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「聖書の言葉は実現する」 2021.7.25
ルカによる福音書 4章16~30節

 聖書の言葉は実現する。この確かな事実を今日、私たちは改めて教えられています。旧約聖書、新約聖書、この両方を合わせた聖書に書かれている神の御言葉は、神の御子であられる救い主イエス・キリストについて証言しています。そして聖書にある神の御言葉は実現し、今なお実現しつつあります。私たちはそのことを、主イエスがその宣教の初めの頃にお語りになった御言葉から学びます。   1.実現した聖書の御言葉  主イエスは、聖書と御自分とを結びつけて語られました。聖書(主イエスが語られた直接の意味では旧約聖書)の言葉は、御自分について証ししている、と言われました(ヨハネ5章39節)。これは、聖書を読んでいたユダヤの人々からすると、途方もなくとんでもない言葉です。こんなことを普通の人間が語ったら、思い上がりも甚だしい、高ぶりの極みだ、と言われてしまいます。しかし主イエスは大まじめにこのことを言われました。しかもごく当たり前のこととして言われました。  今日朗読した箇所で主イエスは、イザヤ書の61章の冒頭部分を朗読されました。まず、「主が御自分に油を注がれたこと」。これは神がイエスを特別にお選びになって神の務めに就かせられたことです。次に「捕われている人に解放を、そして見えない人に視力の回復を、圧迫されている人に自由を」。これは、目の見えない人に視力の回復をという点では、主イエスは文字通りになさいました。そして捕われている人、圧迫されている人とは文字通り牢獄に入っていたり、権力者の圧制によって苦しんでいたりする人というだけではなく、罪と悲惨の満ちるこの世にあって罪と死の力に捕われ、圧迫されているすべての人に真の自由を授けるお方としてこの世に来られたのです。それは私たち人間のうちに生まれながらにある罪の重荷から解放し、神の前にある罪の報いを免れさせていただけるようにしてくださるということです。  聖書の言葉、つまり聖書の預言には、主イエス・キリストがこの世に来られて神の御言葉を語られ、そして十字架にかかって私たち人間の罪を贖われたことによって既に実現したものがあります。たとえばクリスマスによく読まれるイザヤ書9章5節は、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。一人の男の子がわたしたちに与えられた」と語っています。その男の子は「力ある神」とまで呼ばれるような特別な存在です。そういう

「主の救いを語り聞かせる」2021.7.18
 出エジプト記 18章1~12節

 旧約聖書の2番目の書物、出エジプト記には、モーセの誕生とその後の歩み、特に主に立てられてイスラエルの人々をエジプトから導き出す務めを与えられてからの働きが書かれています。今日のところは、イスラエルの人々がエジプト軍の追撃を主の大いなる御業によって退けていただいた後、荒野の旅を続けてゆき、アマレク人との戦いに勝利した後のことです。モーセのしゅうとエトロの訪問の際に2人の間でなされた話です。   1.主の御業を聞いてモーセを訪ねるエトロ  モーセは、自身がエジプトを逃れてミディアンの地に来た時、エトロの娘を妻として暮らしていました。その後主に召し出されてエジプト王のファラオのもとに姿を現して神の御言葉を告げ知らせたのでした。モーセがここにまで至るには、大変長い年月がかかっており、モーセの生涯は大きな変化を遂げていました。エジプトを出てから40年が経っています。エジプトの王女に育てられて何不自由なく成長し、エジプト人のあらゆる教育を受けていました。それが一転してエジプトを逃れることとなり、ミディアンの地に逃れました。ミディアンは、エジプトからは、シナイ半島を挟んで東側にある、今のアラビア半島の北西側に当ります。モーセはエトロのもとに身を寄せて羊飼いとなって40年間過ごしてきました。  モーセはそういうこれまでの経緯を考えればエトロに対して大変恩義を感じていたことでしょう。もっとも、モーセがエトロの所に身を寄せることになったきっかけは、エトロの娘たちが井戸端で羊たちに水を飲ませようとしていたところ、羊飼いの男たちが来て邪魔をしたことがあり、そこに居合わせたモーセが娘たちを助けたことでした。それでモーセはエトロのもとに留まることにして、エトロの娘ツィポラと結婚しました。異教の地でモーセは、安住の地を得たのです。そしてモーセはそれ以来、しゅうとであるエトロの羊の群れを飼って40年間過ごしてきたわけです。  井戸端というのは、日本でも井戸端会議などと言いましたが、何かが起こる出逢いの場所として聖書ではしばしばお話の舞台となります。アブラハムの僕がイサクの妻となる女性を捜しに来た時にリベカに出会ったのは井戸の傍らでした(創世記24章11~15節)。時には争いのもとになりましたが(同26章15節以下)、最も印象深いのは、ヤコブの井戸のそばで主イエスがサマリア人の女性と出会い

「イエスへの信仰を公にする」2021.7.11
ヨハネによる福音書 9章13~23節

 イエス・キリストを救い主、神の御子と信じて信仰を告白し、洗礼を受けた人は、世に対して自分の信仰を公にした人で、クリスチャンと呼ばれるキリストに属する者です。今日は、生まれつき目が見えなかったのに、主イエスに目を開けていただいた人を巡り、ユダヤの人々の頑なな心が見えてきます。そして、そのユダヤ人たちを恐れる人の姿も出てきます。これらを通して、今日の私たちが信仰を公にすることを教えられています。   1.あの方は預言者です  生まれつき目が見えなかったけれども主イエスに目を開けていただいた人は、ファリサイ派の人々の所に連れて行かれました。ファリサイ派の人々はユダヤ人たちの中でも厳格に神の律法を守ろうとする人たちです。主イエスが盲人であった人の目を開けられたのは安息日でした。安息日にはいかなる仕事もしてはならない、と神は十戒で命じておられましたから(出エジプト記20章10節)、その点について、ユダヤの人々は大変敏感でした。目を開けて見えるようにした、というのは医療行為とみなされ、医師が医療という仕事をすることと同じですから、イエスは安息日を破っている、というわけです。だから神のもとから来た者ではないと。しかしユダヤ人の中にもそういう型通りの考え方ではなく、生まれつき目の見えない人を見えるようにした人が、そのような罪を犯しているのだろうか、と冷静に考える人もいたのでした。  ユダヤ人たちの間でも意見が分かれましたが、盲人であった人は、目を開けてくれた人は預言者です、と断言しています。彼としてはこんなすごいことを自分にしてくれた人は、預言者以外にいない、という確信がありました。この時に言える精一杯の言葉を彼は言ったのだと思います。目の前でいろいろに議論しているけれども、自分の目が開いた、という厳然たる事実があるので、ファリサイ派の人が何と言おうと力強く断言したかったのだと思います。  旧約聖書には多くの預言者たちが登場します。彼らは普通の人間でしたが、主なる神によって特別に務めを与えられ、特殊な力をいただいていた者もいました。特に紀元前9世紀のエリヤとその弟子であったエリシャは際立っています。列王記上の18章、列王記下の5章以下に彼らのなした業が記されていますが、どちらも死んだ子供を生き返らせるという大きな奇跡を行いました。もちろん彼らの力によってではなく、主なる神

「神の業がこの人に現れる」2021.7.4
 ヨハネによる福音書 9章1~12節

 イエスは何の権威をもってご自分のことを語っておられるのか。そしてイエスが「父」と呼んでおられる神と、ユダヤ人たちが父と呼んでいる神とは違うのか。この問題について、両者の問答が続いていました。イエスは御自分が神のもとから来られた方であり、アブラハムの生まれる前からいる存在で、神と同等の権威を持つ神の御子であられることをはっきりと言われました。それを信じない人々はついにイエスに石を投げつけようとします。そこで話は物別れとなり、イエスは神殿の境内から出て行かれました。せっかく神の御子がこの世に来られて、私たちの知らない神についての真理をお語りになっても、それまでの先入観、今までの知識に捕われている人々は、イエスの言われることを全く受けつけられませんでした。人々と別れた主イエスは、通りすがりに生まれつき目の見えない人を見かけられます。そしてここでもまた、イエスとはどなたであるか、という問題が起こってきたのでした。   1.誰が罪を犯したからですか  生まれつき目の見えない人は、いつの時代にもおられます。今日の話を見ると、この人が生まれつき目が見えないことはそのあたりに住む人々は知っていました。そして彼が物乞いをしていた人であることも人々は知っていました。そういう人の姿を見ていたから余計にでしょうか、その原因は何だろうか、と考えたのでしょう。それで弟子たちが主イエスに、この人が生まれつき目が見えないのは本人が罪を犯したからか、それとも両親が罪を犯したからか、と問いかけます。この問いは、いつの時代のどこの国でもありそうです。私たちの日本では、先祖の祟りなどということがあります。また、罰(ばち)が当たる、という言い方もしばしば聞きます。そのように、何か悪いことをしたから、本人かあるいは子孫に悪い報いが及ぶ、という考え方です。  主イエスはこの質問に対して、どちらでもない、と言われました。もちろんこのことは、本人にも両親にも神の前に全く罪がないということを言っているわけではありません。聖書全体を通してみれば、人は神の前に罪人であることは明らかです。主イエスは当然そのことを前提として話しておられます。ここでは、この人が特に目が見えなくなっているのは、本人か両親のどちらかが何らかの特別な罪を犯したことが原因となり、その報いとして目が見えなくなっているのかということです。  主