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「来て、見なさい」2019.10.13
 ヨハネによる福音書 1章43~51節

百聞は一見に如かず、と言われます。繰り返し人の話を聞いているよりも、自分で見て確かめた方がよくわかる、ということです。どんなに素晴らしい景色か、ということはいくら口で説明して描写しても、一度目で見てみなければわからない、ということなどは、多くの人が経験していることかもしれません。景色などの場合、たくさんの情報があり、色や形、配置など多くのことを伝えねばなりませんし、どれだけ詳しく伝えても、その美しい景色を見たままのように伝えることは不可能です。では人の場合はどうでしょうか。人の場合も見た目の背格好、顔の作り、雰囲気などいろいろなものを言葉で伝えても、やはり会ってみないとわかりません。たとえ写真を見たとしても、実際に会ってみたら、実物の方がはるかに素敵だった、とか、時にはその逆もあるかもしれません。今、私たちが注目しているのは、一人の人、イエス・キリストです。見た目は全く人間そのものであり、事実正真正銘の人間ですが、同時に神の子でもあられるイエス・キリスト。この方については、言葉でも実にたくさんのことを言うことができます。そして、言葉による証言もとても大事ですが、このイエス・キリストというお方について、今日の私たちもやはり、「来て、見なさい」と言われているのであり、私たちはこのイエスのもとに行って、イエスというお方を見なければなりません。それは、今日の朗読箇所の前のところ、先週の箇所ですが「来なさい、そうすれば分かる」(39節)と言われた主イエスの御言葉と同じことです。今日は、改めてこの御言葉に聞きたいと願っています。 1.わたしに従いなさい  「来なさい、そうすれば分かる」(39節)、と主イエスが言われた御言葉と、今日の朗読箇所の「来て、見なさい」(46節)との違いは何でしょうか。単純に言えば、イエスが言われたか、フィリポが言ったかの違いがあります。イエスは御自身のことを神のもとから来た神の子である、と自覚しておられました。しかし、フィリポはイエスに出会うまでイエスのことを知りませんでした。そんなフィリポにイエスは「わたしに従いなさい」と言われました(43節)。   こんな言葉をいきなり言われて、「はいそうします」という人がいるでしょうか。福音書には、イエスが弟子たちをご自分のもとに招かれるとき、このようにしばしば言われたことが書かれています。福音書は、イエス

「何を求めているのか」2019.10.6
 ヨハネによる福音書 1章35~42節

私たちは、この世に生きている限り何かを求めて生きていると言えるのではないでしょうか。今日の朗読箇所では、そのことについて私たちに問いかけておられる方がいます。イエス・キリストです。イエスが言われた、「何を求めているのか」という言葉には実に深い意味が含まれています。 1.何かを常に求めている人間 私たち人間は、この世に生きて生活していますが、何かを常に求めて生きているのだと言えるでしょう。まず、食べ物、飲み物を求めます。それは、生き続けることを求めているからです。それは私たちにもともと備わっている本能のようなものでしょう。生存本能、などと言われます。それはまた、生き物に「欲」が備わっているからだと言えます。自覚していてもいなくても、生き延びる方へと、生きているものは向かっていくように造られているということです。 そのように、生存本能に関わるようなことは、私たちは無意識の内にもそれを実行に移しています。しかし、動物とは違って、人間は本能だけで生きているわけではありません。なぜ、自分はここにいるのだろうか、とか、何のために生きているのだろうか、とか考えます。動物は、立ち止まって人生の意味を考えたりはしません。だから人間は昔から土地を耕したり、狩猟に出たりして食糧を得て、家を建てて生活していくだけでなく、文化を発達させ、学問研究をするようになってきたのでしょう。物を作るにしても、何にどう使うか、ということも考えてものを生産するようになってきたのだと思います。そして、あらゆる科学が発達してきましたが、同時に哲学のような学問も発達してきました。やはり人間は、ただ食べて飲んで、暮らしていればそれで満足できるようにはできていない、ということの現れでしょう。神がそのように私たち人間を造られたのでした。そうやって何かを常に探求してきた人類ですが、自分が何を求めているのかもよくわからない、ということもあるのではないでしょうか。あなたは何を求めて生まれてきたのですか、と聞かれても答えらえる人はいないでしょう。生まれる前に、自分はこの人生でこれを目的にして生まれるぞ、といって生まれてきた人は普通の人間の中にはいないからです。 何かを求めていることはわかるのだけれども、何を求めているのか、何を求めるべきなのか、どこの誰に求めればよいのか。そういうことすべてを私たちは自分では知らないで

「罪を取り除く神の小羊」2019.9.29
 ヨハネによる福音書 1章29~34節

私たちは、今生きているこの世界のことを、「この世」ということがあります。それは「あの世」との対比で語るからでしょう。いずれにしても「世」というのは人がそこに住んでいる場所なり空間なりを言います。今日の朗読箇所で、洗礼者ヨハネが主イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。この場合の世とは、少なくともあの世のことではありません。ではこの世のことか、というと確かに「あの世」に対する「この世」には違いないのですが、私たちが普段使っている「この世」という意味合いと全く同じかというと、そうでもありません。少し説明が必要です。そしてここで言われている「世」にある「罪」とは何か、という問題も出てきます。そして「神の小羊」とは何か。これらのことを、今日の箇所は私たちに示しています。そしてこれらのことは、今、この世に生きている私たちにとって、とても大事なことを教えております。私たちは、神の小羊に相対するように招かれているのであり、私たちは今、ここにおいてその機会を与えられているのであります。 1.世の罪 先ほど、「この世」についてお話ししましたが、ここで洗礼者ヨハネが言っている「世」とは世間一般とか、この世界のことを言っているのではありません。「世の罪」と言われます。私たちのこの世の生活の中で、何か悪いことが起こったり、誰かが非常に悪質な罪が犯されたりしたとします。すると、罪を犯したその人自身の責任は問われなければなりませんが、同時に、世の中のせいにする、ということがあります。世の中が不公平で、貧富の格差があり、強い者と弱い者がいて、常に弱く貧しい立場の人たちがいます。世の中が悪いから、罪を犯してでも必要なものを手に入れねばならない人たちが出てくる。そういう不公平な、不条理がまかり通っているような世の中が悪いから、犯罪も起こるのだ、ということです。確かに人は、一人ではやらない、あるいはできないようなことを、大勢だとやってしまうということがあります。その最たるものが戦争ではないでしょうか。集団で誰かに暴行を働くというようなことも、大勢だから気が大きくなってやってしまうという面があるのでしょう。1対1なら戦わないのに、3対1なら強気に出て、相手を打ちのめそうとしてしまう。そういう心理が人間の内には確かに働くのだと思います。しかし先ほどの戦争のように、何か抽象的なもの