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「自分の命を失うか、救うか」  2017.9.10
マルコによる福音書 8章31節~9章1節

 私たちは、物心がついて、自分という存在を自覚するようになります。気がついた時には自分という存在がいて、人間として生活しており、自分の命というものがある、ということを知ります。そして人はやがて死ぬ、ということも知る。さらに進めば、人ななぜ生きているのだろうか、と問い、死んだあとはどうなるのだろうか、ということも考えるようになります。そのような私たちの命について、神の御言葉である聖書は、はっきりと語っております。今日は、特に主イエスが命、そして救いについて語っておられる御言葉が私たちに与えられております。 1.定められているイエスの御業  私たちの命と救いについて考えるためには、イエスとはどういう方なのか、そしてイエスと自分との関係を知る必要があります。それを抜きにして、私たちの命と救いについて語ることはできません。  主イエスは人の子(イエスがご自分のことを言う時の言い方)は必ず多くの苦しみを受け、排斥され、殺され、そして復活する、と予告されました。それをはっきりと語られました。これはあからさまに、公然と、という表現です。言葉としても明確に、しかも誰に対しても明らかに、公にということです。そのくらい、このことはイエスにとっては、定められている確実なことなのです。特に、「三日の後に復活することになっている」と言われました。何々することになっている、というのは復活に至る一つ一つのことすべてを含みます。この世で起こるいろいろな出来事は、人の思いや、事の成り行き、時には群衆の行動、自然現象や偶然に見えることなどもなども絡み合って起こります。ましてや、非常に特別なこととなれば、単に一人の人間の考えだけでは到底起こり得ないものです。しかしイエスは、ご自身についてこれから起ころうとしていることが、何々することになっている、という言い方で断言されます。それは神によって定められているからです。すべてを造り、御心のままに治めておられる神がお定めになったことでなければ、イエスの上に起こるはずもありません。  このように主イエスがお語りになると、ペトロがイエスを脇へお連れしていさめ始めました。ペトロは、少し前の29節で、イエスから、「わたしを何者だと思うのか」と聞かれた時に、「あなたは、メシアです」と正しい答えをしたばかりでした。しかしイエスがそれを誰にも話さないようにと戒められ

「メシアの偉大な御業を見よ」 2017.9.3
 マルコによる福音書 8章22~30節

 神の御子、救い主イエス・キリストは、御自身のことを弟子たちや人々に対して、いろいろな御業と御言葉によって示しておられました。しかし、なかなか、このイエスというお方を正しく理解できなかったのが弟子たちと人々の現実でした。今日の朗読箇所においても、イエスはご自身のことを証しする御業をなさいましたが、同時にそれをまだ十分には理解できていない弟子たちの姿も見られるのです。このようなことを通して、今日の私たちもまた、主イエスのことをどれだけ正しく理解しているのか、悟っているのか、と問われています。そして、今日の朗読箇所の最後の方で主イエスが言われた、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(29節)という御言葉は、私たちの人生観・世界観を決定づけるものであることを知らされるのです。 1.ベトサイダでの盲人のいやし  主イエスは、ベトサイダで盲人を癒されました。この出来事は、マルコだけが伝えているお話です。そして、この話は、21節までに書かれていた弟子たちの無理解と、27節以下のペトロの信仰告白と言われている話との間に挟まれていますが、その二つの出来事とも深くつながっている話なのです。  このベトサイダでの盲人の癒しは、イエスがなさった癒しの御業の中で、他のとは違う特徴があります。イエスが二段階にわたって癒しをなさったことです。まず盲人の目に唾をつけ両手をその人の上に置いて「何か見えるか」と尋ねられます。すると盲人は少し見えるようになって、歩いている人が木のように見える状態にまで視力が回復します。するとイエスが今度は両手をその人の目に当てられると良く見えるようになって、何でもはっきり見えるようになったのでした。イエスのなさった一つ一つのことの意味をいちいち何かの意味に当てはめることはする必要がないと思いますが、ここでの出来事は、ある面を示しているように見えます。最初にイエスが盲人の目に触れた時には、まだはっきりとは見えていませんでした。人が、木のように見えて、歩いているのはわかる、という程度でした。このことは、イエスご自身の姿を見ていて、イエスのなさることを見てはいるのだけれども、まだはっきりとは見えていない。弟子たちはまさにそのような状態にあった、と言えるのではないでしょうか。あまり深読みをすることは避けるべきですが、この間に挟まれた盲人の癒しの御業は、まだはっきり

「主の再臨を待ち望む」 2017.8.27
フィリピの信徒への手紙 3章12~4章1節

 私たちのキリスト教信仰において、信者でない方々がなかなかすぐには受け入れられない教えがいくつかあるのではないかと思います。その最たるものは、主イエス・キリストの復活と言えるでしょう。実際、使徒パウロがギリシャのアテネで宣教したときも、彼はイエスと復活について福音を告げ知らせていました。 しかし彼の宣教の言葉を聞いた人々の内、信仰に入った人も何人かはいたのですが、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」のでした(使徒言行録17章32節)。イエス・キリストの復活そのものと、さらにイエスを信じる者にも復活の体が与えられる、と聖書は教えているのですから、復活の教えは二重に人々が信じにくい面を持っていると言えるのではないでしょうか。そして、もう一つのなかなか受け入れられにくい教えは、キリストの再臨ではないかと思います。復活されたキリストが天におられ、そして世の終わりの時にもう一度この世に来られる。これは、現代文明の中に生きる人々にとっては、大きなつまずきとなることでしょう。もしかすると、復活よりも信じにくいことかもしれません。というのもキリストの再臨というのは、全世界の秩序にも大きく関わってくるからです。私たちが目に見ているこの世界の秩序が全く覆される、という面があるからです。このような再臨、という教えを今日私たちは聞こうとしています。 1.再臨の約束 再臨とは何か、またなぜこれが問題となるのでしょうか。再臨は主イエス・キリストが自ら約束されたことですから、主を信じる人は心からそれを待ち望みます。主イエスは言われました。世の終わりの前兆として、キリストの名を名乗る者が大勢現れ、自分がキリストだと言って多くの人を惑わします。そして世界中が敵対し、方々に地震や飢饉が起こります(マルコ13章3節以下)。 しかし、そのような世の終わりの時が来る前に、福音があらゆる民に宣べ伝えられるとも言われました(同13章10節)。そして、主御自身の再臨についてはっきりと約束されました。太陽、月、星が光を放たなくなり、その他天体が揺り動かされる、という世の終わりの時に、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで