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「生ける真の神に立ち帰る」2020.6.28
テサロニケの信徒への手紙一 1章1~10節

 このテサロニケの信徒への手紙は、使徒パウロが書いた手紙の中で、最も古いものであり、紀元50年代に書かれたものとされています。使徒言行録17章にテサロニケでの伝道の様子が書かれていますが、この後、パウロはアテネ、コリントへと宣教を進めてゆき、恐らくコリント滞在中に書かれたのであろうと言われています。テサロニケは、ローマ帝国の属州であるマケドニアの首都で、パウロがヨーロッパでの伝道旅行において立ち寄った最初の大都市です。今日でも世界地図にテッサロニキと記されていて、昔も今もエーゲ海を臨むギリシャの港湾都市です。点在する古い建造物が世界遺産に登録されているそうで、エーゲ海と聞いただけでも行ってみたくなるような観光地の一つかもしれません。そのような都市で伝道したパウロが、そこの教会の信徒たちに宛てて書いています。パウロはテサロニケで激しい苦闘の中で宣教したと言っていますから(2章2節)、それだけテサロニケの信徒たちへの思いも熱かったことでしょう。それが言葉の端々に伺えます。彼はテサロニケの信徒たちに会いたくて仕方がない、という思いを伝えています。この手紙から、人が神に立ち帰るということがいかに大きな神の力と恵みによっているのか、また、神がそのことをどれだけ心にかけておられるかということを教えられるのです。2000年近くも隔たっている時代のものとは思えないほどに、使徒パウロの言葉は今日の私たちに迫ってきます。 1.パウロの感謝  パウロはテサロニケの教会の信徒たちを祈りの度に思い起こしては感謝していると言います。信徒たちがただ救い主イエス・キリストを信じただけではなく、そこから働き、労苦、忍耐といういろいろな実が結ばれてきているからです。それは他の信者たちの模範となるほどでした(7節)。彼らがそのように信仰に導かれて、ひどい苦しみの中にあっても聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れているのは、信徒たちが神に愛されており、神から選ばれたからです(4節)。神に愛され、選ばれている。実はもうこれだけで、十分と言ってもよいほどのことです。それ以上何があるでしょうか。その信仰に立つならば、労苦や忍耐、苦しみの中でも立ち続けられます。信仰を与えられ、神の愛を知り、神への愛と人への愛を知った者たちは労苦と忍耐との中でも希望を失わずに信仰の途を進み続けられるようにされているのです。

「聖書の真の目的を知る」2020.6.14
 ヨハネによる福音書 5章31~40節

 主イエス・キリストは、この世に御自身を遣わされた父なる神の御心を実現するためにすべてのことをなさいました。父なる神がなさることは何でもその通りにする、と言われたように、父なる神と全く心を一つにしておられ、御自身のなさることはすなわち天の父なる神のなさることなのだ、と言われました。しかし、その主イエスの御言葉を聞いたり、なさったことを見たり聞いたりした人々は、なぜ信じることができるのか、何を根拠として信じるのでしょうか。今日の私たちはどうしてイエスを信じることができるのでしょう。それは、聖書がイエスこそ神の御子、救い主だと証言しているからです。 1.証しの真実さ  イエスが神のもとから来られた神の御子なのか、それとも信じないユダヤの人々が言うように、神を冒涜する者なのか。それを私たちが判断するためには、イエスについての何らかの証言が必要になります。ある人の発言の真実さが問題になっている時、それを批判する側と、擁護する側に分かれます。主イエスも、ご自分が神のもとから来られたことを人々に悟らせるためにいくつかの証言を必要とされます。ここでは、イエスに対する証し・証言について四つ挙げられています。  一つは人間からのもの。それはごく普通の人間による証しです。つまりごく一般の人が、イエスは神の御子ですよ、と証言することです。しかしイエスは、それは受けないといわれます(34節)。次に、同じ人間ではあるものの、洗礼者ヨハネが挙げられています。彼は神から遣わされた人でしたから、イエスは神の小羊であると語り、神によってこの世に送られた救い主であることを人々に証言しました。この証言をイエスは受けられます。ヨハネによって信じる人が起こされることはあるわけで、実際、ヨハネの証しを受け入れてイエスの下に弟子入りしたのがペトロやアンデレたちです。  けれどもそのヨハネの証しもそれで十分というわけではありません。さらに勝る証しがあります。それが三つ目の証しですが、イエスがなさる業そのものです。イエスがなさったいろいろな業は、ほかの誰もなし得なかったものです。生まれつき目の見えない人の目を見えるようにし、聞こえない人の耳を聞こえるようにし、病の人をいやすこと、そればかりか死んだ人を生き返らせることすらなさいました。風や海を静めることもされました。これらはいわゆる奇跡ですが、素直に目の前