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「神の家を思って生きる」2020.1.5
 ヨハネによる福音書 2章13~25節

今年最初の主の日を迎えました。主イエス・キリストの御名のもとに私たちを集めてくださって、主を礼拝する民としてくださっている、主なる神に心からの感謝をささげ、御言葉に聞きたいと思います。主イエス・キリストは、ガリラヤのカナの婚宴の会場で、水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われ、その栄光を現されました。今日の朗読箇所はその後にイエスがエルサレムへ上って行かれた時のことです。ここでの出来事は、今日の私たちが今こうして礼拝を献げている理由、そして根拠が示されています。そしてそれについての主イエスの御心が明らかにされています。 1.商人たちを追い出すイエス  過ぎ越し祭りが近づき、イエスは神殿に上って行かれました。大勢の人たちが神殿の庭に集まっており、ごった返してしていたものと思われます。エルサレム神殿には庭がいくつかありました。一番東側にソロモンの廊があり、イエスもここを歩かれたことがありました。その西側に一番広い異邦人の庭があり、さらにその内側に小さな婦人の庭があり、その西側に祭壇、聖所と至聖所がありました。動物たちは犠牲を献げるためのもので、異邦人の庭で商人たちが売っていました。献げ物にするものは、何でもよいわけではなかったので、祭司たちが検査をしており、外で買ったものは拒否されたということです。それで礼拝に来た人たちは神殿の境内で売られている動物を飼わねばなりませんでした。それは神殿の外で買うものよりも格段に高く売られていました。商売人にとってはおいしい仕事です。献金も、ユダヤのシェケル貨幣でしなければなりませんでした。ローマやギリシャ貨幣を持っている人は、両替の必要があります。その両替人は、手数料を取って両替していたのでした。両替人も儲けることができます。  この時の出来事を通常、イエスの宮きよめ、と言います。ヨハネによる福音書ではイエスの公生涯の割と初めの方に出てきます。しかしほかの福音書では、終わり近く、イエスが捕らえられる時が近づいてきた段階でなされたこととして書かれています。そしてこのことがイエスに従わない指導者たちがイエスを殺そうと考え始める動機となったことがマルコとルカの福音書に記されています。そして、このようなことは、イエスの約3年の公の生活において何度もなしえなかったことだと思います。ですから、福音書を書いたヨハネが、この出来事を始めの方にお

元旦礼拝「救いが実を結ぶように」2020.1.1
 イザヤ書 45章1~13節

 新たな年を迎えました。天地創造により、あらゆるものが形を現わしました。神の形に似せて造られた人間は、特年を数え、年月を数えながら生きています。この年月も、神が造られた天体の動きによって数えています。1年間という単位も、地球が太陽の周りを1周する期間を1年としているからで、その意味で私たちは天体とつながりをもって生きています。地球は地軸が傾いていますから季節の変化があり、夜空の星の動きも1年で移り変わっていくので、1年365日という単位を見出した昔の人々は大したものだと思います。しかしそれらもすべて神の御手のなせる業です。ほんの一寸地球の回転軸を傾けることによって季節の変化をお造りになった神の知恵はなんとすばらしいものでしょう。その大いなる神の御力と知恵の素晴らしさを私たちはどれだけ本当に知っているでしょうか。そのことを今日の御言葉は改めて私たちに顧みさせてくれています。 1.神は光も闇も創造された さて、イザヤ書に目を向けましょう。ここで預言者イザヤは紀元前6世紀のペルシャの王キュロスについて述べています。私たちには別に何も関係ないのではないか、と思えてしまいます。このイザヤ書は前半と後半で、どうも歴史的背景が違うのではないかということで、昔から多くの議論がなされてきました。正月早々、聖書学的な難しい問題をお話しするつもりもありませんが、ただ言えることは、神は長い人間の歴史の中で、御自身が我々人間にお語りになりたいことを、いろいろな時にいろいろな人の手と口を介してお語りになってきたということです。時には遠い将来のことも、私たち人間がまだ存在していなかった天地創造の時のことも、含んでいます。私たちに必要なのは、聖書において明らかにされている神の御言葉をよく聞いて、へりくだって神を知ること、神の御心を悟ること、そして信じ従うことです。そのために聖書は神から私たちに与えられています。この御言葉は、その時のキュロスについてだけではなく、今日の私たちに対しても親しく告げられているのです。 今日朗読しました箇所の中で、私たちの目を引く言葉はいろいろあるかもしれませんが、特に7節は非常に重要です。神は光を造り、平和を創造されるだけではなく、闇も、災いも創造されるというのです。これは私たちの心の中に、穏やかならざる風を吹かせるものではないでしょうか。単純に言って人が神を求

「私はいつも主に目を注ぐ」2019.12.29
 詩編 25編1~22節

 私たちは12月にクリスマスを迎えて救い主の御降誕を祝い、そして年末となり、新年を迎えます。このことは地上に生きている限りは毎年続きます。子供の頃は、クリスマスや年末、正月が楽しみで何となくうきうきした気がします。しかし年を重ねてくると、うきうきするようなことばかりではない、ということもわかってきます。もちろん子供の頃でも、良い思い出ばかりではない、という方もいることと思います。年末に大病をした、とか家族が亡くなった、とか経済的にぎりぎりでしのいでいた、などということもあったかもしれません。毎年繰り返すけれども、毎年何かは違います。そして確実に地上の歩みの日は短くなり、天の御国が近づいてくるのです。しかし、慌しい年末を過ごすのに、天を仰いでばかりもいられない、というのが私たちの現実なのかもしれません。確かに、神を信じて生きる者は、この世でただ天国に憧れてそれを待ち望むだけではなくて、この世を神の御国を憧れながらしかも周りのことにも目を注いでおり、しかも決して主から目を逸らさないでいる。そういう歩みへと招かれているのであります。今日は今年最後の主の日に当たり、この詩編25編で教えられていることに心を留めたいと思います。 1.詩の形式と歌われる内容 この詩には、「敵」(2、19節)とか「いたずらに人を欺く者」(3節)、「不法を仕掛ける者」(19節)が出てきます。また、自分の「若いときの罪と背き」について述べています。さらに「恥」、「悩む心」、「痛み」、「貧しさ」、「労苦」、「苦難」という言葉も出てきます。これらを合わせてみると、作者はどうも平穏無事な状況には置かれていない、ということがわかります。つまり、外にも、自分自身の中にも、自分の過去にも、自分を苦しめて困難な状況に追い込もうとするものがいろいろあるというわけです。しかし最後の行で、イスラエルをすべての苦難から贖ってください、と言っていますから単に個人的な苦しみだけに関心があるのでもない、ということもわかります。 また、この詩は(アルファベットによる詩)と冒頭に書いてありますように、「いろは数え歌」のようなものです。各節の頭の文字が、順番にヘブライ語のアルファベットに並んでいるのです。詩編の中に箱のようなアルファベットによる詩がいくつかあります。ヘブライ語のアルファベットは22文字あります。この詩はちょうど

「私は救い主を見た」2019.12.22
  ルカによる福音書 2章22~38節

今日は、私たちの救い主イエス・キリストの誕生、すなわち御降誕を祝い記念するクリスマス礼拝です。今、「私たちの救い主」と言いました。この中に、まだ信じてはいないという方がおられたとしても、「私たちの」という言葉をつけて私は言います。聖書には、この世界には私たちが救われるために、「イエス・キリスト」という方以外には与えられていない、と書いてあります(使徒言行録4章12節)。イエスが12月25日に生まれたかどうかというのは、定かではありません。しかし、その日を特定して祝うよりも、神の御子、救い主が私たちのためにこの世に来てくださった、ということが重要なのです。今日は、先ほど朗読したルカによる福音書から、エルサレム神殿で生まれたばかりのイエスに出会った二人の人にまつわるお話です。この二人というのは、シメオンとアンナ、という男女二人です。アンナは84歳と年齢が書いてありますが、シメオンについては書いてありません。しかし、彼の言葉からすると、やはり年老いていた人であったことがわかります。イエスを見て、今こそ自分は安らかにこの世を去れる、と言っていますから、それなりの高齢者であったことが伺われます。 1.神の慰めを待ち望んでいたシメオン  シメオンは正しく、信仰があつい人でした。イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた、とあります。というのは、このイスラエルは、神による慰めを必要としていたからでした。イスラエルはもともと王国であり、その王の中では特にダビデ王が有名で、その子孫から、とこしえにイスラエル=神の民を治める王が出る、と古くから預言されていました。しかし、このイエスがお生まれになった時代には、イスラエルは没落していまして、王の一族は一般庶民の中に埋没している状態でした。しかし、系図はしっかり残っていましたので、ダビデの子孫は庶民の中に生き残っておりました。国はローマ帝国に支配されており、王はいましたがローマ帝国のもとで認められていた領主という立場であり、いろいろな制限を与えられていました。  そういう中ではありましたが、預言者たちの告げた言葉によると、神の民であるイスラエルは必ず回復される、その国を建てる王なるメシア=キリスト、つまり救い主が到来すると人々は信じて期待していたのです。人々が一般的に期待していたのは、ダビデのように、文字通り国を支配して権勢を振るう地上

「見よ、救い主が生まれた」2019.12.15
マタイによる福音書 1章18~25節

 クリスマスはなぜあちらこちらの国々で多くの人々によって祝われるのでしょう。特に欧米諸国ではクリスマスは大変盛大に祝われます。伝統的にキリスト教の国が多いですから、本当にイエス・キリストの誕生を祝う気持ちで過ごす人もそれなりに多いかもしれません。少なくとも日本よりはそうだと思います。日本では、殆ど単なる商業ベースに乗っかったお祭りごとになっていて、クリスマスプレゼントとケーキとごちそうによってパーティーを行って楽しむ時、となっているように見えます。最近ではハロウィンもですが、日本人は外国のものを取り入れて自分流のものにしてしまうのが得意ですから、このようになりやすいのでしょう。そういう国に生きている私たちですが、今日は、聖書を前にしています。今日は金城学院高等学校のハンドベルクワイアの皆さんも、午後からのコンサートを前に礼拝から出席してくださっています。日頃聖書のお話を聞いておられる高校生の皆さんにとっては、聖書の教えと、一般の世の中でのクリスマスの祝い方のギャップを感じておられるかもしれません。今日は、神がくださった聖書が教えているクリスマスの出来事について、改めてその教えに聞きましょう。 1. イエスの母マリアと、その夫ヨセフ  先ほど朗読した箇所には、イエス・キリストの母となるマリアが、婚約者であるヨセフと一緒になる前に聖霊によって身ごもった、というお話が書かれていました。今日、結婚しようとしている男女が、結婚する前に関係をもってしまう、ということが普通に語られる時代になっています。芸能人同士の結婚などでも、出来ちゃった婚などという言い方がされて、結婚前に妊娠していても当たり前みたいな風潮があります。それに異を唱えたりすると、古いとか言われそうですが、やはりそうではありません。人間には、神の定められた結婚という制度があり、一組の男女が夫婦となり、そして子を産み育てるようにされています。子どもの生まれない夫婦もありますが、子どもがいてもいなくても、その二人は結婚という形で契約を結んで生きていくものなのです。このような観念がないと、好きになった男女が関係を持ったとしても、子どもができなければそれでいいじゃない、という考え方になってしまいます。  先ほどのマリアとヨセフは、婚約していましたが、まだ一緒に暮らしていませんでした。「二人が一緒になる前に」というこ

「神の熱意が我らを救う」2019.12.8
  イザヤ書 8章16~9章6節

 今年もイエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスを控え、先週の日曜日より、待降節(アドベント)に入りました。今日は旧約聖書イザヤ書の、メシア預言と言われている箇所から、私たちの救い主が与えられる、という神からの恵みを告げ知らせた預言者イザヤの言葉に聞きましょう。 1. 暗闇の時代の中で このイザヤの時代は、紀元前8世紀です。今とは比べ物にならないほどに科学も文明も、医学も進んでおらず、しかも世界的に現在のような国際連合のようなものがあるわけでもなく、強大な国が力を振るっては、また別の国々が覇権を競って戦いを繰り返す。そんな時代でした。今日と同様に国と国が同盟を結んで、他の国々に対抗する、ということはしばしば行われていました。始終あちらこちらで戦いがあり、領土を奪ったり奪われたり、を繰り返していました。支配者が次々変わり、今の生活がいつどうなるかわからないような状態でした。そのように戦いが始終繰り広げられていれば、人々の暮らしにも大きな影響が出てきます。 ただでさえ、今日よりも病気とそれがもたらす死に対する恐れは、今日よりも大きかったのではないでしょうか。人が死ぬべきものであることは昔も今日も同じではありますが、この、紀元前の時代、医者はいたとしても、今日のように設備があるわけでもないですから、重大な病を発症したりすれば、すぐに死に直面しなければならなかったことでしょう。今のように救急車を呼んで、大きな病院ですぐに手術をして命を取り留めてもらえるなどということは、期待できないのですから。 そういうわけで、特に小国イスラエルにとっては、大波に翻弄されるような時代であり、人々は暗闇の中にいるというのが実情でした。だからこそ「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放、今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」(22、23節)とまで言われるのです。なんと悲惨なことでしょうか。 2. 一人のみどりごが生まれる  しかし、それほど悲惨な、暗闇の中にいる、と言われる民に光が輝いたのです。この箇所を読むと、この時代に既に光が輝いており、特に五節にあるように、一人のみどりごは既に生まれているように見えます。そして今、成長しつつあるように記されています。このみどりごは一体誰なのでしょうか。このイザヤの預言を読んだ人々は、歴史上、いったい誰にこれが当てはまるだ

「イエスは栄光を現された」2019.12.1
 ヨハネによる福音書 2章1~12節

今日からキリスト教会の暦では、待降節に入ります。アドベントとも言います。アドベントとは「到来、出現」という意味がありますが、特に重要な人物の到来とか、重要な出来事が起こることを指します。キリスト教会では古来11月30日に最も近い日曜日から始まるとされてきました。12月を迎えて、特に慌しさを感じ始めるこの時季ですが、改めて救い主イエス・キリストがこの世にお生まれになったこと、つまり神の御子の御降誕について、改めてその意味を学び、それ思い巡らす時としたいと思います。今日の礼拝では、10月まで続けてお話ししておりましたヨハネによる福音書の続きの箇所から、救い主イエス・キリストというお方について、聖書の教えに聞きたいと願っています。 1.カナの婚礼での出来事  カナという村は、ガリラヤ湖の西方20キロメートル程の所にあり、イエスがお育ちになったナザレという村の北方15キロメートルにあります。イエスの母マリアは、その婚礼で何かの役目を担う立場にあったようです。ユダヤの結婚式は、一週間ほど宴が続くということです。イエスと弟子たちも招かれておりました。ところがぶどう酒がなくなってしまったのでした。ぶどう酒が途中でなくなってしまうのは、新郎新婦にとって不面目なことでした。  イエスの母マリアは、そのことをイエスに伝えます。彼女がそれを伝えた意図はよくわかりません。しかし、5節のマリアの言葉からすると、やはりイエスに何かを期待していたとみることができます。イエスは初め、マリアからぶどう酒がなくなったことを告げられたとき、ちょっと聞くと母のマリアに冷たい対応をしているようにも見受けられます。まずイエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と言っています。普通、母親にこのような呼び方はしません。敵意や無礼さを表わす言い方ではないのですが、もうここでは公の宣教活動に入られた、イエスと母マリアとの関係はいわば新しい関係に入っているといえます。また、「わたしとどんなかかわりがあるのです」という言葉は、「私とあなたは何か」という言い方です。ここで注目すべきは、「わたしの時はまだ来ていません」という言葉です。  このヨハネによる福音書では、特に「イエスの時」ということについて、後でも出てきます(7章6、8、30節、8章20節)。この7章、8章では、「わたしの時はまだ来ていない」