「神による救いの物語」 2023.11.26
?ルカによる福音書 1章1~25節

 今年は待降節(アドベント)の始まりが12月3日で来週からです。そういう時季になりました。今年はルカによる福音書の1章から順にクリスマスへ向けて、救い主の御降誕を感謝しつつ神の御言葉に耳を傾けて行きます。この福音書の冒頭には、原始教会で福音書が公に書かれるに至った経緯を示す最も古い証言が書かれています。


1.私たちの間で実現した事柄

 私たちは今、この21世紀という現代世界に生きています。はるか2000年もの年月を超えて、この福音書は今もなお私たちの近くで、語りかけています。ルカは「わたしたちの間で実現した事柄」と言っていますが、その事柄こそが、今日生きている私たちをも真に生かすものなのです。それはイエス・キリストに関すること、イエス・キリストその方についての事柄です。ルカのように、多くの人たちがイエス・キリストに関する事柄を書き連ねようとしていたのでした。そいういう中で、今日、新約聖書の中に入れられて神の権威ある御言葉の内に数えられるようになったのは、このルカによる福音書、そして他のマタイ、マルコ、そして時代は後になりますがヨハネによる福音書でした。他の人たちのものでは、もしかすると未完成だったり、不十分だったりしたのかもしれません。ルカは初めから詳しく調べて順序正しく書きました。しかし何と言っても、神がこれら四つの作品を聖書、神の御言葉として読まれるように取り計らってくださり、今日の私たちにまで届けてくださいました。ルカが詳しく順序正しく書いているからという理由で人間が選定して、聖書にしようとしたのではなく、その内容に基づいて、教会の中で自ずから信頼するべきものとして読まれるようになり、そして神の息吹によって吹き出されたものとして教会がそれを認めるようになったのです。そういう一連の動きの中にも神の御手の導きがあって、今の私たちにこの物語が伝えられたのです。

 ここでルカはそれ以上詳しくは語っていませんが、私たちの間で実現した事柄、とは、実現することが期待されていた、という意味もあります。これを実現したのは神であって、神の御計画があって、それがこの紀元1世紀という時代に実現したわけです。そしてもちろん、紀元1世紀というのは、御承知の通り救い主イエスの誕生を起点として数えています。ただし、古代のことですから、今の西暦紀元1年は、イエスの誕生よりも数年前だったということが後の時代になってわかりましたので、実際には数年ずれてはいます。

 ルカは、ある身分の高いテオフィロという人物に宛ててこれを書きましたが、これは大変重要な記録だということで、広く読まれるようになっていったのでしょう。ルカがこれを書いた時には、既に教会があちらこちらにあって、信者も増えており、ユダヤ人だけではなく、いろいろな国の人々が信者となっていました。ルカ自身もユダヤ人ではないので、ユダヤ人から見れば異邦人である人向けに書かれたものと見ることができます。ルカは医者でしたが、使徒パウロの伝道旅行に途中から同行した人でもあり、使徒言行録を続きとして書きました。マタイ、マルコと主に共観福音書と呼ばれますが、ルカにしか書かれていない独自の記事が多く含まれているとても魅力的な書物でもあります。ここから、私たちの間で既に実現したクリスマスに向けて救い主の御降誕を中心とする御言葉を聞きましょう。


2.神に立ち帰らせる役目

 ルカは、祭司ザカリアの身に起こったことから筆を起こしていきます。時はユダヤの王ヘロデの時代です。ユダヤとは、広い意味ではサマリア、ユダヤ、イドマヤという地域を含みます。このヘロデ王はヘロデ大王と呼ばれ、紀元前37年から4年まで治めました。イエス誕生の時の王です(マタイ2章)。使徒言行録に出てくるヘロデ・アグリッパ1世(12章1節)、同2世(25章13節)は孫です。この時代、祭司たちは当番制で24組あり、アビヤ組は第8組で、1週間ずつ務めます。祭司は、朝夕ともし火を整える時に香を焚きます。祭司はくじを引いて一生に一度だけ主の聖所に入ってその務めを行えました。そこに主の御使いが現れます。長年子どもが生まれなかったザカリアとエリサベツに子どもが生まれる予告がされます。その名をヨハネとすること、彼は主の御前に偉大な人となること、母の胎にいる時から聖霊に満たされていて、多くの神の民を主のもとに立ち帰らせること、そのような人々を主のために用意すること。こういうことが告げられました。ここにはとてつもなく重要なことが語られています。

 こんなことをいきなり聞いて、それを冷静に受け止められる人がいったいどれだけいるでしょうか。ただ、これから生まれてくる子は、聖霊に満たされているけれども、あくまでも偉大な人です。実は主イエスが生まれることを御使いガブリエルがマリアに現われて告げた時にも、生まれてくる子は偉大な人になる、と言われます(1章32節)。しかし、イエスの場合は、それに続けて「いと高き方の子と言われる」と告げられます。そこがヨハネとは違います。ザカリアの子として生まれるヨハネは、エリヤの霊と力で主に先だって行く人物となります。エリヤは旧約聖書中モーセと並ぶ重要人物で、旧約聖書最後の預言書マラキ書で、その到来が予告されていました(3章23節)。それはエリヤの生まれ変わりというわけではなく、エリヤの再来に匹敵するほどの大きな働きをするという意味です。

 しかし、ザカリアは、御使いの言葉を信じることができず、事が実現するまで口が利けなくなってしまいました。そして、告げられた通り、エリサベツは身ごもります。御使いは「時が来れば実現するわたしの言葉」と言っています(20節)。御使いが語ることは、神が語っているというのと同じように見なされます。神が、世の人々を御自身に立ち帰らせるために立てられる、後に洗礼者と呼ばれるヨハネの誕生を告げているのに、それを信じなかったザカリアは、祭司であったにも拘らず神の言葉を素直に受け入れなかったので、その罰として口が利けなくなりました。神がなさる素晴らしい御業について語れないというのは祭司としては特にもどかしいことで、自分の不信仰を嘆き、悔いたことでしょう。喜ばしい知らせについて語れない。その辛さをザカリアは思い知らねばなりませんでした。


3.神による救いの物語

 こうして口が利けなくなったザカリアを尻目に、神の描かれる救いの物語は実現に向けて進み始めました。そしてエリサベツは夫の祭司ザカリアを差し置き、神の御業を賛美したのでした。この時代、子どもがないことを恥だ、と言っていますが、これはやはり時代的な制約のある発言であり、聖書全体を通じて考えた場合には決してそういうわけではないことを覚えておきましょう。人に命を与え、様々な務めを授けられる神は、子どもを産むことも、産まないこと、産めないことも含めて人にそれぞれの道を進ませてその中で神への賛美を歌えるようにしてくださいます。

 そして自分がどんな状況にあるとしても、神による救いの物語は、その実現した事柄に基づいて語り続けられてきました。神が原作者であり、立案者であり、創始者です。映画で言えばプロデューサーであり、監督であり、脚本の原案作家であり、しかも主演俳優でもある。それが私たちを救うための神の物語のエンドロールに出てきます。人は、その御計画に沿って与えられた役割を果たします。原案の脚本を書き出して人に読ませ、音楽や照明を担当し、脇役として舞台を支えます。そして神の物語が単なる創作話ではなく、観客であり読者であり鑑賞者でもある私たちをただ楽しませるだけでもなく、真に生かし救うために実現した物語であることを知って感謝と讃美を献げる者へとならせてくださるのです。この神による救いの物語は、ただ読んで楽しみ、感想を言うためではなく、ましてや批評や評論をするためでもありません。評論家になるのが最もいけません。神のなさったこと、神が語られた物語にいろいろ文句をつけ、注文を付けるなど、分を超えた出過ぎた真似も甚だしいものです。私たちはそうであってはなりません。

 そこに描かれた救い主イエス・キリストによる、私たちのための救いの物語を味わい、それは私のためだったのだと知って喜び、感謝し、神を讃美するための物語です。そこでの教えは確実であり、ルカが順序正しく書いたと言っているように、筋道が明確で、理にかなっているものなのです。神の物語は救い主の誕生とその御業に関する話だけではなく、天地創造から始まり、人の堕落と罪による悲惨、そこから人を救おうとされる愛と憐れみと慈しみと知恵をもって摂理の御業によってすべてを導いて来られ、これからも導き、栄光の神の国の完成をもたらす神の物語です。聖書には既に起こった物語が書き連ねてありますが、これからさらに書かれて行く物語もあります。私たちもその途上にあります。この壮大な神による救いの物語に私たちも出演させていただいているのです。それは脇役どころか端役、通行人かもしれませんが、ただ読者や鑑賞者で終わるのではなく、しかしどんなに小さな者でも、神のエンドロールには名前が書き記されています。それをより良く知るために、この福音書を通して、神の御子イエス・キリストによってもたらされた救いの物語をよく読み、味わいましょう。自分の力ではどうしようもない、罪と死と滅びからの救いを与えてくださる神の物語です。そして感謝と讃美へと向かわせていただき、ザカリアがしばらくできなかった、口を開いて神をほめたたえるという素晴らしい恵みにあずからせていただきましょう。

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