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「イエスは道である」2022.7.31
 ヨハネによる福音書 13章36~14章7節

 主イエス・キリストは、弟子たちに対して、「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を授けられました。これまでにも旧約聖書で「自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という掟は与えられていました(レビ19章18節)。ここでは主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉を加えられました。その点、新しい掟であると言えるわけです。その際、主イエスは弟子たちに対して告別の言葉と言えるようなことを語られたので、ペトロがそれについて尋ねたのが今日の朗読箇所です。   1.後でついて来ることになる  イエスは「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」と言われたものですから、ペトロは「どこへ行かれるのですか」と尋ねます。主イエスは、今はついてこられないが、後でついて来ることになる、と答えられました。主イエスが行かれる所、とは、この世を去ってから戻る父なる神の所です。父の家と言われているように、天の御国です。弟子たちはまだしばらくはこの世にいますので、今すぐにはついて来ることはできないが、後でついて来る。これは単純には弟子たちもやがてはこの世を去るということですが、主イエスが捕らえられて殺されるという受難の道を進まれたように、弟子たちにもそれが待っていることを仄めかしておられると見ることもできます。  それに対するペトロの答えは、彼の性格をよく表しています。主イエスのためなら命を捨てます、という言葉はその時のペトロの偽らざる気持ちだったでしょうが、やはりいざとなったらその通りにはできなかったことを私たちは後の記述から知っています。主イエスはそれを予告されました。ペトロが、鶏が鳴くまでに3度イエスのことを知らないと言う、との予告です。ペトロの勇ましい言葉を主イエスは受け止めながらも、ペトロにとってつらいこととなる現実を予告されました。イエスのために命を捨てるどころか、3度もイエスを知らないと言う。天と地ほどの開きのある行動です。  ペトロは、福音書に書かれている事柄をみると、とても直情的で気が強く、思い始めたら突っ走るというような性格の人に見えます。情に厚く、やろうとすることに対しては人一倍熱心に取り組む、という印象を受けます。どっちつかずの、曖昧な態度を取るような人ではないと言えましょう。しかし後に、そのような態度を示してしまったことがありました(ガ

「祈る勇気をいただく」2022.7.24
 サムエル記下 7章18~29節

 私たちと主なる神とをつなぐとても大切な恵みの手段として、祈りがあります。神様は、全能の方ですから、私たちの考えや働きや行動を超えて一切のことを実行する御力をお持ちです。しかしこの世で起こる様々な多くのことの場合、私たち人間の働きや行動を通して事をなされます。特に、主を信じる者が祈りを献げるということを通して、それに答えて、それを実行して行かれる、ということがしばしばあります。神は、私たちが祈り願う前から、私たちの願いをご存じです。それにも拘らず、祈ることを求めておられます。それは、神が何でも気前よく与えてくれない、出し惜しみをする方だからではなくて、私たちが自分の弱さを知り、そして主により頼むしかないことを知って、自分の力ではなく主の力に信頼する者となることを望んでおられるからです。そしてそれが私たちにとって有益だとお考えになるからです。人間の親も、子供が欲しがるものが分かっているからと言って、何でも先回りして求める前から次々に与えたりはしません。そんなことをしたら、子どもは自分にとって本当に必要なものは何であるかを全く考えなくなってしまいますし、いただいて当たり前という気持ちになり、感謝の心を持たなくなってしまうからです。       1.ダビデ王のへりくだり  今日の朗読箇所では、預言者ナタンによって、ダビデの子孫から出る者がイスラエルの王座を受け継ぎ、主がその王国をとこしえに揺るぎないものとする、という約束を告げられたダビデの祈りが記されています。ここには、主なる神を信じる者の祈りの様々な要素が込められています。これによって私たちは、祈りの中でどのように感謝や讃美を献げるかということを教えられるのです。 ダビデは、人間と神の隔たりを自覚しています。人間が持っている知恵は、元々神が人間に授けられたものでした。しかし、神を畏れ敬うことを人間がしなくなると、まず人間がし始めることは、神と人間との隔たりを忘れ、恰も神は人間と大差ない方であるかのように思ってしまうのです。人間の能力や知識、知恵を基準にして神を測ってしまうのです。これが人間の罪の性質です。最初の人アダムとエバが堕落した時も、蛇の姿で語りかけたサタン(悪魔)が唆したのはその点でした。神に背いたからと言って、決して死ぬことなどないのだ、と(創世記3章4、5節)。  しかしダビデは、その点、神の前に自

「互いに愛し合いなさい」2022.7.17
 ヨハネによる福音書 13章31~35節

 12弟子の一人でありながら主イエスを裏切るイスカリオテのシモンの子ユダが、イエスのもとから出て行った後のことです。イエスは御自分が栄光を受けた、と言われます。このことをきっかけとして主イエスは、弟子たちに新しい掟を与えられました。それは今日の私たちに至るまで、ずっと主イエスを信じる者たちが聞いてきた掟です。私たちは、世界中の主の民が聞いてきたこの掟を、今また新たな思いで聞こうとしています。   1.栄光を受けるイエス・キリスト  イエスは、今や、人の子は栄光を受けた、と言われました。人の子、とは主イエスが御自分のことを言われる時に使われる言い方です。神の御子でありながら人間となられた方として、御自分のことを示しておられる言い方です。人間となって、この世にお生まれになったことを前面に出して言われる表現です。ここで主イエスは、神と人の子である御自分とを対比して語られます。このような言葉を聞くと、イエスは普通の人間で、神とは区別される存在だ、という考えが出て来そうなのですが、そういうことではありません。どうしてこのような言い方が出てくるかというと、神の御子である主イエスは、神としての身分をもっておられるにも拘らず、マリアから生まれて人となられました。肉体を取られたということは、正真正銘の人となられたということです。それで、ここでは神と人、という区別の仕方で御自身と父なる神のことを語っておられるわけです。  ここで主イエスは、御自身が栄光を受けた、と言っておられますが、まだ十字架にかかってはおられません。しかし、世に来られて神の御言葉を語っているイエスは、神の御子であり本来輝かしい栄光の内におられます。そういう方が、御自身を低くして世に来られたということが、神から栄光をお受けになっていることを証ししているのです。もう少しはっきり言いますと、捕えられて十字架につけられ、殺されることが、実はイエスの受けられる栄光です。御自身を多くの人々の罪の償いの供え物として献げるということが、神から受けるイエスの栄光なのです。このような仕方で人間の罪を償うことのできる方は、世の中でただ一人神の御子であり人の子となられたイエス・キリストだけだからです。   2.新しい掟―イエスが愛したように愛しなさい  そしてイエスは新しい掟をお与えになりました。その内容は、互いに愛し合いなさい、

「主を裏切る者は誰か」2022.7.10
 ヨハネによる福音書 13章21~30節

 主イエス・キリストは、弟子たちと食事を共にされ、弟子たちの足を洗う、ということをされました。それには深い意味があり、洗ってもらった者は、主イエスとのつながりの中にあって、神の前での罪を赦していただける恵みに入れていただいていることを示していました。そして、主イエスは、弟子たちに対しては互いに足を洗い合うことをお命じになり、それは互いに自分を低くして他の人に仕える者となるように、という点からの模範も示されたのでした。今日のお話は、その後でのことであります。   1.一人がイエスを裏切ろうとしている  弟子たちに対して、御自分と天の父なる神との深いつながりについて語られた主イエスは、心を騒がせて断言されました。「心を騒がせ」、という言葉は11章33節でも使われていました。その時は、親しくしていたラザロが病気で死んでしまった時に、その姉妹であるマリアが泣き、周りの人たちも泣いているのを見て、「興奮して」言われたという記事です。人の死を前にして悲しむ人の様子を見て、主イエスが心を動かされた様子が分かります。今日の箇所では、主イエスを裏切ることになる者について語られるので、主イエスとしても、心穏やかではいられなかったのです。12弟子の中で誰が裏切ることになるのかあらかじめご存じであるとは言っても、共に過ごしてきた弟子の一人が裏切ることになるのを、平然と見ていることはできなかったのです。  しかし、主イエスはこのことは起こるべくして起こることであると知っておられますので、力強く断言されました。この「裏切る」という言葉には、敵や裁判官などの手に「引き渡す」、「託す」というような意味があります。12弟子の一人であるユダは、金と引き換えにイエスをユダヤの指導者たちに引き渡す約束をしていたのでした。弟子であるにも拘らず、イエスを殺そうと思っている人たちに引き渡そうとするのですから、文字通りの裏切り行為であったのでした。   2.誰について言っているのか  これを聞いた弟子たちは、誰について言っておられるのか、顔を見合わせました。28節にありますように、弟子たちにとっては、主イエスがこのようなことを言われるとは全く考えていなかったわけで、この後のイエスのユダに対する言葉を聞いても、誰のことを言っているのか全く分からなかったのでした。  ペトロは、主イエスの隣にいたイエスの愛

「神の言葉を受け入れる」2022.7.3
 使徒言行録 17章10~21節

 神の御言葉が語られる時、人はいろいろに反応します。素直に聞き、受け入れようとして学ぶ人、初めから疑いの目をもって見る人、あからさまに反発する人など、様々です。それはいつの時代も同じです。それは何故かといえば、主なる神は、人の口を通して語られるからです。神の御子イエス・キリストでさえ、御言葉を語ると激しい反発にしばしば合われました。今日の朗読箇所には、使徒パウロたちの宣教を通して神の言葉に対する人々の反応が示されています。今、こうして神の御言葉を前にしている私たちは、どう聞くのか。このことを今また主から問われています。   1.神の言葉を聞き、聖書を調べる  使徒パウロは、シラスを連れて、いわゆる第2回宣教旅行に出ていました(15章40節)。今のトルコの内陸部を抜けてギリシャに入り、フィリピ、テサロニケ、そしてベレアという町へ来たのでした。ベレアのユダヤ人たちは非常に熱心に神の言葉を受け入れて毎日聖書を調べていました。ここで言われている聖書とは、旧約聖書のことです。また、聖書と言っても今日のように冊子の本で各自が簡単に持ち運べるようなものではなく、巻物ですから、恐らく会堂に備え付けてある巻物の聖書を毎日調べに通っていたのだと思われます。もしもその頃の信徒たちが今日の信徒たちの教会生活、信仰生活をみたら、相当うらやましいと思われるでしょう。何しろ、自分用の聖書があって、しかも簡単に持ち運べて、1冊に全部入っている。何と有難いことか。創世記の巻物を調べたら、次はイザヤ書の巻物、というように、一つ一つがそれなりの大きさであったわけで、全体をいっぺんに持ち運ぶことなど到底無理な話でした。それを考えると、聖書は大きくて重たいから持ち運ぶのが大変だ、などと考えるとしたら、初代教会の信徒たちに、何ともったいない、うらやましい、と思われることでしょう。こんなにコンパクトで軽くて、しかも1冊に聖書の全巻が入っているなんて!と。  そういう意味では、私たちが20世紀、21世紀に生きているということは、どれほど文明の益を受けているかわからないです。今ではスマートフォン一つあれば、聖書の全巻が読めるし、いろいろな翻訳も、原文も見ることができます。2,000年前の人が見たら、この小さな薄っぺらい板の中に、どれ程小さな文字で書きこんだら収まるのだろうか、と思うかもしれません。そういったこ