「わたしは主を見ました」 2023.9.3
ヨハネによる福音書 20章11~18節

 私たちにはいろいろな感覚、いわゆる五感というものが与えられています。もちろん健康上のいろいろな事情でそれが十分でない状態に置かれている人もありますし、生まれながらそれを備えておられない方もいます。それでも私たちは何らかの手段によって、目には見えない神を見ることができます。それは信仰によってです。今日は、はっきりと目の前で復活された主イエス・キリストを見た、ひとりの女性の言葉を私たちは聞いています。彼女は主イエスの弟子たちにそれを告げましたが、その証言は、弟子たちだけではなく、今日に至るまで世界中の人々に向けて語り続けられている証しなのです。


1.復活したイエスを見分けられないマリア

 イエスの墓の前から、ペトロとヨハネの二人の弟子たちは家に帰って行きました。二人は、イエスは必ず復活されることになっているという聖書の言葉をまだ理解してはいなかったのですが、それでもとにかくイエスの遺体はもはや墓にはない、ということは認めて墓を後にしたのでした。しかしマグダラのマリアは、墓の前に残って泣いていました。そして墓の中を見ると、そこに二人の天使がいました。ペトロたちがいた時にはいなかったのですから、天使たちはいきなり現れたということで、ただの人ではないことが示されます。彼らが語ったことは、マタイによる福音書などに詳しく書かれているので、ヨハネは既に知られていることとして、あえてそれを書かなかったのでしょう。

 天使たちの問いかけに対して、マリアは先に2節で書かれていたこととほぼ同じ言葉で答えます。わたしの主が取り去られたこと、どこに置かれているのか自分にはわからないことです。どこに置かれているのか、という言葉から、マリアはまだ主イエスが死んだ方で、あるはずの遺体が見当たらない、という点に捉われていたのだとわかります。

 しかし振り向くと、そこには死んだはずの主イエスがおられました。ただし、マリアにはまだイエスだとは分かりません。イエスの顔を近くで見ていたはずのマリアでしたが、死んだ方だという固定観念があるので、見分けられなかったのでしょう。それは、ルカ福音書に書かれている二人の弟子たちが、復活したイエスと道を共にしても気がつかず、ルカはそれを「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(24章16節)と記しているのと同じことがマリアにも起こっていたと言えるでしょう。視界には入っているはずなのに、それを見誤る、ということが人には確かにあります。そこにあるはずがない、と思っていると目の前にあっても認めることができないのです。


2.すがりつくのはよしなさい

 そのようなマリアに対して、イエスはまず誰を捜しているのかと尋ねます。マリアは園丁だと思って、自分が遺体を引き取りたいと申し出ますが、イエスが彼女の名前を呼ぶと、すぐにイエスであることが分かったのでした。イエスは御自身を羊飼いにたとえられ、羊飼いは羊の名を呼んで連れ出す、と言われました(ヨハネ10章3節)。それは当然一匹ずつ呼んで連れ出すということです。

 ここには、主イエスと私たちとの親しい関係が示されています。羊は自分で名前を羊飼いに教えるわけではなく、羊飼いが名前を付け、それを知っておられます。羊は呼ばれれば自分のことだとわかるのです。羊飼いは羊の状態を良く把握しています。そして自分について来るように教え訓練するのです。羊は他の誰でもなく、自分の羊飼いを知っており、その声に従っていけばよいと、わかっているので何の迷いもなくついてきます。それまで、羊飼いの声について行って危険に晒されたり、間違った道へ迷い込まされたり、苦しめられたりしたことがないのです。私たちも、主イエス・キリストを羊飼いとして仰ぐことができます。私たちのことを予めよくご存じである主イエスの声について生ける羊は何と幸いなことでしょう。

 マリアは、イエスの声だとわかって、先生とよびかけ、そしてイエスにしがみつくようにしたのでしょう。それがよほど強いものであったと思われます。主イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい」と少し厳しく戒められます。私たちはここから一つのことを学びます。それはイエスの復活の目的についてです。マリアは、死んでしまったとばかり思っていた尊敬し愛してやまない先生であるイエス様が何と復活して生きておられる。なんてありがたいことか、またずっと自分たちと一緒にいていただける、ああよかった、また以前のようにそば近くでお話を聞いて、その素晴らしいお働きを目の前に見ることができる、と思ったのではないでしょうか。そしてもう二度と離すまい、とでも思ったかもしれません。そういうマリアの態度をイエスは見て取って、こう言われたのでしょう。つまり、主イエスは復活されましたが、それは以前のようにまた地上を歩き回って人々を教え、病気を癒し、奇跡を行って神の力を人々に示すためではありませんでした。そうではなく、天に昇る、という大事なことが残っていました。それは、地理的にはイスラエルとその周辺という限られた地域において働きを続けることではなく、天に昇り、全世界を対象として救い主としてのお働きを始めることです。

 主イエスの復活、という出来事は、単にイエスが死人のうちからよみがえったというだけではなく、神による救いの御業が全く新しい段階に入って行く大きな区切りの時でもあったのです。だから主イエスは、マリアもイエスにいつまでもすがりついてこの世にずっといてほしいという思いから進んで、イエスが天の父のもとに上っていかれることを受け入れ、かえってそれを喜ぶようになることを望んでおられるのです。


3.主イエスが天の父のもとに昇られた目的

 そして、主イエスは、マリアが弁えるべきことを言われます。もちろんこれは今日に至るまで主イエスを信じる者がよく知るべきことです。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」(17節)と。御自身の父であり神であることと、あなたがた、つまり弟子たちや今日の私たち等信じる者みなの父であり神である、ということをあえて分けて語っておられます。もちろん同じ天の父であり天の神ですが、元々神の御子である主イエスは神の御子という身分があります。その御子として父について言われます。私の神、と言われますが、これはあくまでもイエスが人となられた限りにおいて、その人間となられた御自身に対して、天の神であられることを述べたものです。私たち普通の人間は、あくまでも神によって造られた被造物ですが、元々神の御子として父なる神のもとにおられた神の御子イエスと同じ父なる神を仰げるのです。

 そして永遠からの神の御子であるイエスによって救いをいただく者とされ、神の子どもの数に入れていただいた者は、もはや罪と悪の力によって滅びに落とされることはありません。それが、主イエスが天の父のもとへ上る、ということによって実現し、完成します。これを抜きにして、いつまでもイエスに地上にいてもらう、ということでは私たちの救いは完成しません。復活されて、天に昇り、父なる神の右の座に就かれることによって死に対する勝利が明らかになりました。単に死んで息を吹き返してまた地上での生活を始めた、ということではないのです。ですから、主イエスはマグダラのマリアに、わたしにすがりつくのはよしなさい、と半ば冷たい感じにも見える仕方でマリアを戒められたのです。マリアはその気持ちを非常に強く示していたのでしょう。

 今日の私たちは、もはやマグダラのマリアのようにイエス様を地上に引き留めておきたい、という状況ではありません。初めから一緒に過ごしていたマリアや弟子たちにはそういう思いがあったかもしれませんが、今日の私たちは、むしろ主イエスをはじめから天におられる方、しかも今私たちと共にいてくださる方、として示されています。だからたとえ手で触れられず、肉眼で見えなくとも、かえって御言葉と聖霊によって力強く私たちにその存在と力を示してくださっていることを信じて、より頼んでゆくのです。そして、今の世でも、主イエスはその力と慈しみを現してくださいます。主イエスを信じた人が、その歩みを振り返った時、この時もあの時も、主はいてくださいました、という信仰告白をすることができます。それは、肉眼で「わたしは主を見ました」と言ったマリアの言葉に勝るとも劣らない力強い証しです。信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することなのです。

 マリアは、わたしは主を見ました、と言いました。私たちは復活された主イエスを目撃はしていませんが信仰によって見ています。それは、復活された主イエスが天に昇り、そこから聖霊を遣わしてくださっているから実現したのです。主イエスがずっと地上に留まっておられたら、それは実現しませんでした。マリアに「すがりつくのはよしなさい」といって示された復活の目的があるからこそ、私たちにも主イエスの恵みが及んでいるのです。さらにその主イエスを信じる人を私たちはお互いに見ることができます。これは誰にも否定することはできない、実に力強い真実です。その信じる人の内に確かに主イエスがおられ、聖霊のお働きが実現していることを見るのです。

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