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8月, 2020の投稿を表示しています

「母のように父のように」2020.8.30
 テサロニケの信徒への手紙一 2章1~12節

 私たちは、神の福音を聞かせていただきました。今もまた、この礼拝で神の福音を聞いています。神の福音は神から来た良き知らせ、神のみが与えうる良き知らせ、そして世に生かされている人間が心して聞くべき良き知らせです。そこには神の深い慈しみに満ちた御心が込められています。そしてそれは、使徒パウロの宣教において映し出されています。パウロも私たちと同じ人間ですが、神とキリストから特別に立てられて、キリストによる救いの福音、良き知らせを多くの人々に告げ知らせる務めを受けました。ですから、使徒パウロは神の御心を余すところなく語り、神の御心が十分に伝わるようにと務めていたのです。こうして神の福音は今日の私たちのところにまで届いています。   1.神の福音を語る  使徒パウロは、福音を語る動機についてまず語っています。その動機と目的が示されます。パウロの福音宣教は迷いや不純な動機に基づかないし、ごまかしによるものでもありません。この三つのものは、もしそのうちの一つでもあるならば、そこで語られているものは神の福音を装った形ではあっても非常に歪んだものになってしまいます。  ゆだねられている福音が、人間を救う唯一の福音であるということに疑いを持ったり、あるいは本当にこの福音で救われるのだろうかという迷い。あるいは自分の都合や利益のために、人に良く思われるために、業績を上げたいがためにやっている、という不純な動機。ごまかしとは、品質を悪くする、とか何かを水で薄めるとか、インチキでごまかす、というような意味です。要するに、神の福音の真理を曲げてたとえば耳触りの良い内容に薄めてしまうということ、神の厳しい裁きなどないですよ、と。そんな風に神の福音は伝えられるべきものではありません。その根底にあるのは、人間に褒められようとしているのではなく、神に喜ばれようとしているという点です(6節)。   2.母のように父のように  そしてパウロは、キリストの使徒として福音宣教の務めをいただいているのですが、その権威を表立って主張することはせずに、幼子のようになったと言います。この後、母親のように、父親のようにという話が出てきますので、子どものように、というのがそぐわないように感じられますが、幼子のように、というのは3節で言われていたような下心などなく、子どものように単純な素直な心で努めている、という

「真の神のみを礼拝する」2020.8.23
テモテへの手紙二 1章1~14節

 私たちの日本では、先々週はいわゆるお盆休みでしたが、今年は帰省を控えましょうと言われていました。一方では旅行へ行きましょう、他方では控えましょう、とそれぞれの思いで国と自治体が語っておりました。そういう中、やはり例年よりは人出が少なく、静かに過ぎていったように見えました。故郷に帰っても、なぜ来るのか、帰れ、と誹謗されたという人がいた、という酷いニュースも聞きました。  日本ではお盆の時期は日本中、休暇の取得と帰省ラッシュで国中がそれに染まります。クリスチャンも会社の休みはそれによっているので、家族での行動なども、それに左右されています。教会の中会大会的行事も、お盆の時期は避けて、とか逆にその時期に休むから前後には修養会やキャンプはやりにくい、ということもあります。それほどに私たちはこの国ではそういう習慣に影響されているわけです。そういう日本に生きている私たちですが、だからこそ、今私たちの信じている真の神のみを信じて生きることを改めて覚えたいと思っています。この箇所は二年半ほど前にもお話したことがあるのですが、その時は10節を中心にお話しました。今日は、パウロ、テモテ、そしてテモテの祖母や母親に与えられた信仰、という観点から、真の神を知り礼拝することの幸いを教えられたいと願っています。   1.純真な信仰を与えられる  テモテは、使徒パウロによって救いに導かれた人で、パウロの弟子と言えます。パウロの伝道旅行にも加わり、ローマに行った時にも同伴していました。彼の父親はギリシア人、母親はユダヤ人ですが、主イエス・キリストを信じる信仰を与えられていました。書かれているとおり、祖母もまた主イエスを信じている人でした。  パウロは、伝道者へと導いたテモテに手紙を書いて、福音宣教者としての心構え、教会で信徒たちを導き教えるために必要なことをいろいろと教えています。パウロはまず神に感謝して、テモテに教え始めます。パウロは生粋のユダヤ人ですから、先祖に倣って清い良心をもって神に仕えている、と言います。彼はユダヤ人として非常に熱心であり、イエス・キリストを信じないでむしろクリスチャンたちを迫害しておりましたが、天から呼びかけられたキリストによって回心し、以後、異邦人への宣教を特にゆだねられた使徒としてその生涯にわたって働きました。  その同じ神をテモテも信じています。まずテ

「恵みと憐れみの神」2020.8.16
 ヨナ書 4章1~11節

 今日は、旧約聖書の中でも独特の書物であるヨナ書から、神のみ言葉に聞こうとしています。ヨナ書の物語は、教会学校でも子どもたちにしばしば語られる興味深いお話です。旧約聖書では、神に選ばれた民であるユダヤ人のことが中心で、それ以外の異邦人は神に背く民であり、偶像礼拝を行う罪深き者、という印象を受けやすいのですが、神は全ての民族に対して、実は憐れみ深いお方であることを私たちはこのヨナ書から教えられます。救い主イエス・キリストがこの世に来られて全世界の人々に救いの福音を伝えよ、とお命じになりましたが、そこに直接通じるものがあるのがこのヨナ書です。   1.ヨナ書という書物  アミタイの子ヨナについては、列王記下の14章25節に、その預言が実現したことが書かれています。その実現したことは、紀元前の八世紀の中頃のことですので、ヨナはそれ以前に預言したわけです。また、そこにはヨナがガチ・ヘフェル出身だとあります。そこは、主イエスが過ごされた村であるナザレから5キロメートルほどの所です。ちなみに主イエスはヨナについて取り上げて、御自身が十字架の死後三日間、墓の中におられることをほのめかされた時に語っておられます(マタイによる福音書12章40節)。しれをヨナのしるし、と言っておられました。そしてニネベの人たちはヨナの説教を聞いて悔い改めたことも語っておられます。  この書物は預言書の中に入れられていますように、預言者ヨナが神の御心を告げるのですが、話はヨナという人物の行動と、ニネベの人々の反応、そしてそれに対する神の御心、これらを読者である私たちが聞きとるように、という狙いをもって書かれています。この預言書はどういう書物なのかという時に、歴史的事実である、という見方もあれば、一つの寓喩であり、物語のいろいろな構成要素一つ一つに具体的な事柄や国を当てはめて何かを伝えようとしているのだ、という見方もあります。さらに、これはたとえ話のようなものであって、実在のヨナという預言者を主人公にして、神からのあるメッセージを語ろうとしている、という見方もあります。この最後の見方が適当ではないかと思います。ヨナの物語を通して、神はどのようなお方であるかということを教えようとしている預言書として読むのです。   2.ニネベの人々の悔い改めとヨナの怒り  さて、ヨナは主から、ニネベに行って人々に

「永遠の命に至るために」2020.8.9
 ヨハネによる福音書 6章22~33節

 弟子たちを先に湖に漕ぎ出させた主イエスは、後から湖の上を歩いて弟子たちの舟まで行かれました。そして舟に乗り込まれると、舟は間もなく目指す地に着いたのでした。他の福音書では、イエスが舟に乗りこまれると風は静まった、と書いています。今日の朗読箇所では、イエスは御自身のことを、永遠の命に至る食べ物を与えるお方であることを示されました。御自身が天から降って来た命のパンであることを、これから後、語って行かれます。このイエスの御自身についての証しを巡る論争が続きます。私たちは、この主イエスのお話から、神がこの世に、永遠の命を与えるために遣わされた御子イエス・キリストというお方を目の前に見せられています。私たちはこの方に目を向け、そのお語りになったことを見なければなりません。 1.パンを食べて満腹したから  さて、主イエスが湖の上を歩いて弟子たちの舟に乗りこまれたことを知らない人々は、イエスも弟子たちもいないことに気づくと、他からやって来た別の小舟に乗って、イエスを探し求めてカファルナウムへやって来ました。いつここへ来たのか、と人々は問いましたが、主イエスは初めから彼らの目的を見抜いておられました。人々は、イエスのなさった「しるし」、つまりイエスが神のもとから来られた方であることを明らかにする業を見て、それに引き付けられて更にイエスを求めたのではなく、ただパンを満腹するまで食べさせてもらったから探し求めていたのです。  ですから、人々はイエスを王にしようとしたのでしたが、それはあくまでもこの世の生活で、食べるものを十分に供給してくれる有り難い王様になってほしいと思ったからでした。つまり、人々の中には、この世の生活が安心して送れるならばそれでよいという考え方が根っ子にあるということです。  それに対して主イエスは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われました。まず、ここで言われていることは、この世で生きて生活してゆくための食べ物を得るために働く労働を否定しているわけではありません。ここで主イエスが言われる「働く」とは、私たちの命にとって、それが最も大事なものであるとして追求し、獲得しようとして全身全霊をそれに向けてゆくという意味です。    主イエスは、普通の食べ物は大事であり、日ごとにそれを天の父なる神

「私だ、恐れることはない」2020.8.2
ヨハネによる福音書 6章16~21節

主イエスは、5,000人以上もの大勢の人々に、わずかなパンと魚を分け与え、しかも十分に与える、という奇跡をなさいました。そして人々がイエスを捕らえて王にしようとしている、ということを知って、主イエスは一人で山に退かれたのでした。今日の朗読箇所は、パンと魚の奇跡と、それに関係する22節以下の出来事との間にあって、とても短いいお話なのですが、主イエスが御自身をどのようなお方として弟子たちに示しておられるかが表されています。マタイやマルコの平行記事に比べて、ヨハネの書き方は大変簡潔です。簡潔なだけに、ヨハネが伝えようとしていることを、私たちはよりまっすぐに受け取ることができるのではないかと思います。 1.湖の上を歩くイエス  主イエスはまだ弟子たちの所に来ておられませんでした。マタイやマルコは、イエス御自身が強いて弟子たちを舟に乗せて先に行かせた、と書いていますから、そういうことだったのですが、ヨハネは、とにかくイエスは一緒ではなかった、ということを言いたいのでしょう。イエスが一緒におられない弟子たちはガリラヤ湖に漕ぎ出しましたがガリラヤ湖特有の強い風が吹いて、湖が荒れ始めたのでした。ガリラヤ湖はすり鉢状になっており、時折山から強い風が吹き降ろしてきて、湖が荒れることがあるのでした。湖の向こう岸とありますが、割と北の方の湖岸からそう遠くない所を舟で渡って行ったものと思われます。  主イエスは、神の御子としていろいろな奇跡をなさいましたが、いつでもどんな場面でも奇跡を行ったわけではありません。通常は自然現象などが起こる中に身を任せておられます。ですから、主イエス御自身が舟に乗っていても嵐が起こる時には起こりました。今回は主イエスが乗っていません。その中で弟子たちは舟に乗り込みました。弟子たちにとってはガリラヤ湖がこのように荒れることは承知の上でしたでしょう。今回の場合、嵐に遭ったというよりも、逆風にこぎ悩んでいた、とマタイとマルコは書いています。  主イエスは、自然を支配する御力をお持ちですが、弟子たちが逆風に遭わないように予め風を静かにしておく、ということはなさいません。しばしば人生の逆境などを嵐に譬えることがありますが、主なる神はご自身を信じる者たちが嵐に決して遭うことのないようにはなさいません。むしろ世に生きている限り誰でも遭うような困難な状況、時には逆境と

「成熟を目指して進む」2020.7.26
 ヘブライ人への手紙 5章11節~6章12節

 今日朗読したヘブライ偉人への手紙の5章の終わりから6章にかけては、信徒たちの信仰の成長の度合いについての教えが書かれています。イエス・キリストを救い主と信じてクリスチャンとして歩み始めた人は、ちょうど人が子どもから大人に成長してゆくように、初歩の段階から成熟へと向かって進むのだ、ということを教えています。信仰の度合いにも個人差がありますが、主イエスによって救われることに関しては皆一緒です。信仰歴が長いかどうか、牧師であるか信徒であるか、それに関係なく、主イエス・キリストによって、信じた者は救われています。 しかし、信仰者は成熟を目指して進むように召されている、ということを私たちは覚える必要があります。これは、信徒として成熟していかないと神の国に入れない、ということではありません。しかし、信仰の初歩に留まり続けるのではなく、成熟へと進むのが神の御心であり、そのように私たちは召されている、ということです。そうすることによって、より一層神の栄光を現すことにつながるからです。そしてもう一つここで教えられていることは、一度神の光に照らされて信仰に入った人が、その後に堕落してしまう、ということについてです。この二つのことを私たちはここで教えられています。 1.神の言葉の初歩を離れて成熟を目指す この手紙の著者が誰であるか、諸説がありますが、よくわかりません。著者が誰であれ、キリスト教会では新約聖書として神のみ言葉として受け入れられてきたものです。ということは、そこで教えられている内容が、キリストを証ししているのであり、初代教会において、キリストを証しする神のみ言葉としての権威ある書物とみなされ、受け入れられてきた、ということです。 11節冒頭の「このことについて」とは、直前で言われていたことで、キリストが神の御子としてこの世に人としてお生まれになり、そして私たちの永遠の救いの源になってくださった、という趣旨のことです。そしてメルキゼデクのような大祭司と呼ばれた、と言われています。さて、私たちはこのことについてどれだけ理解しているでしょうか。著者は、これについて話すことがたくさんあるが、読者の耳が鈍いので容易に説明できない、とまで言っています。信徒たちを相手に、かなり厳しいことを語っていると言えます。あなたたちはいまだに初心者のままで甘んじているではないか、と。 固