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「神の前では闇も光となる」2019.9.15
 詩編 139編1~24節

 今日は、この詩編139編から、神のみ言葉に聞きたいと思います。この詩は、神様という方について、またその御業について、非常に力強く、しかも深く語っているものです。そしてとくに、神の御業の一つとして造られ、生かされている私たち人間についても歌っています。そして作者は、自分の心の深いところも見つめながらこの詩を書いています。神様について、ただその真理を正しく深く述べる、というだけではなくて、自分とその神様とのつながりをとても意識しており、またそれを強く願っている作者の気持ちがよく表れてもいるものです。今日は午後に敬老感謝会を行います。75歳以上の方を対象としてお祝いと感謝の時を持ちます。 75歳というと今日では、後期高齢者という部類に入るようですが、今の時代、75歳でも現役という方はおられますし、現役でなくても、まだまだ元気でしゃきっとしておられる方は多いと思います。もちろん個人差がありますから人それぞれですが、ただ言えることは、そのくらいの年齢になってくると、どんなに元気に過ごしておられるとしても、この世での自分の過ごす歳月はあとどのくらいだろうかと自然に考えられるのではないか、ということです。もし人の寿命が一律何十歳ということで決められているとしたらそうでしょう。そのために十分な備えをして従容としてその時を迎えようとするか、それとも日々恐れつつ過ごすか、それともそんなことは忘れて目一杯残りの人生を一日一日楽しもうとするか、いずれかかもしれません。しかし実際は一人一人寿命は違い、健康状態も何もかも違います。そういうことを知っている私たちは、今ここで、神の前にいます。 神がこの世での一生を与えてくださったと信じるものです。そういう、神を信じる信仰者として、この人生をどう受け止め、やがて来る時をどのように迎えようとするか。これはとても大事なことです。先日、私たちは愛する西村鈴子姉を天に送りました。ここ数年の中で、やがて来るその時を信仰を持って迎えようとしておられました。改めてその記念の時を持つとして、私たちもまた、自分の来るべき時を思いめぐらし、今日改めて神の前に、自分のこの世での歩みを顧みる時としたいと思います。しかしそれは、人生を顧みて反省する、というよりも、神が自分に近づいてくださり救い主イエス・キリストを表してくださったことを顧みる、という意味です。そのような

「主の道をまっすぐにせよ」2019.9.8
 ヨハネによる福音書 1章19~28節

ヨハネによる福音書は、ほかのどの福音書記者もしなかったような仕方で、イエス・キリストのことを文書に表しました。ヨハネにとって、自分が約3年間ともに過ごした先生、主、救い主である、と信じたイエス様が、永遠から神として存在しておられたのだ、ということを神から示され、そして自分自身身近に過ごすことで確信してこのように書きました。初めから神と共にあり、神であり、初めに神と共におられた方であると。そしてそのキリストをロゴス、という言葉で示しました。そしてこのロゴス=「言」と言われる方が人としてお生まれになり、私たちの間に宿られたと。こうしてヨハネは神の御子キリストについて、全世界に対して他の誰もしなかった書き方で、神の御子イエス・キリストを証しし始めました。そして、今日朗読した19節以下で、18節で書いたことを展開してゆきます。父なる神の懐にいる独り子である神が、どのように神を示されたのかをいよいよ書いてゆくのです。 1.ヨハネとは一体だれか まず福音書記者のヨハネは、洗礼者ヨハネについて記します。人々は、世に出てきて人々に洗礼を授け始めたヨハネを、もしかしたらこの人がメシア=キリストではないか、と思ったのです。ユダヤの人々は、長年メシア=キリスト、つまり救い主が世に到来してユダヤ人を救ってくださり、イスラエル王国を打ち立ててくださる、と期待していました。今でも期待して待っています。ですから、世に現れて毛衣を着てヨルダン川で人々に洗礼を授けているヨハネはそのメシアかもしれない、と思ったのです。 そこで人々は祭司やレビ人をヨハネに遣わして、ヨハネが誰なのか聞かせました、しかしヨハネは自分からはっきりと自分はメシアではないと公言します。すると彼らは、ではエリヤですか、とかあの預言者ですかとさらに聞いてきます。エリヤは紀元前9世紀に活動した預言者であり、旧約聖書の中でも重要な人物の一人です。旧約聖書の最後の書であるマラキ書に、エリヤが再び来る、と予告されていますのでそう思ったのです(3章23節)。また、「あの預言者」とは、旧約聖書の申命記18章18節で言われている、モーセのような預言者のことです。主はそのものに主の言葉を授ける、と言われました。しかし、ヨハネは、どちらについても違う、と言いました。しかし、後に主イエスは洗礼者ヨハネこそ現れるはずのエリヤだ、と語られました(マ

「恵みと真理が現れた」2019.9.1
 ヨハネによる福音書 1章14~18節

救い主イエス・キリストの弟子の一人だったヨハネは、イエスに選ばれて、12弟子、即ち使徒の内に加えられてその十字架の死を見届けました。そして三日目に墓から復活されたイエスにもお会いして、確かに自分の先生、主と呼んでいた方が生きておられることを知り、多くの人々にイエスのことを教え、教会を指導してきました。ヨハネは、イエスのことを語るだけでなく、書物に残そうとしてこの福音書を書きました。そして、彼はイエスのことを人々によく悟らせるために、ギリシャの世界で用いられるロゴスという言葉を用いました。 ギリシャの哲学者たちはこの言葉を用いて、世界を成り立たせていて、凡ての物に充満するある原理、宇宙の合理的な原理を現そうとしました。しかし、彼らは、このロゴスを原理または力としか考えなかったようで、人格的な者とはみなしていませんでした。ヨハネはこのような言葉を用いて、ギリシャ思想の中で生きている人々が、注意して聞くようにとこの言葉を用いたのだと思われます。しかしギリシャの人々にとっては、神々はこの世界に対して超然としていて、人々の苦しみや悲しみ、喜びに共感するような存在ではなかったのでした。ヨハネは、自分が伝えようとするロゴスなるキリストは、そういうものとは違って、私たち人間の生きるこの世に人としてお生まれになったのだ、ということを語りました。ですから、ヨハネはロゴス、という言葉を用いてはおりますがギリシャ哲学とは異なる意味でロゴスという言葉を用いてイエス・キリストを示そうとしました。そして、その方こそ実に恵みと真理に満ちた方だと言っているのです。 1.言は肉となって宿られた 「言」と呼ばれているお方、イエス・キリストは、ほかのすべての人と同じようにこの世に人として生まれ、私たち人間の世界に宿られました。「宿る」という言葉は、テントに住む、仮小屋住まいをする、という意味があります。旧約聖書の時代、モーセに導かれたイスラエルが荒れ野の旅を続けていた時、神はイスラエルの人々の天幕において、ご自身の栄光を現されました(出エジプト記40章34、35節)。また、主はイスラエルの人々の「ただ中にわたしの住まいを置き、~あなたたちのうちを巡り歩」くと言われたこともありました(レビ記26章11節)。ですから、これまでにも神は人々の内に宿られたことは全くなかったわけではありませんでしたが、それ

「恵みと救いを確信する」2019.8.25
 ヘブライ人への手紙 6章13~20節

 私たちは、神を信じ、救い主イエス・キリストを自分の救い主と信じてここに集っています。未信者の方、求道者の方は、まだそこまでの思いに至っていないかもしれません。しかし、私たちが信仰の道に入ってくると、目には見えないし、キリストが復活されたのを目撃したわけでもないのに、それを信じるようになります。それは、人間として考えるととても不思議なことではあります。そして、信じた者は、その信じた内容が本当である、真実である、と何を根拠にして言うことができるのでしょうか。今日は、この点について、ヘブライ人への手紙の教えから、ウェストミンスター信仰告白の記している所を参照しながら、神の御心を聞き取りたいと願っています。 1.神の約束は確実である 先ほど朗読したヘブライ人への手紙6章では、この手紙の読者のことを、神によって救われた人たちであると認めています。そして、その人々のことを現す、非常に大事な言い方が2回言われています。それは、12節と17節にあります。「約束されたものを受け継ぐ人たち」という言い方です。キリストを、自分の救い主と信じて罪の赦しをいただいた人は、神が約束してくださったあるものを受け継ぐことができます。それは、永遠の命であり、神の国の一員として、神と共に永遠に生きること、つまり神の国を受け継ぐということで、聖書全体が教えています。また、14節で言われているように、それは神の祝福です。抑々、神がある者を祝福してくださるなら、それはもうその人にとって何よりの幸いであって、神の祝福がその人に悪いものをもたらすはずがありませんし、その人にとっては幸福のしるしです。 神はそのようにある者たちを祝福する、とその昔、アブラハムという一人の人物に告げられたのでした(創世記12章1~3節)。それは、アブラハムの子孫を大いに増やす、という具体的な結果をもたらすものでした。アブラハムは大変高齢になるまで子供が生まれず、妻のサラが産む子供ではなくて、養子を迎え入れたり、別の女性によって子供が産まれるようにしたり、いろいろと考えられる手段をとりました。しかし神が考えておられたのは、妻のサラが産む子供が後を継ぐ、と言われたのです。それでアブラハムは25年待って、やっとサラの産んだ息子のイサクを得たのでした。神は、一度約束なさったら、必ずそれをお与えくださいますが、それを人が受けるには、

「主の働きに目を留めよ」2019.8.18
 イザヤ書 5章8~24節

 私たちの信じる主は、天地の主、すべてのものの造り主であられます。そして造っただけではなく、それらをすべて御心のままに統べ治めておられる方です。そのような主なる神のお働きに私たちは目を留めねばならない。今日はそのことを、このイザヤ書から教えられております。 1.預言者たちの働き 旧約聖書から一つずつ順番に書物を取り上げて、その中から一箇所を選んで礼拝でお話をしてまいりました。今回から、預言者たちの書物、預言書に入っていきます。預言者たちは、主なる神から選ばれ、遣わされて神の御言葉を人々に語りました。その際、はるか昔にモーセを通して与えられた律法に記された掟や規則などに基づいて語りましたが、時には、どこにこう書いてある、というような言い方ではなく、主のもともとの御心はこうである、というように、単なる字面のことを超えて語ることすらありました。 さらに、預言者たちは信仰を持たない異邦人、異教徒たちにも語りましたが、もっぱら、神を知っているはずのイスラエルの人々に語りました。いわば今日、教会で説教者が信徒たちに語るように、主の民に語りかけたのです。なぜなら、主の民であるイスラエルは、主の御言葉を代々聞いてきたはずであり、主の御業がイスラエルの歴史の中でなされてきたことを聞いており、時には見てきたからです。そうであるのに、主に従わなかったり、異教の神々に心を寄せたりしてきたのが、イスラエルの現実でした。そういう主の民に、主に立ち帰れ、悔い改めよ、と厳しく語ったのが旧約聖書の預言者たちです。もちろん彼らも主の慰めを語ったり(イザヤ書40章1節)、将来の希望を語ったりすることもありました(エレミヤ書31章17節)。それらの中にはメシヤ預言、つまりキリストの到来について語る素晴しい祝福の言葉もありますが、多くの場合、預言者たちはイスラエルに対しても異教徒に対しても、厳しい主の審判の御言葉を語り、民に悔い改めを迫り、偶像礼拝から真の神に立ち帰るように命じました。 今日朗読したこの箇所も、主の民であるイスラエルに対して主が語られた厳しい裁きの御言葉です。「災いだ」と5回も呼び掛けていることからもわかります。しかし、主が厳しく語られるのは、イスラエルの人々を特別にお選びになったからで、だからこそ厳しく罰せられることもあるのです。もしも主なる神がイスラエルのことを特に御心にとめて