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「聖書の言葉が実現するため」2019.2.24
 マルコによる福音書 14章43~52節

主イエスはゲツセマネで、苦闘するかのような祈りを献げられた後、力強く立ち上がられました。そしてご自身を裏切る者がやってきて、罪人たちの手に引き渡される、と言われます。そして主は、これから起こることをすべてご存じである方として、堂々とした態度で、やって来る者たちに立ち向かわれます。 1.接吻をもってイエスを裏切るユダ 12弟子の一人であるユダは、既にイエスを裏切って祭司長たちに引き渡そうとして金を受け取る約束を取り付け、イエスを祭司長たちに引き渡す機会を狙っていました(14章10、11節)。ユダヤの祭司長や長老たちは、イエスを殺す計略を企てていましたから、喜んで金を渡す約束をしたのでした。 私たち日本人は、いちいち挨拶で接吻をしたりしませんが、今でもある国々では、型どおりとはいえ、また接吻をしている振りをしているように見えるとは言え、挨拶で接吻する習慣が根強くあるようです。しかしそれらを悪用して、あたかも相手に親密な振りを装って、隠れた企てを実行するということがしばしばあるようで、旧約聖書にもそのような場面があります。たとえばダビデの息子のアブサロムは、民の心を父親であるダビデから自分の方へ引き付けるために、城門の傍らに立って、王の裁定を求めてくる人にいちいち話を聞いて親しく振る舞い、手を差し伸べては抱き、口づけをした、と記されています(サムエル記下15章1~6節)。また、ダビデ王に従っていた将軍アマサを手にかけた従兄弟のヨアブは、「兄弟、無事か」と声をかけ口づけしようとしてひげをつかみ、そのまま下腹を剣でついて殺してしまいました。このように、親しい挨拶をすると見せかけてそれとは裏腹なことをする、というのは悪事を行なう者の常套手段とでも言えるでしょう。箴言の中に、次のように言われています。「愛する人の与える傷は忠実さのしるし 憎む人は数多くの接吻を与える」(26章6節)。 こうしてみると、聖書にはこのように格言で教訓を与えるものと、実例で人の悪事を示すものとがあり、多様な仕方で私たちに様々な教訓や教え、人の罪の現実を描き出していると言えます。聖書はただ掟や教訓や売戒め、格言を並べるのではなくて、物語を通して、その戒めを守れない罪人の罪をまざまざと私たちの前に突き付けているのです。うわべは親密なように作ろうが、内心はちっとも親密に思っておらず、ただ自分の醜い目

「光を見る者は生きる」2019.2.17
 ヨブ 3章1~26節

 旧約聖書の文学書の中でも、特にこのヨブ記は非常に深い内容を持つ文学書として、世界中で読まれてきました。戯曲のような形式で、最初と最後に散文で書かれた文があり、真ん中は、ヨブと3人の友人たちとの対論、エリフという人の論述、最後に神が登場してヨブに語りかける内容で、詩の形です。大変長いですが、ヨブ記は、全体をよく把握していないとその意味が掴めません。今日は、ヨブ記全体のお話はしませんが、度ヨブ記が何を教えているかを知らないと、間違った理解へと進んでしまう恐れがあります。通常、正しい人がなぜ苦しむのか、という疑問に答えていると言われ、確かにその面はありますが、それだけでなく神とヨブとの関係が最後にはどうなったかということを見落としてはなりません。その中で、この第3章で教えられていることを見てまいります。 1.苦しむヨブ ヨブがなぜ自分の生まれた日を呪っているのか。1、2章にある神とサタンのやり取りで明らかにされています。神の前に畏れの心をもって正しく生きていたヨブについて、サタンは神に対してある提案を持ち掛けます。ヨブが正しく生きているのは、神が豊かにヨブを恵んでいるからで、もしそれが失われたらヨブは神を呪うに違いない、と。だから神が御手を伸ばしてヨブの持ち物に触れ、それらを奪ってしまいなさいと神にもちかけます(1章11節)。神は、ヨブが神を畏れ、悪を避けて生きていることを認めておられます(同8節)。それで神は、サタンの申し出を受け入れ、ヨブのものを一切サタンの手にゆだねます。主のもとから出て行ったサタンは、ヨブの羊や羊飼いたち、さらに息子や娘たちの命を奪ってしまいました。 しかしヨブは神を呪うことはしなかったので、再びサタンは神のもとにやってきて、今度はヨブの体に触れてみるようにと持ち掛けます。今度も神はそれを許可したので、サタンはヨブの全身にひどい皮膚病にかからせました。それでもヨブは神を呪うことはしなかったのでした(2章10節)。そういうヨブのもとに友人たちがやってきて彼を慰めようとしますが何も話しかけることすらできませんでした。そして7日ほど経って、やっとヨブが口を開いたのがこの第3章です。ヨブはこの3章で自分の状態を嘆きます。彼は神を呪いはしませんが、この状態を嘆きはします。そして、自分の生まれた日を呪い始めるのです。  このヨブの嘆きと呪いは、自分

「罪を担い苦しむ救い主」 2019.2.10
マルコによる福音書 14章27~42節

主イエスは、過越しの食事の際に、聖餐式を制定されました。その後でのことです。イエスは、これ空先、ご自分の身に起こってくること、そして弟子のペトロに関することをお語りになります。そして、ゲツセマネというところで苦しみつつ祈られたイエスの姿が示されます。私たちは、今日示されたこの聖書の記事から、私たちの救い主、と呼ばれる方がどんな苦しみを担われたのか、どうしてそんなに苦しまれたのかを教えられています。 1.羊飼いが打たれる 主イエスは弟子たちがつまずくことを予告されます。つまずくとは、そのまますんなりと歩いてゆくことが出来なくなることです。弟子としてただイエスに従って来た彼らでしたが、この先起こって来ることの中で、弟子たちは今までのように単純にイエスに従って行けなくなる時を迎えるのです。ここではまだ、その先のことはあまりはっきりとは語られません。ただ、弟子たちより先にガリラヤに行く、という御言葉にある一つの希望が示されています。ここは、ガリラヤに先立って導く、とも訳される所です。復活されること、そして弟子たちもガリラヤに行くこと、そこで主イエスと出会うことがほのめかされてはいます。しかし、今はまだ弟子たちは聖霊を受けていないので、イエスと共にあることによって命の危険にさらされることに対して十分な覚悟も備えもできておらず、危機の中で倒れたり、イエスを捨てて逃げてしまうのです。 そして、羊飼いであるイエスが打たれることによって、羊である弟子たちは散らされてしまいます。イエスはこれをゼカリヤ書の預言によって予告されました。「羊飼いを打て、羊の群れは散らされるがよい」(ゼカリヤ書13章7節)、とある預言です。ゼカリヤ書では、「打て」と命令形になっています。イスラエルの牧者=指導者たちに対する神の裁きについての警告となっています。主イエスはその預言を自由に引用して、羊飼いが打たれること、しかもそれは神の御心によることを示しています。羊飼いを打つのは、ほかでもない神御自身なのです。羊飼いである方が打たれ、羊たちが散ってしまうことは神がご存じであり、むしろ神のお考えの内にあることでした。羊が散ってしまうのは、羊の弱さゆえの結果です。それによって、羊飼いが1人残されてしまうことが示されているわけです。次の場面に示されているように、弟子たちは苦しみ祈るイエスを前にしても、目を覚ま

「イエスによる新しい契約」 2019.2.3
マルコによる福音書14章21~26節

今日は、この後、聖餐式があります。私たちの主イエス・キリストは、弟子たちに、このように行いなさい、とお命じになりましたので、今日のキリスト教会ではこの聖餐式を行なっております。今日は、この聖餐式制定の記事と先ほど一緒に朗読したエレミヤ書の新しい契約についての預言から、聖餐式が私たちに示していること、そしてそれを行うように命じられている私たちに何が与えられているのかを改めて御言葉に聞きたいと思います。 1.聖餐式の制定 主イエスは、ユダヤ人がずっと行ってきた過越しの食事をしている時に、新しい食事=聖餐式を制定されました。これは、たまたま過越しの食事に重なったのではありません。過越しの食事は、神がイスラエルの人々をエジプトの奴隷状態から救い出されたことを記念し、感謝して行うものです。イスラエルの人々は、エジプト脱出する前に、傷のない小羊または山羊を屠ってその血を家の鴨居に注ぎ、主のエジプトに対する裁きを過越していただきました。それで、後の時代のイスラエルの人々は、毎年その時期になるとこの過越しの祭りを行って、かつての主の救いを思い起こし、羊または牛を屠って、その肉を食べることをしてきました。それはイエスの時代までも、ずっと行われてきたイスラエルの大事な行事でした。イエスと弟子たちもこの過越しの食事をしたのですが、イエスは新しいことをなさいました。その過越しの食事の最中に、イエスはパンを取って感謝の祈りを唱え、「取りなさい、これはわたしの体である」とまず言われました。さらにぶどう酒の杯を取り、感謝の祈りを唱えて弟子たちにお渡しになりました。  イエスはこの後、ユダの裏切りによって捕えられ、ユダヤの最高法院に引き立てられ、裁判を受け、そしてローマ総督の下で死刑判決を受けて十字架にかけられることになります。イエスはそのことを予め知っておられました。イエスがそのように裁判を受けることになるのは、これまでイエスがして来られたことを、神の御心によっていると信じないユダヤ人の指導者たちが、イエスは神を冒涜しているものだと決めつけ、そしてローマ総督の下に訴え出て死刑判決をもらおうとしていたからです。当時のユダヤの国は、ローマ帝国によって人を死刑にする権限を奪われていたからです。そうして十字架の死を遂げることになるのですが、このことは、実は、イエスが屠られる神の小羊であることを示

「神の家族として生きる」2019.1.27
 エフェソの信徒への手紙 2章11~22節

 今日の説教題が今年の年間標語です。私たちは神の家族とされている。それは本当に幸いなことであります。この手紙はそのことにどのような意味があると私たちに示しているのか、今日、神の御言葉に聞きたいと願っています。 1.すべてはキリストの十字架によっている  この手紙を書いた使徒パウロは、エフェソの教会の信徒たちにこの手紙を書いて、信徒たちをしっかりと信仰に立たせたいと願っています。彼は多くの手紙を書きましたが、大体前半でキリスト教信仰の大事な点を強調して教え、特にイエス・キリストがどんな方で、何をしてくださったかを語ります。教会によっては様々な問題を抱えていたので、それに答える形で書いている場合もあります。いずれにしても共通しているのは、ただ単にキリスト教信仰の大事な点を教える、というだけではなくて、キリストを信じた者がどのようにこの世でなお生きていくのか、ということを述べています。  エフェソの教会の信徒たちは、ユダヤ人であるパウロから見れば異邦人です。ユダヤ教を信じる人々にとっては、神を信じてユダヤ人となることが救われるということでしたから、ユダヤ人と異邦人とでは、神の前に非常に大きな隔たりがあると思っていました。イエスの弟子たちや、信徒たちの最初の頃の宣教活動はユダヤ人たちに対してだけ行っていました(使徒言行録11章19節)。使徒ペトロでさえ、聖霊降臨の後でも、まだ、異邦人に福音を伝えるという意識がなかったとさえ言えます。やはり人に染みついた考え方とか、それまで生きて来た習慣、民族意識などはなかなか変わっていかない、ということの現れです。  しかし、たとえどんなに民族的に親しくなくても、それまでは敵対関係にあったとしても、主キリストが十字架におかかりくださって、どちらの罪をも贖ってくださったならば、そこには平和が存在します。特にユダヤ人でキリストに救われてクリスチャンとなった者は、そのことを知らされています。そういう者としてキリストのもとに集められ、あたかも一人の新しい人であるかのような新しい歩みを始めているのです。キリストの十字架の恵みは全ての人に開かれています。自らの罪を悔い改めて主イエスを信じ、神に立ち帰るならば、誰でも救いにあずかれます。キリストの十字架の前では私たちは唯十字架を仰いで、その罪の赦しをいただくことを願うのみです。 2.キリスト

「信ずる主に任せる」2019.1.20
 使徒言行録 14章21~28節

 今日は、この使徒言行録から、キリスト教会の福音宣教が始まった頃に、どのようにして教会ができていったかを示されています。今日、全世界の各地にキリストの教会が建てられております。今日の朗読箇所から、それは神のどのような御心と御業によっているのか、ということを私たちは知ることができます。 1.神の国に入るには多くの苦難がある この使徒言行録は、ルカによる福音書を書いた医者(コロサイ4章14節)、ルカが記したものです。福音書が第1巻、使徒言行録が第2巻ということです。使徒言行録の14章は、使徒パウロが第1回伝道旅行を終えて帰って来た時のことです。キリスト教会の歴史の中で、多くの宣教者たちが世界中のあちらこちらの地域に出かけて行って福音を宣教してきました。中にはまだ文字を持たない人々の中へ入っていって伝道する、ということもありました。特にここで語っている二人とはパウロとバルナバ、という二人の使徒たちですが、特にパウロはキリスト教の宣教者の中で誰よりも多くの人に福音を告げ知らせ、誰よりも多くの苦難を経験した人だったと言えるかも知れません。彼は同胞のユダヤ人からも迫害を受け、ローマ帝国の迫害をも受けました。ローマで裁判を受けるために長い旅をしましたが、それ以前にも多くの宣教旅行に出かけ、数多くの苦難を経験しました。そのことは、彼が書いた書簡の中に記されています。「鞭で打たれたことが3度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが3度」、「盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽兄弟たちからの難に遭い」、「飢え渇き」、「寒さに凍え、裸でいたこともありました」と(Ⅱコリント11章23~27節)。 使徒パウロはキリスト教会の初期の段階でぶつかる様々な困難に直面し、時には命の危機さえありました。聖書には記述がありませんが、彼は殉教したと伝えられています。では、14章22節にある、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」という言葉はどう理解すべきでしょうか。苦しみと一口に言っても種々あります。パウロのように宣教の最前線に立って、反対する人たちからの強い風当たりをまともに受ける人たちがいます。最後には殉教するような苦しみです。しかし信徒たちが皆パウロのように宣教の最前線にいるわけでもありません。それでも、社会から迫害さ

「まさか私のことでは」2019.1.13
 マルコによる福音書 14章10~21節

再びマルコによる福音書からお話しをします。主イエス・キリストは、ご自分がやがて捕らえられ、苦しみを受け、殺されることを知っておられました。それはご自身が天の父なる神のもとから来られたこと、そしてこの世に生まれたのは、多くの人の罪の贖いのためであることを自覚しておられたからでした。それは神の御子として知っていたのであり、単に人間的にみて、このままいけばユダヤ人の指導者たちの反感を買って殺されることになるだろう、というような予測とは全く次元が違います。イエスは、ご自分の民の罪の贖いのために救い主としてこの世に来られた方だからです。14章3節以下、べタニアで一人の女性に香油を注がれたことも、ご自分の葬りの準備だと言われました。それに対して今日の箇所では、弟子の一人であるユダの裏切りが記されます。主イエスに最も近くいたはずの弟子の一人がイエスを裏切る。この特別な出来事によって、イエスは当局者に引き渡され、そして十字架の死へとつながってゆきます。私たちはこの箇所で、神がこの世に対してお考えになった、人々の救いのための壮大なご計画が、一人の弟子の裏切りによって実現してゆくことをみます。そしてこの出来事は、ドラマを見るようにして読み、また聞いている今日の私たちに対しても鋭く問いかけてきます。「まさかわたしのことでは」という弟子たちの不安な言葉が、私たちの心にも影を落とすかもしれません。そんなことを心に留めながら、この出来事を見てゆきましょう。 1.過越しの食事の席で イエスは、弟子たちと共にイスラエルの人たちが行ってきた過越しの食事をしようとされます。遡る事1,300年くらい前、イスラエルの民はエジプトで奴隷として苦しんでいました。人々の叫びを聞かれた神はモーセを遣わしてイスラエルの人々をエジプトから脱出させてくださいました。それを記念して過越の祭りが行われていました。 人々は、神がエジプトから救い出してくださった時のことを思い起こし、羊または牛を屠って食事をし、その後には酵母を入れないパンを食べます。酵母を入れないで急いで焼いたことを思い、エジプトから出た日を生涯思い起こすようにと命じられていました(申命記16章8節)。その食事そのものについては、22節以下で示されます。今日はその準備のためにイエスが弟子たちを都に遣わし、食事の際にはご自身を裏切る者について話された場面

「黙する時、語る時 愛する時、憎む時」2019.1.6
 コヘレトの言葉 3章1~11節

 新しい年の最初の主の日を迎えました。主の日、というのはキリスト教会独特の表現です。キリストが復活されたのは日曜日ですが、それを週の初めの日と呼んでいます。ですから、一週間は日曜日から始まります。聖書からすると、終末は土曜日であり、週の初めは日曜日です。この日曜日に主イエスが復活されたので、教会では特にこの日を主の日と呼んでいます。ヨハネによる黙示録には、既に主の日という言い方が記されています(1章10節)。 この最初の主の日に当たり、私たちのために十字架にかかられ、復活された主イエス・キリストを仰ぎ見つつ、すべての日においても主であられる神の御言葉に聞こうとしています。今日は旧約聖書の中でも独特な書物であるコヘレトの言葉から御言葉を聞きます。コヘレトとは「集会で語る者」、あるいは語るために「会衆を集める人」といった意味です。著者は1章1節によるとダビデ王の子であるソロモンのように記していますが、もっと後の人であろう、という説があります。 2.何事にも時がある 私たちはこの独特な書物から、この世の生活、世界、人生とは何か、ということにまで思いを巡らせるように促されます。世の中のことを楽観的に捕える人もいれば、悲観的に捕える人もいます。単にそのどちらかに色分けすることはできないかもしれませんが、このコヘレトの言葉は、はじめからこの世は全て空しい、と言っています。このコヘレトは神を信じて生きている人です。神を信じて生きていても、この世は空しいと嘆くしかないのかというとそういうわけではありません。 コヘレトの言葉は、この世の現実に目を向けさせ、私たちがまずこの世の人の生活や人生、社会の不条理などを見つめ、その上で、私たちはそれをどう受け止め、生きて行ったらよいのか、ということを教えているのです。一見悲観的な物の見方ですが、神のもとでは全てが空しく終わらず、光があることを私たちは知ります。それを踏まえて第3章に目を留めます。ここは、コヘレトの言葉の中でも、印象深く、しかも奥深い箇所です。8節までは「時」について、9節以下は神の業についてです。  まず、時について。この世では様々なことが次々起こります。それには定められた時がある、とコヘレトは言います。2節以下、生まれる時と死ぬ時、のように対照的なものが挙げられていきます。初めは最も根本的なものを挙げ、そして人の

「主の恵みの年に生きる」2019.1.1
 ルカによる福音書 4章16~21節

 新たな年を迎えました。思い返してみれば、小学生の頃などは、一年が過ぎるのが長かったように思います。多くの人がそう思われることでしょう。だんだん年月を増し加えるに従って、私たちはこの世を過ごしてゆくことに良かれ悪しかれ慣れてくるからでしょうか。子どもの頃は、初めて経験するものばかりですから、新鮮な驚きや発見が相次いで起こり、感動することや感心することが多かったのでしょう。いわば充実している、という面が大人になってからよりも多かったかもしれません。そうはいっても、やはり新年を迎えると私たちは何となく新しい思いをもって一年を始めて行くように思います。しかしそれも正月の最初の頃だけで、やがていつもの生活に戻ってゆくのでしょう。そうだとしても、私たちは常に主なる神の前に生きています。生かされています。来年の元旦に自分がどうしているかは誰にもわかりません。それでも、主に連なる人は、自分の歩みがどうなろうと、主イエスの後についてゆく、という歩み方は何ら変わることがありません。また、変える必要もありませんし、変えてはいけません。そういう私たちは、主の恵みの年に生かされている、ということを今日の聖書箇所から教えられています。 1.聖書を朗読し、語られるイエス 主イエスは、ガリラヤのナザレでお育ちになり、ユダヤ人として安息日(土曜日)には会堂で神を礼拝する生活をしておられました。聖書を朗読しようとして立たれたとありますが、会堂司の許可を得て、誰でも聖書を朗読することができました。人々はいつものように会堂にやってきて賛美歌を歌い、祈り、聖書の朗読を聞いてその教えに耳を傾けようとしていたことでしょう。しかし、この日はいつもとは全く違う礼拝となりました。いつも、聖書(旧約聖書)が朗読されますが、この日はイザヤ書の61章1、2節が朗読されました。これまでにも何度となく聞いてきた聖書の箇所です。これまでは、このようなことを実現する人を神がこの世に送ってくださることを信じて待つ、という姿勢で聞いていたはずです。ところがこの日、この聖句の読まれ方が一新されました。やがて来ることが期待されていた、イザヤ書が指し示す、この主から遣わされた人は、目の前にいるイエスである、ということが明らかになりました。そして、このイザヤ書が指し示している人物こそ、この世に来るべきメシア=キリスト、つまり救い主であ