「イエスに罪を見いだせない」 2023.7.2
ヨハネによる福音書 18章38節b~19章7節

 先ほど朗読していただいたこの箇所では、いかにもおかしなことが起こっています。罪なき方が裁判にかけられて、死刑判決を受けようとしています。7節まででは、まだ死刑判決を受けてはいませんが、訴えている人たちは、このイエスを何とか死刑にしたいと思っています。それを裁判官として扱うローマの総督ピラトは、全く違う考えを抱いていました。しかし、訴える人々の要求は高まるばかりです。今日はこの箇所から、題の通り、イエスに罪が見出せないと言ったピラトの言葉によって、イエスというお方がどういうお方であるかをまた私たちは示されています。そしてそれを示された私たちは、このイエスに対して自分はどう思うのか、ということを問いかけられているのです。


1.イエスではなくバラバを

 ピラトは、ユダヤ人たちの前に出てくる前に、主イエスと話していました。その際、イエスが真理について話されたので、真理とは何か、と問いかけて、それからユダヤ人たちの前に出て来たのでした。ピラトは真理とは何か、という質問をイエスにしたにもかかわらず、その答えを聞いていません。イエスが答えようとされなかったのか、或いはピラト自身、特に答えを求めるでもなく、答えが特に聞きたいわけでもなく、一体あなたは何のことを話しているのか、と問いかけるだけでその場を去ったのかもしれません。ピラトは、本当に心から真理についてイエスに伺いたいというよりも、訴えられている被告についての取り調べの気持ちでいたでしょうから、裁判官としての判断に役立つことだけ聞けばよいと思っていたのではないかと思います。もし本当に聞きたいのだったら、ピラトはイエスの答えを待って教えを乞うたはずですが、彼はそこまではしなかったのでした。

 そういうピラトは、ユダヤ人の前に出て行きますが、人々の反応は、イエスではなくバラバを釈放してもらいたい、というものでした。過越しの祭りの際には、未決の囚人を一人釈放するという慣例があり、ユダヤ人の慣例を尊重して総督ピラトはそれを実行しようとしたのです。バラバは強盗として捕まっていたのですが、イエスを訴えていた人にとっては、バラバがどんな犯罪人であろうが関係なく、イエスを釈放することだけはしたくなかったのです。

 こういう時の群衆は、深くものを考えているわけではなく、指導者たちに扇動されていたので(マルコ15章11節)、理性を失ったような行動を繰り返したのでした。人の罪の深さが暴き出されています。


2.この男に罪を見いだせない

 ピラトは、ユダヤ人たちとのやり取りの中で、「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と、3回も言いました(18章38節、19章4節、6節)。これだけ繰り返すからには、ピラトは本当にそう思っていたのです。しかし彼は自分の立場を理解していました。自分としてはイエスに罪を見いだせないのですが、ユダヤ人の反感を買いたくはなかったのです。ピラトがイエスに罪を見いだせない、と言ったのは、ローマ総督としてユダヤを統治している身として、訴えられているイエスという人物について、少なくとも自分が話を聞いて、そしてこの出来事の全体を見た時に、訴えられているように死刑にするような犯罪者ではない、ということがすぐに分かったからです。彼は、自分の立場を守ることを最優先するような人物ですが、主イエスと直接話をすることで、この人は犯罪者ではない、ということがわかったのでしょう。38節までのやり取りでイエスが言われたことは、恐らくピラトが誰からも聞いたことのない奥深い話だったでしょうから、そういうイエスに対して、ある種の畏敬の念を抱いていたかもしれません。

 ピラトは、一応イエスを捕えて鞭で打たせます。紫の服は王の象徴で、兵士たちはイエスをからかう気持ちであったことが示されています。このような仕打ちを受けるイエスをピラトは引き出してユダヤ人たちの前に引き出すのですが、ユダヤの祭司長たちは、イエスを十字架につけろ、と叫ぶばかりです。ピラトはイエスを釈放したかったし、イエスには死刑にするような罪の事実はない、と思っていましたが、結局ユダヤの民衆の勢いに押し流されていきます。ピラトはやはり保身を第一としたのであって、ユダヤ人の自分に対する反感を買いたくなかったし、ましてや、反乱でも起こされたり、イエスをローマへの反逆者として見立てて、そのイエスをピラトは赦したのだ、というようにローマ本国に伝えられたりしたら、自分の身が危ういと考えたわけです。こうして、イエスは不当な裁判のもと、裁判官であるピラトの投げやりな言葉によって引き渡されることになります。神の御子は弄ばれるかのようです。


3.罪は見いだせないが十字架につけるがよい

 ピラトは、イエスを十字架につけるがよい、と言いますが、そのすぐ後で「わたしはこの男に罪を見いだせない」と付け加えます。自分としてはイエスを有罪だとは思わないけれども、好きなようにするがよい、ということです。ピラトは、あくまでもこの世の犯罪についての裁判の席についていると自覚しています。だから、彼が言う「この人に罪を見いだせない」と言うのはローマの法律に照らしてみて、イエスに有罪判決を下すようなものではない、という意味です。それでも十字架につけるように引き渡してしまうのでした。

 そしてこの裁判の場合、ユダヤ人の言い分は次のことでありまして、イエスは自分を神の子と自称したから死罪に当る、というのです。これについては、この後、ピラトはそれを聞いてますます恐れた、と次の段落に書かれているので、それは後日見ることにします。神の子と自称したから死罪だと言うのですが、それは偽りだから、というのがユダヤ人たちの言い分です。しかし、もしそれが事実つまりイエスは本当に神の子であるのならどうなるでしょうか。神の子であるにも拘らず死罪となる、というとんでもない裁判が行われ、判決が下ったことになります。

 事実イエスには、ピラトが有罪にするような罪は見いだせなかったと同時に、神の子と自称していただけでなく、事実神の子でした。だから、この世の裁判を超えて、神の前でも罪はなかったのです。しかしその罪のない方が十字架にかからねばなりませんでした。そして神はそれを阻止しようとはされずにそのまま見ておられたのでした。つまりそれが神の御心であったからです。そして、イエスに罪がないからこそ、天の父なる神はイエスが十字架に架かることを阻止しようとはされなかったのです。

 イエスにもしも神の前での罪があるなら、このままイエスが処刑されたとしても、私たちには何の影響も及ぼしません。他の人よりも正しい行いをして、奇跡まで行った人だったけれども、私たちの救い主にはなることができません。せいぜい、神に従ったその良き行いに倣うことができるくらいです。そしてイエスが教えられたように神に従って、神を愛し、隣人を愛することに努めるだけです。それ自体は善いことなのですが、でもそれだけでは、私たちは自分を救うことはできません。なぜなら、もし普通の人にすぎないイエスであったのなら、私たちの罪を償うことなどできはしないからです。

 「イエスに罪を見いだせない」。このピラトの発言の中に、実はこの発言そのものを超えた真理が隠されています。イエスは罪がないにも拘らず、十字架刑に処せられることになった点です。イエスに罪がないというのは、単にこの世のローマの裁判にかけてみても罪が見出せない、ということだけではありません。ピラトの言葉は、あくまでもローマの法律に照らしてみて、極悪人として十字架刑を科すような犯罪者ではない、ということでした。しかしそのピラトの言葉はそのまま、神の前でイエスには罪がないことを同時に表わすことになったのでした。

 私たちは、この罪のない方を自分の救い主として受け入れるかどうかを問われています。この方により頼まないのならば、自分で神に対して弁明し、自分の無罪を証明しなければなりません。しかしそんなことは私たちにはできません。神の前には私たちの罪は明らかだからです。それは私たち自身が自覚していることです。しかし、罪のない神の御子により頼むなら、神の前ではそれ以上罪の責任を追及されません。もちろん、この世で何らかの処罰を受けなければならない犯罪があるとしたらそれは受けねばなりません。しかし、真に神の前に悔い改めている人は、イエスの十字架の償いによって赦しをいただけるのです。昔も今も、世には罪が、犯罪が溢れています。元々人間の内に、神の前での罪があるからです。神の前での罪を悔い改め、赦しをいただくために十字架の主イエス・キリストを私たちは仰ぎます。主イエス・キリストの十字架の償い(贖い)、そこにのみ、私たちが神の前に罪を赦されて生きる唯一の道が開かれています。

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