「神から来たのでなければ」 2023.5.9
ヨハネによる福音書 19章8~16節a

 私たちは、今こうしてこの教会の会堂に集まり、神を礼拝しています。それは救い主イエス・キリストの御名のもとに、キリスト教会という名を与えられてここで礼拝をしています。それは、ひとえに、主イエス・キリストというお方が、神から来た方だから、ということが根拠です。そうでなかったら、私たちはこの猛暑の日に、或いは大雨の日に、或いは台風が来ている時に、なんだってわざわざ礼拝などするものでしょうか。しかし、私たちがこの世でキリストの御名のも徒に集まって礼拝をしているとしたら、主キリストが神から来られた方であり、この世に対して神からの権威を持つ方であるからです。そのことを今日、私たちは新たに教えられています。


1.お前はどこから来たのか

 ピラトは、ユダヤ人たちに対して、「この男には何の罪も見いだせない」と3回も言っていました。しかし訴え出ていたユダヤ人たちの強い主張に押されてしまいます。ユダヤの律法によれば、イエスは自分を神の子と自称していたから死罪に当ると。ユダヤ人の律法によれば確かに神の御名を呪う者は死刑に処せられます(レビ記24章16節)。自分は神の子だ、と言うことは、それを言ったのがただの人間であるとしたら、自分を神のもとに迄引き上げて高ぶることであり、唯一の神の御名を貶めることになるからです。しかしイエスは本当に神の御子です。そうであるにも拘らず、それで押し切ろうとした圧力にピラトは負けて、ユダヤ人が妬みのゆえにイエスを処刑したかったのを受け入れて引き渡してしまいます。罪なき方が訴えられ、罪は見いだせないと裁判官が言ったにも拘らず有罪とされ、十字架につけられることになるのでした。

 ピラトはユダヤ人たちの言葉を聞いて恐れたのでした。自分はいったいどういう人物の裁判に当っているのだろうか、ということで恐れたわけです。ということは、ピラトは、自分はローマの総督としてユダヤの地に立てられ、裁判官の務めも果たしているけれども、ユダヤの宗教に関して、ある人物が神の子なのか違うのか、というような裁判については関わりたくないと考えたのでしょう。つまりこの世の政治的なことに関しては裁くつもりはあるが、ユダヤの宗教に関することの裁判官にはなりたくない、それは自分の務めではない、と思っていたからです。それは地方総督であったガリオンという人の言葉にも表れています(使徒言行録18章15節)。

 それでピラトは恐れながらも「お前はどこから来たのか」とイエスに尋ねました。「どこから来たのか」この言葉の中に、ピラトのイエスに対するある種の恐れの気持ちが現れています。どこから、というのは出身地を聞いているわけではなく、何の権威を帯びているのか、一体お前は何者か、という気持ちです。「どこから来たのか」。私たちも、この問いを救い主イエスに対して抱く必要があります。そしてその答えはイエス御自身がなさった御業と語られた御言葉の中にあるのです。しかしピラトはその問いに答えてもらえませんでした。それはピラトが本当に自分の問題としてイエスに尋ねたかったというよりも、裁判官として判決を下すために職務上聞きたかったという理由のためです。今日、主イエスは、私たちが謙遜になってあなたはどこから来られたのですか、と聞くなら、必ず御言葉をもって答えて下さっていると知りましょう。


2.神からの権威を持つ主イエス

 主イエスはピラトの問いにお答えにならないので、ピラトは焦ったのでしょう、自分にはイエスを釈放する権限も、十字架につける権限もある、と言います。確かにローマ総督として、その権限を持っていることは確かです。しかし、イエスは権限という点について実に深い所での話をされます。神からの権限がなければイエスに対する権限は何もない、と。なぜなら、イエスこそ、この世の一切の権限の上に立つ神の権限によってこの世に送られた方だからです。

 イエスが言われる権限は、単にこの世の裁判の席で有罪か無罪かを宣言できる権限を超えるものです。この世の裁判制度は確かに神がお定めになったものです。この世の裁判制度は、昔からあり、時代や風習によっていろいろであり、時には法律や制度として不十分な面があります。ピラトの場合もそうです。一人の総督が、ローマ帝国の権限を身に帯びて判決を下すのは、今日の裁判から見れば、実に不完全なものであるのには違いありません。それでも、人をこのように生かし、社会を築かせ、法の感覚をも人に与えておられる主なる神は、裁判制度をこの世で発展させてこられました。ですから、この世の裁判で判決を受けるということは、神と全く関係がないわけではありません。しかし時には、真実を知っておられる神の目から見れば無罪である人が、誤認や偽証や、間違った捜査によって有罪になってしまう場合があります。人のすることは常に間違いの恐れを伴っています。

 ピラトの権限は、ローマ帝国の中で与えられたものであり、広い意味では神からの権限である、と言える面もあるのですが、しかしイエスが神から来た方かどうか、という点を裁くに当ってはピラトには何の権限もありません。それはピラトの分を超えているからです。この世の裁判制度は神がお定めになったものですが、例えば今日、ある人が裁判所に、歴史上の人物であるイエスという人を、今日もキリスト教会とクリスチャンたちは神の子、救い主と信じ、イエスの復活まで信じているが、そんなことは現代人としては信じられないし、認められない、そんなものの存在を許したくない、と言って訴え出たとしても、この世の裁判官は、そのようなことの裁判官にはなれません。そのような権限はこの世の裁判官にはないからです。もちろん、日本中を騒がせたある新興宗教団体のように、その教義をもとに人を無差別に殺すようなひどい殺傷事件を起こしたりするようなことをすればそれはこの世の裁判が扱います。世の人々に多大の損害を及ぼしているからです。しかし、主イエスを救い主と信じるクリスチャンたちの信仰を、裁判官が裁くことはできません。その権限を神から与えられてはいないからです。私たちの信じる主イエスは、そういう方、つまり神からの権限をゆだねられている方であります。


3.私たちの王とは誰か

 それでピラトはイエスを釈放しようと務めたのですが、ユダヤ人たちから決定的な一言を言われてしまいます。もしこのイエスを釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない、と。ローマ皇帝に反することをする、と言われると、それはピラトにとっては最もきつい言葉でした。皇帝に背く者だ、などということを一度言われてしまうと、今後の自分の地位の存続が危うくなりますし、そればかりか命に関わってきます。ピラトにとってはこの言葉は致命的でした。自分ではイエスを無罪放免したいと願ってはいたものの、それをすると自分の身が危ういということを悟り、殺せ、殺せ、というユダヤ人たちの叫びに押されて、その思うとおりにさせたのでした。

 ピラトはあなたたちの王を私が十字架につけるのか、というのですが、ユダヤの指導者である祭司長たちは、大変な一言を発します。「わたしたちには、皇帝のほかには王はありません」と。これはもちろん、イエスを処刑したい、有罪判決を勝ち取りたいという願いから、ローマ総督ピラトに取り入るために発した言葉ではありますが、信仰上のことからすれば、こんな一言は発することはできないはずです。ユダヤにももちろん王はいました。ダビデ王こそ、ユダヤの人々にとっては理想的な王でした。政治的な面では確かに王はいたのです。それは、この世の王もまた、神が立てられたものであるからこそ、受け入れていたのです。しかし今、このローマ帝国の支配下にあっては、ローマ皇帝こそ自分たちの王だ、と言うのです。ユダヤの国は神の民の国ですから、本来、異教徒のローマ皇帝が治めていること自体、苦々しいことであったはずであり、人々の本意ではないはずです。しかしイエスを処刑するためなら、そのようなことすら口走る、という状態に指導者たちは陥っていたのでした。

 今日、私たちの日本では王様はいません。忠誠を誓うべき政治的指導者や人物はいません。しかし信仰上の王はおられます。それは神御自身であり、神が立てられた神の御子、イエス・キリストです。私たちはこの方を王として仰ぎます。どうしてか。それはまさにこの場面で、ピラトがイエスを十字架刑に引き渡したからです。十字架に引き渡された主イエスは、それによって私たちの救い主となられました。私たちの罪の責任を御自身に引き受けて神の前で罪の償いをしてくださいました。それによって私たちの救い主、そして王となってくださったのです。

 この世の王様は、私たちのこの世での生活全般にわたって守られている国家の上に立つものとして君臨し、国民の社会生活、経済的生活を治めています。しかしイエスという王は、私たちの心、魂を治めるお方です。この王が私たちに求めておられるのは何でしょうか。その御名をあがめ、私たちの先行きを、祈りつつゆだね、御言葉に聞くことです。そしてこの方こそこの世界にあって唯一の主、唯一の神であることを信じて生きることです。それは難しいことではありません。神が人間を造られた本来の目的に沿うことなのです。

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