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「神の御業を思い巡らす」2020.12.27
 詩編 143編1~12節

 今日は今年最後の主日となりました。先週はクリスマス礼拝を行い、24日にはクリスマスイブ礼拝を行うことができました。今年は4月12日のイースターから、5月31日のペンテコステまで会堂での礼拝を休止するという、今までにないことを私たちは経験してきました。教会毎に判断はいろいろでしたが、私たちとしては、この状況の中でいろいろ考えながら決めてきたことでした。教会にとって年間の暦を考えた時に、イースター(キリストの復活記念)、ペンテコステ(聖霊降臨記念)、クリスマス(イエスの降誕記念)という三つの大きな記念すべき時がありますが、初めの二つを休止し、これでクリスマス礼拝も会堂で行えなかったらと思いますが、こうして行うことができるのを主に感謝します。今日はそのようなことも思い返しながら、この一年、いえそれだけではなく、主の御業を思い巡らすことをしたいと願います。   1.イエスの母マリアにならう  先ほど朗読しました詩編143編ですが、5節に「わたしはいにしえの日々を思い起こし あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し 御手の業を思いめぐらします」と作者は歌っています。この思い巡らす、という言葉は、ただ思い出しているのではなくて、そのいろいろな出来事などを心の中で熟慮する、という意味があります。一体このことは何を意味しているのだろう、どのように受け止め、対応していったらよいのだろうか、と。このことを良くしたのは、他でもない、救い主イエス・キリストの母となったマリアでした。彼女は天使ガブリエルから、神の御子イエスの母となると告げられた時、イエスの誕生のあと、羊飼いたちがやって来て天使の告げたことに従って飼葉桶に寝かされている幼子を捜しあてたことを聞いた時、そしてイエスが12歳の時に、神殿にいたイエスがここは自分の父の家であり、自分はそこにいるのが当然だと言った時。彼女はその都度考えこみ、思い巡らし、心に納めてきました。  マリアの場合は、これまでに起こった出来事ではなくて、今この時に自分の身と、周りで起こっていることについて思いを巡らせたという印象がありますが、実はそうではありません。彼女は親類のエリサベトの訪問を受けた後に、マリアの賛歌と言われる歌を詠んでいますが、それはイスラエルの歴史を良く弁えた人の歌です。ですから、マリアは自分の身に起こったことと、イスラエルの歴史

「世に救い主が遣わされた」2020.12.20クリスマス礼拝
ヨハネの手紙一 4章7~16節

 私たちの日々の暮らしは、自分のことも世の中のことも、全てを見通すことはできません。それでも、或る程度見通しをつけ、何かの非常時に備えて心づもり等を全くしていないわけでもありませんが、やはり何か事が起こって初めて私たちは真剣に動き出すのでしょう。国を動かす為政者たちにとって、確かに国の行く先をより良い方向へ持っていくのは容易なことではないでしょうが、国民は政府のやることに注目しています。そしてその対応が新型コロナウイルスの感染拡大をなかなか阻止できず、対策も後手に回っている、という印象があります。これは職場でも学校でも、教会でも家庭でも似たような面があるでしょうが、どうしても私たち人間は、先のことについての見通しを甘くしがちで、目前に何か大変なことが迫らないと重い腰を上げない、という傾向が常にあるのでしょう。そんなことを思い巡らしながら、私たちのような知識にも知恵にも洞察力にも限りのある人間ではなく、天地の造り主に心を向けます。私たち人間にはるかに勝る知恵と力をお持ちで、一切を見通しておられ、起こり来ることを全て御手の内に納めておられる全能の神にとっては想定外のことなど何一つないことを覚えましょう。そして、このクリスマス礼拝に当って、主なる神がこの世に、その後計画に従って送られた救い主イエス・キリストを仰ぎたく願っています。神の御言葉に聞きましょう。   1.神は独り子を世に遣わされた  今日の朗読箇所には、神が独り子を、御子を、救い主を世に遣わされた、ということが3回も記されています(9節、10節、14節)。それだけ著者のヨハネがそれを強調したかったということがわかります。このヨハネは、12弟子の一人の使徒ヨハネですから、主イエスのそばにいつもいて、その語られること、なされることを近くで見ており、文字通り寝食を共にしてもいました。ヨハネは、主イエスをそば近くでいつも見ていた中で、本当にこの方は御自身で言う通り、天の神のもとから来られた方だと確かに認めていたのです。人は、近くでいつもその言動を見ていれば、その人が大体どれほどの器の人かということがわかってくるものでしょう。ヨハネは、イエスのなさること、語ることをつぶさに見聞きしている中で、全て主イエスが語られたとおりだと深く味わったでしょう。  主イエスがこの世に神のもとから遣わされたからには、神の目的と動機が

「主は私たちのただ中に」2020.12.13
 ゼファニヤ書 3章14~20節

 今日は待降節の第三主日となりました。来週はクリスマス礼拝となります。月一度、旧約聖書から御言葉を聞いておりますが、今日は前回のハバクク書に続いてゼファニヤ書の御言葉に聞くこととしました。ちょうど、クリスマスを前にして、救い主の御降誕を覚えるのにふさわしい教えが告げられているからです。   1.裁きと救いの予告  このゼファニヤ書は、1章1節にあるとおり、ユダの王アモンの子ヨシヤの時代に主からゼファニヤに臨んだ主の言葉が記されております。紀元前7世紀の後半、エレミヤ書と同じ頃か少し早い時期にゼファニヤは預言活動をした人です。短い預言書ですが、大変印象深い言葉もあり、主が御自身の民を祝福されることがいかに素晴らしいことであるか、主がいかにご自分の民を祝福されるか、ということが描き出されています。  しかしこの預言書の前半は、大変厳しい裁きの宣告がイスラエルにも諸外国にも告げられています。この頃、既にイスラエルの北王国はアッシリア帝国に滅ぼされており、南ユダ王国はアッシリアが衰退してゆく中にあり、その後台頭してくるバビロン帝国に脅かされることになります。その前に、ゼファニヤは、ユダの王アモンの父であるマナセ王時代以来の、異教徒の国にならった罪について糾弾しました。主に誓いを立てながら偶像の神を拝む者、天体を神として拝む者、主を求めようとしない者に対する厳しい審判の言葉を語っています(1章5、6節等)。  そして、旧約聖書の預言書にしばしば登場する「主の日」について語り、それは恐るべき審判の日である、と告げています。それが近づいており、それは地の面のすべての者に及ぶ、とまで言っています(1章2節、18節)。そのような中でも主を呼び求めよ、そうすればまだ救いの望みはある、とも述べています。さらに、異邦人の国々に対しても主は裁きを行うと述べています(2章4節以下)。主を知っているはずなのに、主に背き、従わなかったイスラエルだけではなく、諸外国に対してもその罪をとがめています。イスラエルのように直接主の御言葉をいただいていなかった異教徒の民ですが、しかし彼らは主の民を嘲り、傲慢になって驕り高ぶっていたからでした。自分たちの繁栄は、自分たちの力によると思い上がっていたのです。  そして、3章では改めて神の民イスラエルの罪を糾弾します。都エルサレムは反逆と汚れに満ちた暴虐

「イエスとは何者か」2020.12.6
 ヨハネによる福音書 7章1~13節

 イエスとは何者か。このような問いの言葉は、言ってみればまだイエスを信じていない人、あるいは疑念を抱いている人の言い回しです。信じている者、あるいは主イエスに近づいてゆき、信じるべきお方であるならば従って行きたいと思っている人にとっては、そのような言い方ではなく、主イエスよ、あなたはどのようなお方なのですか、という問いになるでしょう。今日の朗読箇所には、イエスを信じる信仰にまで至っておらず、疑いの心を半分持ちながら、しかし関心もあるのでイエスという人物を品定めしようとしている人たちの言葉が出てきます。しかもユダヤの人々は、旧約聖書の預言者たちの預言によって、やがてこの世に来るべき方、メシア=キリストが到来することを期待していましたので、そのような思いも抱きながらイエスというお方を見ていたのでした。今日は、もちろん、今日の私たち、しかもクリスマスを前にして待降節を過ごしている私たちにとって、イエス・キリストというお方はどういうお方なのだろうか、ということが重要です。既にイエスを救い主キリストと信じて生きている方も、まだそこまでではない、という方も、このイエスというお方が自分にとってどんなお方であるか。これを問いかけられています。   1.イエスを憎む世の人々  イエスには、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンという肉親の兄弟たち、姉妹たちがいました(マルコ6章3節)。マリアの最初の子としてイエスはお生まれになりましたので、彼らは弟、妹たちです。神の聖霊によってマリアの胎内に宿られたイエスとは違って、弟、妹たちは普通にマリアとヨセフの子どもとして生まれました。その中のヤコブは、後にエルサレム教会において指導的立場に立った人で、新約聖書に入っているヤコブの手紙の著者とみなされています。また、ユダも同じくユダの手紙の著者と見られています。ですから後にイエスを信じて大きな働きをしたのですが、この時はまだ、心底イエスを信じるという信仰にまでは至っていませんでした。  イエスは既にその様々な言動によって、ユダヤ人たちから命を狙われていました(ヨハネ5章18節等)。それでイエスはユダヤを巡ろうとはされなかったのですが、ユダヤ人の仮庵の祭りが近づいてきました。この祭りは、収穫感謝祭として行われていましたが、ユダヤにおける三大祭りの一つで、とても重要なものです。  イエスの兄弟たちは、こ