「神は救うことができる」 2023.7.23
マタイによる福音書 19章16~30節

 人の命とは一体何なのだろうか。この問いは、大昔から人が考えて来たことでしょう。それを考えるということが、人間を外の動物たちから区別している点だ、ということもできると思います。今日は、一人の青年が主イエスのもとにやって来て質問をしたお話ですが、ここには、聖書の教えの本当に重要な点が教えられています。


1.金持ちの青年の質問

 ここに登場する青年は、ただ命について、というだけではなくて、永遠の命について主イエスに質問しました。命についてだけではなく、永遠の命について答えられる人などいるでしょうか。いないはずです。なぜなら、人はみな、自分で命を造り出せませんし、命を生み出す力がないことを知っているからです。しかしこの青年は、近頃のイエスのうわさを聞いていたでしょうし、この方ならきっと他の人とは違う何か素晴らしい示唆を与えてくれると思ったのではないでしょうか。この青年は金持ちであったとありますから、生活には不自由せず、裕福に自由に暮らしていたのでしょう。そして、ユダヤ人として、神の律法を学んできたので、神が教えておられることもそれなりに分かっていたはずです。しかし彼は何か足りないと感じていたのでした。神を信じて生きてきたが、それで自分は永遠の命を得られるのだろうか、今のままで良いのだろうか、もっと何かをしなければいけないのではないか、と。

 そもそも、永遠の命、永遠の救い、については、旧約聖書では例えばイザヤ書45章17節、「イスラエルは主によって救われる。それはとこしえに続く救い」という言葉があります。永遠の命につながる言葉です。もっとはっきりしているのは、ダニエル書12章2節にある、「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」という言葉です。ちなみにここでの永遠と永久は同じ言葉です。このような預言の言葉がありますから、聖書の言葉を信じる人たちが永遠の生命に入りたいと願うのは、当然と言えるでしょう。入れない者の恥と憎悪について書かれていればなおさらです。

旧約聖書に収められていない外典(新共同訳では続編)には、殉教しようとしているユダヤ人のことが記されており、拷問をしている相手に「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ」と力強く語る様子が描かれています(Ⅱマカバイ7章9節)。こういった記事をユダヤの人々は知っていますから、金持ちの青年の質問もでてくるわけです。


2.もし完全になりたいのなら

 主イエスは、どんな善いことをすればよいのか、と聞いてきた青年に対して、善いことについて私に尋ねるのはなぜかと聞き返します。しかしイエスは青年の答えを期待していません。この問題について聞こうとしている相手のことをどれだけわかっているか、と言いたかったのです。主イエスはそれに答えることができるお方です。そして命を得たいなら、掟を守れと言われました。しかし青年はどの掟かと聞き返します。主イエスは丁寧に、十戒の掟を列挙されました。第6、7、8、9、5戒の順です。最後の、「隣人を自分のように愛しなさい」はレビ記19章18節です。主なる神はレビ記18章5節で、「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」と語っておられますから、主イエスが言われたことは、この青年は既に知っているはずのことでした。

 しかしこの青年は、そういうことはみな守ってきたのだけれども、まだ何か欠けている、と感じていました。まずこの青年が「そういうことはみな守ってきました」と言った言葉が問題です。主イエスはその点を見逃しませんでした。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と。

 つまり、この青年がそういうことはみな守ってきた、というけれども、本当にそうなのかを青年自らが問い直すべきことを示されたのでした。十戒等に記されている隣人愛の教えをみな守ってきました、などと簡単に言い切ることはできないのだ、と。隣人を自分のように愛すると言っても、文字通りの人殺しをせず、盗まず、姦淫せず、偽証せず、父母を敬って、隣人を自分のように愛していると思っていても、実は隣人を愛することはそれで全うできているわけではない、つまり「青年よ、あなたはまだ完全に掟を守っているとは言えないのだ」と。持ち物を売り払ってまで隣人を愛するかと。この青年は金持ちで裕福でしたから、ある程度の施しをしていたでしょう。それでも、自分の暮らしには大して影響のない範囲で施していたのかもしれません。あるいは、父母を敬うことも、それなりに子どもとして両親を敬い、服従し、必要なら世話もしていたでしょう。そして自分は立派に父母を敬っている、と自覚していたでしょう。もちろん殺人など犯したことはなく、金持ちですから、人から盗む必要など全くないわけで、盗みを働いたことなどなかったでしょう。しかし殺すな、という戒めは、裏を返せば「生かしなさい」という戒めです。誰か隣人が本当によく生きられるように命を守るために愛するか、ということです。人は自分のためならば少しでも良いものが得られるように考え知恵を尽くし、より快適に過ごせるようにします。自分が不当な扱いを受けたら、それについて抗議したり、忠告したり、抵抗したりするもするでしょう。一寸痛い所があり、辛いことがあるなら、少しでも楽な状態になるように努めます。しかしそれを同じように隣人に対してしているでしょうか。

 この青年は金持ちでしたから、何でも必要なものは手に入れられたでしょう。では、貧しい隣人に対して自分と同じように何不自由ない生活ができるようにしてあげられるか。そこまでして隣人を愛するか、と主イエスは問われたのでした。それは天につまり神の前に富を積むことで、その上で主イエスに従うことも付け加えられました。それでやっと完全になれる、と。主イエスはこの青年が金持ちだったからこそ、持ち物を売り払って貧しい人に施しなさい、と言われました。しかし金持ちでなくても、持ち物を売り払って貧しい人に施しなさいと言われてそれを実行できるでしょうか。仮にできたとしても今度は他の点で不完全な面が現れます。ですから主イエスは、売り払って施すという一つのことにより、人は神の掟をみな守っていますなどということはできないのだ、と示されたのです。


  3.人間にはできないが、神にはできる

 この青年は悲しみながら立ち去ってしまいました。自分にはそれは出来ないことがわかって、それでは自分は永遠の命を得られないと悲観したからでした。主イエスはそれを見て、金持ちが天の国に入るのは難しい、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい、と言われます。つまり不可能だと言うのです。金持ちは財産に対する執着がより強いという面があるからでしょう。弟子たちから見れば、金持ちは神様から祝福されて多くのものを与えられているのだと思いますから、では一体誰が救われるのだろうか、と言うのでした。私たちの多くの人は金持ちではないと言えるでしょう。しかし金持ちでなくても、誰一人として自分の行った善いわざによって自分を救い得る人はいないのです。

 しかし、神にはそれができると主イエスは言われました。ペトロは何もかも捨ててイエスに従ってきたので、では何がいただけるのかと聞きます。この後の主イエスの御言葉は、イエスに従ってきたかどうか、という点だけが問題になっています。家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑など、この世で受けられるおよそ大事な、手放したくないものが挙げられました。しかしそれを捨てると言っても、主イエスの名のために、です。つまり主イエスという神の御子、救い主キリストとして世に来られた方を主と信じ、その後に従い、それを最も大事なこととして従うかです。しかしこれも、イエスに従うことを代償として考えて、自分の大事なものを捨てて従ってきたのだから、その報酬として永遠の命を受けられるはずだ、という考えには注意しなければなりません。主イエスを自分の主と仰ぐことは、主イエスを自分の救いのために利用することではありません。本当に自分のために十字架で救いを与えてくださる救い主として受け入れ、愛し、主イエスにつながることなのです。この方に勝るものはない、と信じて結びつくことです。

 最後に、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という格言のような御言葉が語られます。これは、20章16節にも同じ言葉があるように、この後のぶどう園の労働者のたとえで説き明かされます。たくさん働いた人も、そうでない人も、ただ一方的な、主なる神の御好意によって救いの恵みにあずかるのであって、人の善い業や、働きの多さとか、そういったものにはよらないことを示しています。ひとえに、ぶどう園に招き入れてくださった神の恵みによるのです。私たちも、この主イエスの御名のゆえに、その恵みにより頼むなら、永遠の命にあずかることができるのです。では、善い業、善い行いなど全く無意味なのでしょうか。それは私たちを救うことはできませんが、善い行いをすることで、この世で神の報いにあずかることはできます。そして、永遠の命をいただいたなら、自分雄不完全さ、未だ足りない善い業を自覚しながらも、救いの恵みに与った者として、改めて善い業を行う者へと生まれ変わらせていただけます。それは神が私たちを救ってくださった結果として起こることなのです。

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