされて人々に洗礼を授けていたことがすでに記されていました(1章33節)。他の福音書では、イエスもヨハネのもとに来て洗礼を授けられた、と書かれております。洗礼者ヨハネの洗礼は、今日のキリスト教会が授けている洗礼とは違います。ヨハネはあくまでも、自分の後から来る神の御子、世の罪を取り除く方を迎える備えをするために人々に悔い改めを迫り、そのしるしとして洗礼を授けておりました。そのヨハネのもとに主イエスも行って洗礼を受けられました。イエスは人となられましたが神の御子として罪のないお方です。しかもヨハネ自ら、イエスのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。それなのにイエスが罪の悔い改めのしるしである洗礼を受けられたのは、主イエスが私たち罪ある者たちの側に立って、罪人の一人に数えられ、そうしてご自分を十字架で献げることによって私たちの罪を取り除き、贖う方となられるからでした。ヨハネはそのことを知りつつ、主イエスの願い通りに洗礼を授けたのでした。ですから、ヨハネは初めから自分の所に洗礼を受けにやってきたイエスというお方が、本来は洗礼を授けられる必要のない方であることは知っていましたが、主イエスの望み通りにしたのです。  そういう主イエスでありましたが、イエスもまたユダヤ地方に行って、ヨハネと同じように洗礼を授けておられたのでした。しかし、4章2節によりますと、実際に洗礼を授けていたの

「新しい命を与える神の恵み」2020.2.16
 エゼキエル書 36章25~38節

 エゼキエル書は、旧約聖書の預言書の中でも、不思議な視覚的啓示をいろいろ示している独特な預言書です。今日は、このエゼキエル書から、特に重要な教えを聞きたいと願っています。 1.エゼキエルという人と書物 エゼキエル書は、イザヤ書、エレミヤ書に続く大預言書と呼ばれます。この三人はそれぞれ紀元前8世紀、7世紀、6世紀に活動しました。紀元前6世紀、イスラエルの国は既に北王国イスラエルは滅びており、南王国ユダだけが残っておりました。このユダ王国にもバビロン帝国の脅威が迫ってきており、紀元前6世紀に入った頃、バビロン帝国が第一次の侵略をしてきました。エゼキエルはその時、捕囚の第一陣としてバビロンに連れて来られました。彼はそこで神の栄光を見、幻を見、時には神の霊によって引き上げられてエルサレム神殿に連れて来られる、という経験をします(8章以下)。 彼は、祭司ブジの子です(1章3節)。祭司は世襲制なので、エゼキエル本人も祭司であったと思われます。彼は預言者として、身をもって神の御心を人々に示す、という仕方で働きました。時にはエルサレムに向かって四十日にわたって横たわることを命じられ(4章)、神の毛と髭を剃ってそれを燃やしたり、打ったり、散らしたりすることでイスラエルの成り行きを示すことも命じられました。白昼壁に穴をあけて荷物を運び出せ、と命じられたこともありました(12章)。彼には妻がおりましたが、ある日彼女は突然に死ぬことを告げられ、その死を悲しむな、とも命じられます(24章)。しかし、泣いても嘆いてもいけない、と言われます。それ自体がイスラエルの人々に対する神の裁きの宣告となるのでした。 イザヤも、エレミヤもそれぞれに身をもって神の御心を人々に告げ知らせたという意味では、同じ働きをしましたが、エゼキエルの場合は非常に独特な言わば演技のような形で、しかも時には妻の死、という最も悲しむべきことすらも預言者としての務めを果たすために用いなければならなかったのでした。エレミヤも泥の井戸に沈められたり、牢屋に閉じ込められたり、と大変な経験をしましたし、独身で過ごしたと思われます。エレミヤも多くの苦悩を味わった預言者でした。そして、イザヤ書は詩的文学的に優れたものと言われます。エレミヤ書もイザヤ書ほどではないにしても、詩的な部分も多く、エレミヤ本人の嘆きが切々と歌われている所もあ

「異教徒の間で立派に生活しなさい」2020.2.9
 ペトロの手紙一 2章11~17節

 2月11日は、建国記念の日と定められています。キリスト教会では「信教の自由を守る日」として、この日を覚えております。昨年天皇の代替わりで、平成から令和という元号になりました。これは、象徴天皇制という日本に生きていることを意識させますが、新しい令和の時代になった、と単純に受け止め方をしている人々も多いようです。今日は、2月11日を前にして、改めて日本に生きるクリスチャンの振る舞い、生活について、神の御言葉に聞きたいと思っています。 1.異教徒とはどんな人たちか 日本人の中でクリスチャンは人口の約1パーセントである、と言われています。ですから、私たちの周りは異教徒か、無宗教の人が殆どです。家が代々仏教である、という人は多いと思いますが、ご自分が熱心な仏教徒である、という人は案外少ないように思います。葬式をするとなれば仏教式で、お墓もお寺にある、という人は多いでしょうし、教会員の方々も、実家はそうである、という方が多いと思います。私たちは、異教徒であるかどうかはともかく、クリスチャンでない人に囲まれている、というのが実情でしょう。そういう中で、私たちはクリスチャンとして生きています。いや、生かされています。キリストを信じる信仰に導かれた人は、神によってその信仰に導かれた、と教えられています。だとすると、今自分がこうしてキリストを信じる信仰によって歩み、日曜日には教会で礼拝を献げる、というこの生活は、神によって与えられたものです。自分が選び取ったのではなく、神によって召し出されたのです。そのことを今、改めて心に深く留めていただきたいと思います。 さて、では異教徒とはどんな人たちでしょうか。一つ言えることは、唯一の真の神、天地創造の神を信じているのではない人たちです。いろいろな神様を信じている人たちは日本にたくさんいますが、確かに、天地創造の神を信じているのではない人たちは、はっきり異教徒であると言えます。預言者エレミヤが次のように言っています。「このように彼らに言え。天と地を造らなかった神々は 地の上、天の下から滅び去る、と」(エレミヤ書 10章11節)。神々と呼ばれてはいるが、実は存在していないも同じだ、ということです。このように言うと、だからキリスト教は排他的なのだ、と言われると思いますが、それが聖書の教えです。 では、聖書で語っておられる天地創造の神を信じ