「神の栄光を現すようになる」 2023.10.29
ヨハネによる福音書 21章15~19節

 主イエスは復活された後、弟子たちに姿を現され、3度目にはガリラヤ湖で御自身を現し、弟子たちと共に食事をされました。その後で主イエスが弟子のペトロに言われたのが今日の朗読箇所の初めに言われていたことでした。ここには、主イエスを信じる者は、どのような歩みをするのか、ということについて大事な教えが示されています。


1.わたしを愛しているか

 主イエスは、ペトロに対して「この人たち以上にわたしを愛しているか」と聞かれました。これは、他の弟子たちが主イエスを愛している、その愛以上に愛しているか、という問いです。しかし、そのような比較は実際できるのでしょうか。けれども主イエスがあえてそう聞かれたのは、ペトロに自分の気持ちを明確に述べさせるためだったのだと思います。例えば、自分の家族、配偶者のことを考えてみたらどうでしょう。自分の家族について、誰か他の人も愛しているでしょうが、その人たちが愛するにまさって自分は自分の家族を愛している、とはっきり言えなかったらどうでしょうか。もしそうだったら、家族はがっかりするでしょう。なんだ、自分のことを外の誰よりも愛しているのではなかったのか、と。主イエスと弟子たちの場合、確かにペトロの他の弟子たちも、主イエスに対する関係は同等のものです。ペトロだけが特別な関係にあるというわけではありません。しかしイエスはあえて聞かれるのです。それはやはり、ペトロが、かつてイエスが捕らえられた時に、弟子の一人ではないかと問われて、それを否定してしまったことに原因があります(18章17、25、27節)。

 ペトロが、他の弟子たちはともかく、とにかく主イエスを愛しているかと問われたのでした。ペトロは自分が主を愛していることは、あなた御自身がよくご存じである、と言います。しかし主イエスはそれを三回も聞かれます。ペトロは3回目には悲しくなったのでした。ペトロ自身も自分が3回、主イエスを知らない、一緒にいた者ではない、と否定したことを忘れるはずもなく、自分のしたことへの恥ずかしさ、情けなさを重々味わってきたことでしょうから、そういう思いが沸いて来て、しかも主イエスがそれと同じ3回も聞いて来られたので、悲しくなったのでしょう。

 主イエスは、ペトロが3回否定したことをあえて思い出させて、それに合わせて3回聞かれたのですが、それはやはりペトロのためでした。ペトロは、主よ、それはあなたがご存じです、と言います。確かに主イエスは御存じです。そしてイエスは決して意地悪な聞き方をされたのではなく、あえて聞くことによってペトロに自分の気持ちを確認させ、そして、主イエスを愛する、というこの一点によってのみ今後の働きをなしてゆく覚悟を求めたのでした。

 このやり取りで主イエスは「わたしを愛するか」と三回聞かれましたが、実は原文では初めの2回は「アガパオー」という言葉を使い、3回目は「フィレオ―」という言葉を使っておられます。そしてペトロの方は3回とも「フィレオ―」という言葉で答えているのです。アガパオーもフィレオーもどちらも愛するという意味で用いられます。辞書ではその意味について意味合いの違いが記されていますが、このヨハネによる福音書ではどちらの言葉も用いられており、神が人を愛してくださるという時、アガパオーがよく用いられますが、フィレオーも使われているので(16章27節)ことさらに意味の違いを述べ立てる必要はなさそうです。

 大事なことは、ペトロがこれから主イエスの弟子として改めて働いていくに当って、主イエスを愛するがゆえにその務めを果たしていくべきことを深く自覚するために聞かれたという点です。他の動機ではないのです。私たちの日本キリスト改革派教会では、誰かが牧師として教会で働くためには教師任職式と牧師(宣教教師)就職式を経なければなりません。その時に、「~あなたは神への愛と福音を宣べ伝える熱心によってのみ、この務めを遂行することを誓約しますか」と問われ、誓約を求められます。まず第一に神への愛を問われるのです。ペトロがここで主イエスへの愛を問われたのと同じです。世の教会の牧者たちは、その動機によってのみ与えられた務めを果たしてゆくことを皆が覚えておくべきです。


2.わたしの羊を飼いなさい

 主イエスは、3回の問いかけのあとに、「わたしの羊を飼いなさい」とやはり3回言われました。これも飼いなさい、と世話をしなさい、と使い分けられています。飼うという方は食べさせる、養うという意味合いがあり、世話をする、という方は番をする、導く、という意味がありますが、これもまた特に区別する必要はなく、羊の面倒を見て世話をして導く、ということの全体を言っていると思われます。

 主イエスは主の民である信者たちの羊飼いであり、大牧者です。しかしこの世では世界中の主の教会において、人間である牧師たちが、主イエスの羊たちを教え導く務めを委ねられています。もちろん、魂の奥深い所で人に神の御言葉を理解させ、悔い改めを与え、信仰に至らせ、救うのは全く神のお働きです。父なる神と御子キリストと聖霊のお働きです。しかし地上の教会では目に見える人間の牧師たちが人々を教え、神の御言葉を説き明かし、導きます。大牧者がおられますけれども人間の牧師たちが一人一人に御言葉を語り告げ、教え、導かなければなりません。そしてその羊は主イエスの羊です。牧師たちはそのことを決して忘れるわけにはいきません。また羊たちも、目の前にいる牧師は、人間としては欠けも弱さもあるものだけれども、主イエスから委ねられて働きをしていることを覚えておきましょう。そうすることによって、牧師にすっかり依存してしまうのではなく、逆に軽んじるのでもなく、背後におられる主イエスを見失うことがなくなるでしょう。主が御言葉によって養ってくださるために、牧師たちは御言葉を説き明かします。羊たちが御言葉によってしっかり主イエスにつながっていれば牧師たちは喜ぶのです。

 今日は宗教改革記念日です。宗教改革者のカルヴァンは、ルターよりも少し後の世代の人で、彼は聖書注解を非常にたくさん書き残しています。彼はこの箇所の注解で面白いことを書いています。「柔和で従順な人たちでなければ、なにびとも、福音の教えによって、救いへと養われることはない」と。そしてその少し後で、「しかし、また、神の霊は、生まれながらに熊であり、獅子であった人たちすら、飼い馴らすものであることも、注意しなければならない」と(ヨハネ福音書注解下、648頁)。どんな人であれ、主イエスのなさった御業の前に立ち、自分のために何をしてくださったかを真に悟る時、主イエスを飼い主として仰ぐようになります。主イエスという羊飼いをいただいて歩めるのはまことに幸いであります。


3.神の栄光を現すようになる

 しかし、主イエスを羊飼いとして歩むようになると、この世では順風満帆、何でもうまくいくかというと決してそうではありません。神の御子、救い主イエス・キリストは、信じた者がこの世で何不自由なく楽しく安らかに暮らせるようにするための救い主ではないからです。私たちの命はこの世で完結しないからです。

 今日の箇所では主イエスはペトロに対して実に厳しい予告をなさいます。年を取ったら、行きたくない所へ連れて行かれる、と。このことを著者のヨハネは、ペトロがどのような死に方をするかを示されたのだ、と書いています。迫害を受け、ついには殉教の死を遂げることが暗示されています。この予告を聞いたペトロはどう思ったでしょうか。自分の将来には暗雲が垂れ込めている、と感じたでしょうか。せっかく復活されたイエス様に会えたのに、喜んでいたのもつかの間、今後は何か大変なことが起こってくることを受け止めて行かねばならなくなったのですから。しかし、著者のヨハネは。それはペトロが神の栄光を現すことなのだ、とも書いています。そしてそのためには主イエスに従っていく道が備えられています。

 私たちはウェストミンスター小教理問答の問1で、人のおもな目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことだと教えられました。では、神の栄光を現すのは、ペトロのように死に方で現すだけでしょうか。もちろんそうではなく、生きている時も、死に直面した時も、神の栄光を現す道が私たちにはあります。それは別々のものではなく、この世で私たちがどのように生きて、主イエスに従ったか、ということによっています。神の御言葉に聞き、主イエスによって神を礼拝し、祈りをもって歩み続けることによって私たちも神の栄光を現す者としていただけます。そして、どのような死に方をするか、ということを気にしすぎるのではなく、与えられた一日一日を感謝と共に送り、常に神の御言葉に聞き、礼拝を献げ、自分と家族のことと、教会のこと、そして世の人々のこと、世界の国々のこと、世の中の問題、そういったことにも祈りの範囲を広げていく。そうすることによって、どのように神の栄光を現すことができるかを、主は聖霊によって私たちの内に示してくださるでしょう。それを信じて聖霊の恵みに謙虚に信頼して、神の恵みによってイエス・キリストの救いに招き入れていただいた者として神の栄光を現してゆくのです。

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