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「学び、働くのは何のため?」 2023.5.7
創世記 1章27節~2章17節

 4月は年度変わりということがあり、新たな思いをもって新しい環境に入って行かれた方は、特に若い方々には多いと思います。そういう年代でなくても、新年度を迎えていろいろな変化を迎える時期ですから、改めて自分の仕事などについて思いを巡らす方もあるかもしれません。 何のために勉強するのか  小学校に入ると、学校でいろいろな勉強を始めます。国語、算数、理科、社会、図工、体育、音楽といろいろな科目ごとに教科書や道具が与えられて新鮮な思いを抱くものかもしれません。低学年の頃は、ただ授業ごとにその科目のことをとにかく学んで行ったという印象がありますが、段々高学年になると、なぜ人は勉強するのか、という思いを抱くようになってきた覚えがあります。しかし、授業としては、なぜ人は勉強するのか、ということについての科目はなかったと思います。とにかく国語や算数を学んでいく、というだけだったように思います。しかし6生の時、担任の先生が「何のために勉強すると思うか」という問いかけをされたのを覚えています。クラスの子たちが何と答えたかは覚えていませんが、先生の答えとしては、「自分のため」というものでした。その時、私はその意味があまり良く分からず、その答えはずっと記憶に留まっていて、折に触れて思い出していたのでした。学ぶのは、色々なことを見に着けて人のため、社会のために役立つようにするためではないか、と思ったこともありました。後に、「自分のため」という答えは、自分がこの社会の中で生きていくために必要な知識や技能を身に着けていかないと、結局何もできないから、そのために学ぶのであって、それは結局自分のためだ、という意味なのだろうな、という自分なりの結論に至ったことを覚えています。  ところで、聖書には人は何のために勉強するのか、という問いはそのままの形ではありません。しかし箴言という言わば格言集の初めのところにその目的を掲げて次のように書いています。「未熟な者に熟慮を教え、若者に知識と慎重さを与えるため」と(1章4節)。これは、若者にはある知識と熟慮すること、慎重であることが必要である、ということを示しているものではあります。それで、今日はこの箇所ではなく、人間がどういうものであるか、ということを教えている聖書の言葉から学びたいと思っています。 2.天地創造の時の神の命令  聖書の最初に置

「真理とは何か」 2023.4.30
ヨハネによる福音書 18章28~38節

 救い主イエス・キリストは、大祭司の屋敷で尋問を受け、そして今度はローマ総督の官邸に連れて行かれました。そこで裁判を受けるためです。朗読された中にありましたように、当時のユダヤはローマ帝国によって人を死刑にする権限を奪われていました。それで人々はイエスを総督の官邸に連れてきたのです。今日は、そこでも総督ピラトと、主イエスの対話によって、ピラトがイエスに問いかけた、「真理とは何か」という言葉から、私たちの聞くべき神の御言葉を聞きましょう。 1.どういう罪でイエスを訴えるのか  ローマ総督ピラトは、ユダヤ人たちの所に来て、どういう罪でこの男を訴えるのか、と問いました。ピラトは割と冷静にこの度のことを見ていて、これがユダヤ人たちの宗教上の問題である、ということに気づいていましたので、自分たちの律法に従って裁け、と言うのでした。ユダヤ人の指導者たちは、御自分を神の子であり、神のもとから来たと証ししているイエスを死刑にしたいのですが、死刑にする権限がないので、ローマ総督に訴え、裁判にかけてもらい、そうして有罪判決を勝ち取って死刑にしたかったのです。彼らの意図についてはこの後、19章で示されます。  今日の箇所で分かることは、ユダヤ人たちが人を死刑にする権限がない、と言ったことによって、イエスがどのような死を遂げるかを自ら言われた言葉が実現する、という点です(32節)。このヨハネによる福音書では、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、自分も上げられる、と言われたことが書かれています(3章14節)。マタイによる福音書によれば、イエスは異邦人に引き渡され、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられることをはっきりと予告しておられます(20章19節)。ローマの処刑方法で最も厳しいものが十字架刑で、これは一般市民には適用されず、奴隷などの、しかも極悪な犯罪人に適用されるものです。ユダヤの指導者たちはイエスを何とかそのように処刑したかったのでした。ピラトのもとで裁判を受けることによってそれを実現しようとしたのです。そして十字架にかけられることは木に架けられることで、イスラエルの律法によれば木に架けられた者は神に呪われた者だからです。 2.イエスの国はこの世に属していない  実はピラトはユダヤの祭司長たちがイエスを自分のもとに連れて来たのは、妬みのためである、と気づいていました(マ