「聖書の言葉を理解する」2023.8.27
 ヨハネによる福音書 20章1~10節

 私たちは今、日本語の聖書を目の前にしています。日本語を理解できる人なら、その内容を言葉として受け取ることはできます。しかし、初めて教会に来て聖書を手にした人が、そこで朗読された言葉の意味を正しく悟る、ということは難しいことです。今日は、私たちがこの聖書の言葉を理解する、とはどういう意味かを教えられています。そしてここで語られていることは、キリスト教信仰の最も大事なことに関わりますし、聖書全体の中でも非常に大切なことです。それをどう理解するか。これはその人のその後の信仰の歩みを左右するほどの、とても大事な問題です。


1.書かれている言葉を単純に理解する

 それはつまり、私たちの信仰と生活は、神の言葉である聖書をどう理解するかにかかっているからです。主イエスをどういうお方として信じているか、そしてどのように生活しているかも、すべて聖書をどのように理解しているかによっています。ただし、大事な点は、私たちが聖書の内容を、聖書本来の目的に沿って理解しているか、です。自分流に勝手に理解しているのでは、本当の意味で理解しているとは言えません。だからこそ皆さんも教会に来て聖書の言葉を聞いておられるわけですが、それは教会には牧師がいて、聖書の話を正しく語ってくれているだろうという一般的な信頼感があるからかも知れません。改革派教会に属している方であれば、大抵は他の教会の牧師や説教者の説教を聞く機会があります。そうすると、人によって語り方などはいろいろ違うけれども、みな聖書から語っていることは分かると思います。そして教理問答書などで、歴史的にも教会の中で信じられてきた内容だな、ということ、その教会の牧師の独りよがりで、勝手な解釈のもとに語っているのではないと分かってくると思います。

 さて、では今日の箇所に目を向けましょう。今お話ししたような根本的に、信仰生活を左右するようなことの前に、もう少し基本的なお話をします。語られている聖書の箇所の背景などをまず理解することです。今日の日本語聖書の読者である私たちからすると、読まれた箇所にもよりますが、たとえば、今日の箇所、20章1節にはマグダラのマリアという人がいて、朝早く暗いうちに墓に行き、墓から石が取りのけてあるのを見た、という出来事が書かれています。それは週の初めの日でした。では、週の初めの日とは何曜日でしょうか。

 週の初めの日とは日曜日です。一般的には月曜日が一週間の始まりだと思っている人が多いかもしれません。テレビの天気予報では、週末のお天気といえば来る土曜日と日曜日、ということが暗黙の了解となっているからでしょう。しかし聖書の世界では、週の初めの日は日曜日です。これは旧約時代のユダヤ人にとっても、初代教会のキリスト教徒にとっても同じです。創世記の天地創造の物語では、一週間の七日目に神は創造の御業を完成されて休まれたのであり、それが安息日とされました。土曜日です。ですから、遡って一週間の最初の日は日曜日です。

 また、石が取りのけてあったのですが、日本式のお墓ですと、縦長の墓碑が台石の上に立っています。立派なお墓は台が三層くらいの階段状になっていますが、その石が取りのけてあったのでしょうか。この墓は大きな岩を横に掘って小さな洞窟のようにしたもので、人が入れるほどの空間がありました。

 そしてマグダラのマリアとは誰か。彼女はイエスによって悪霊を追い出していただいたことのある女性です(ルカ8章2節)。彼女は、イエスの十字架上の最期を見届けました(ヨハネ19章25節)。

 そして、誰の墓なのか。イエスの墓です。こういったこともただ読んだだけでは、知らない人にはわかりません。  このように一つ一つ説明していくと、色々な事情が見えてきますが、大事なのは、そこから先のことで、ではここで何が教えられているのかという点です。今言ったようなことは、それを知るための下準備のようなものです。こういうことは知らなくてもイエス様を信じることはできますが、知っていると更によく理解ができるというものです。


2.墓を見に行った弟子たち  さて、このようなことは、礼拝の説教としては話の内容理解のための序論のようなものですので、書かれている内容にもっと目を向けましょう。マグダラのマリアは、イエスの十二弟子の一人であるペトロのところへ走って行って告げました。「主が墓から取り去られました」。これは、彼女が初めからイエスの復活など期待していなかったことを示しています。彼女も弟子たちも、誰もイエスの復活を期待していなかったことが福音書全体から分かります。しかし主イエスは御自身の復活のことを何度も弟子たちに語っていました。しかし、聞いてはいても、それを受け入れることはできていなかったのです。イエス様のことは信じて尊敬し、神の御子である、と弟子たちは信じていたはずですが、それでも、イエスの言われたことの真意を受け止めていなかったです。

 しかし、旧約聖書の中には、復活のことが全く書かれていないわけではありません。実際、イエスが親しくしていたマルタという女性も、人が「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(ヨハネ11章24節)と主イエスに対して言っていたほどです。ですから、他の弟子たちも同じように信じていたでしょう。だからイエスが、御自分が復活する、と言っておられた言葉も、遠い将来の終わりの日に復活されることではないか、くらいに思っていたのかもしれません。つまり旧約聖書の知識があるだけに、復活自体は信じているけれども、十字架で死なれたばかりのイエス様が復活するなど、全く考えていなかったのです。もし私たち日本人のように聖書の知識がない場合、主イエスの「私は復活する」という言葉を聞いたなら、まず、何だそれは、そんなことがあるわけがない、何をおかしなことを言っているのだ、となるでしょう。そして逆にイエスの体が墓からなくなっていたと聞けば、ではもしかしてイエスは本当に生き返ったのか、となるかも知れません。そういう意味では、聖書を知っているといっても、本当に知っているかどうか、ということは実は簡単なことではない、と言えるのではないでしょうか。

 こうして墓を見に行った弟子たちの目に入ったのは、イエスの遺体を包んでいた亜麻布、覆いなどでした。つまり、イエスの遺体は死者の埋葬の時の状態ではなくなっていたのでした。これを見たペトロともう一人の弟子、これはヨハネのことです。イエスが愛しておられたもう一人の弟子(2節)とはヨハネが自分のことを言う場合の表現です。彼は墓に入って来ます。そして、入って来て、見て、信じたのでした。しかしすぐその後に、二人は、イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉をまだ理解していなかった、と言われます。これはどうしてでしょうか。信じたのなら、理解していたのではないでしょうか。


  3.聖書を理解するために<>/b>

 ここでの「来て、見て、信じた」ということは、まだ旧約聖書との関係において十分に理解してはいないのだけれども、主イエスが墓にはおられない、しかし遺体に巻いてあったはずの布はない、つまりイエスは死者としておられるのではない、ということを納得して、とにかくイエスの遺体はない、死んだ人のいるべき墓にはいないことを認め、イエスの復活についての信仰への一歩を踏み出した、ということだと思います。

 しかし旧約聖書の言葉はまだ理解していませんでした。たとえば詩編16編に「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」(10節)とありますが、これはイエスの復活を表していることだ、とイエスの復活の後にペトロは語っています(使徒言行録2章31節)。これが目の前で墓から体が消えてしまったイエスの復活を予め語っていた、とは理解できなかったのでした。

 私たちも、漠然と聖書を読んでいるだけでは分からずに、素通りしてしまうことがあります。そのために、歴史の中で教会により生み出されてきた教理問答や、信仰告白等を学んで、信仰と教理の大事な教えを正しく学ぶ必要があります。そして、聖書はイエス・キリストについての証言をする書物であることを覚えましょう。近くであったり、遠くであったりしても、預言者たちや使徒たちは、主イエスについて語り、証ししたのです。それを信じた今日の私たちもまた、信じて証言します。イエスは私たちの罪の贖いのために復活することになっているお方として十字架に架かり、罪の償いを成し遂げてくださいました。復活により、罪の働きの結果、人に死をもたらす罪と死の力を打ち破り、私たちに永遠の命をくださる救い主がおられます。この方を信じて初めて私たちは聖書を理解できると言っても良いのです。そしてその聖書がイエス・キリストについて、神の子であり、十字架の死と復活によって私たちに救いを与えるお方だと証ししています。イエスと聖書の関係はそういうものです。聖書の理解はイエス・キリストと結びついています。神の聖霊がそれをも悟らせてくださいます。聖霊の恵みと導きに謙虚に信頼してその助けと力と導きを祈り求めましょう。聖書の言葉の理解は、イエスを信じることと一つです。そして信じたなら、その人の内には神の御言葉が根を張って、成長へと導き、実を結ばせてくださいます。その恵みを味わわせていただきましょう。

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