「罪を負った主のしもべ」 2023.9.10
イザヤ 52章13節~53章12節

 旧約聖書中の書物の中で、イザヤ書は特に重要なものです。創世記以下の5冊、サムエル記、詩編など、特に重要な書物がいくつかあります。もちろんすべてが神の権威ある御言葉ですが、その重要度には差があります。もしもイザヤ書がなかったら、キリスト教会がイエス・キリストを神の御子、救い主として信じ宣べ伝える力がもっと弱かったでしょう。しかしそれは杞憂で、聖書を与えてくださった神は、今ある66巻の聖書全体によって、ご自身の御心を伝えてくださいました。今日はそのイザヤ書の中でも特に重要な、苦難のしもべの歌です。


1.主のしもべの歌

 イザヤ書の中には、主のしもべの歌、と呼ばれるものが4つあります。第1は42章1~4節、第2は49章1~6節、第3は50章4~9節、そして今日の箇所が第4のしもべの歌です。このしもべが誰なのかは、それぞれのしもべの歌によって多少違いがあります。同じ人物を示しているとは限りませんが、第一の歌である42章のしもべは、主の霊により、諸国への裁きが告げられます。第2の歌は、しもべがイスラエルとも呼ばれているので、共同体としてのイスラエルのことかもしれませんが、個人という面も見られます。そして諸国の光となる、と歌われます。第3の歌では、誰か個人としてのしもべが辱めを受ける面が示されます。第2と第3の歌は、しもべ自身の独白です。

 それらの中で、この第4の歌は、特にしもべの非常に大きな苦難が示されます。それは小さなものではなく、またしもべ個人だけに関わるものではありません。多くの人々の罪に関わるものであり、その罪と、僕の苦しみとが深い 関わりを持っています。52章13節以下、神が「わたしのしもべ」と語られます。最初に、しもべが栄え、高く上げられあがめられると告げ知らされます。ところがそのすぐ後で、しもべは大変な苦しみを受けることが分かります。その姿は損なわれて人とは見えず、肉体的に非常に痛めつけられます。そしてそのことが人々を、そして王たちを驚かせることになります。それはだれも今まで聞いたことのなかったような物語として示されるからでした。


2.私たちの罪をすべて負った

 その内容が53章から語られます。ここで言われていることは、諸国の王たちを驚かせます。そして注意すべきことは、この文体は日本語でもわかるように過去形と未来形です。このような詩文の形では、過去形で書かれていても過去のこととは限りません。あくまで詩文の形なのです。主のしもべのことを描き出すのに、それが確かなことである、ということを示すためにこのような方法で語るのです。ですから時制のことは気にしなくてよいです。

 このしもべは人に軽蔑され、捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っていました。この「わたしたち」が誰なのかもよくわかりませんが、しかしある時点から、「わたしたち」にはある重大な事実が見えてきたのでした。それはこの人が受けている苦しみは、この人自身のためではなく、むしろ「わたしたち」のためだという点です。それまで「わたしたち」は、彼の苦しみは神の手によっており、神から懲らしめを受けていると思っていたのでした。

 しかし、「わたしたち」がなぜそのことに気がついたのかはわかりませんが、とにかくその真実が示されたのでした。それは「わたしたち」の背きのため、咎のためでした。ここだけを見ていると、「わたしたち」の罪とか咎とは何であって、誰に対する罪なのかは初めてこれを読む人には分かりにくいでしょう。しかし苦しむ人は主の前に育った人でした。そしてここで語る「わたしたち」には、神に対する罪と咎の問題を持っていることが分かります。神が、「わたしたち」の罪をその人に負わせられたのです。

 これは、旧約聖書全体を貫く主題であって、聖書が何を教えようとしているかを知らないと、このしもべの苦しみの問題はわかりません。人は神に対して罪を犯し、神のもとから離れて、背き、自分の行きたい方へとさ迷い歩き出したことをまず知る必要があります。それが六節の意味で、羊の群れのように道を誤り、それぞれの方角に向かって行ったのです。そしてこの「わたしたち」の姿は、この話の中での特殊な状況ではなくて、すべての人間に当てはまるものです。つまり、ここでの「わたしたち」についての描写は普遍的に人類全体を示しています。

 そしてキリスト教会は、ここに描き出されている「しもべ」こそ、苦しみを受けて十字架にかかられた神の御子イエス・キリストのことだ、と悟りました。他に、ここで描き出されている姿を体現している人物などいない、ということが明らかになりました。旧約聖書の預言というものは、今から何百年後に、こういう名の人物が現れて、こういう行動を起こし、いつどこでこんなことが起こる、というような具体的な書き方をあまりしません。誰にでも明らかで、解釈が分かれようのない仕方で、来るべき方を示すというよりも、ここにあるような詩文の形で、しかも既に起こったこととこれから起こることの両方に受け取れるような仕方で描き出します。それは、この預言のはるか後にこの世に来られたナザレのイエスという人物に起こった出来事を見て、その十字架の死における苦しみをみて、そしてその方を信じることによって初めて分かるように神が示されたからです。ですから、この苦しみを受けるしもべの歌は、イエス・キリストの苦難の道を知って初めて理解できるのです。ここに描き出されているのは神の御子イエス・キリストです。これが当てはまる人物など、この世には昔も今もこれから先もイエス・キリスト以外にはいません。


3.その苦しみには実りがある

 このことをよくよく覚えた上で、更にこの歌が示していることをもう一つ見てまいります。それは、主なる神が望まれることが、このしもべによって成し遂げられるという点です。それは何でしょうか。主なる神は、このしもべを打ち砕くことによって、その子孫を末永く続くものとすること、それはその子孫と呼ばれる多くの人を正しい者とするためであることでした。そしてしもべはそのために自らを償いの献げ物としたのです。ここには、主である神と、「わたしたち」と呼ばれるある一群の人々、そして主が立てられたしもべという三つの関係があります。そして「わたしたち」と呼ばれる人々には罪があり、その罪の責任がしもべに負わせられたのでした。しかしこのしもべは主のしもべです。主がある目的のために立てられたのですが、それはしもべが苦しむことでした。しかししもべはそれを喜んで担い、多くの人々の罪を代わりに負います。それゆえ、罪人の一人に数えられました。しかしこのしもべは、不法を働いたことはなく、その口には偽りもない正しい方でした。つまり罪はなかったのに、多くの人が正しい者とされるためにあえて自らを投げ打ち、人々の過ちを担い、しかも背いた者のために執り成しまでしたのです。

 ここには、普通に考えたらどうにも説明のつかないことが起こっています。正しく罪を裁く神の前で、罪を犯した人間がいます。多くの人々、とありますがそれは人類の一部ということではなく、すべての人間です。全ての人間が神に背いて羊の群れのようにてんでに勝手な方へと進んで行きました。そして神は正しい方ですから、そのようにして罪を犯した人間を正しく裁かれます。本来、罪を犯した者が打ち砕かれ、懲らしめを受け、罪を負わねばなりません。それにも拘らず罪のない主のしもべが苦しみ、病を負い、軽蔑され、刺し貫かれました。全くおかしなことが起こっているのです。正しく罪のない方が罰を受け懲らしめられ、苦しみ、ついには死んで葬られたのです。それは、私たち人間の理屈では成り立ちません。しかし神はそれを成り立たせられました。

 このしもべの苦しみは、ある実りをもたらします。多くの人がそれによって正しい者とされます。そしてしもべは死ぬのですが、多くの人を戦利品、取り分として受ける、と言われます。死んだままの人が何かの取り分を受けるなどということはあり得ません。意味がないからです。しかしこのしもべは死んだにも拘らず、多くの人を受け取るし、苦しみの実りを知って満足すらします。そして初めに言われていたように、このしもべは栄え、高くあげられ、あがめられます。どう見ても、このしもべは死んで滅びることにはなっていません。これは本当に全く、人間の考えでは説明がつかず、理解できません。しかし、ここに描き出されているしもべの姿にぴったりと当てはまる方がこの世に登場したのでした。それがイエス・キリストです。この世に人として生まれ、罪のない神の御子であったイエスは、十字架につけられ殺されました。しかし、復活して高く挙げられました。罪なき方は死の力に打ち勝たれたのです。 

 この主イエスを信じたクリスチャンたちは、この方こそ、ここに示されたしもべ、「わたしたち」のために罪を負って、罪人の一人に数えられ、多くの人のために自分を償いの献げ物としたしもべだと確信したのです。私たちもまた、聖書に示された主イエス・キリストを信じたならば、この方こそこの苦難を受けたしもべだと悟れます。

 苦難を受け、私たちの罪を負われた主のしもべ、実はこの方こそ神の御子であり、神が自ら世に送られた独り子です。この方を信じる者には、永遠の命が与えられます。この独り子を信じる人は、一人も滅びることなく、神のものとされ、さ迷う羊ではなく、羊飼いなる神のもとで永遠に安らげる祝福された羊として生きることができるのです。

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