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「神を信じなさい」 2018.6.17
 マルコによる福音書 11章12~25節

 私たちが神を信じるとはどういうことか。今日は、12節以下のいちじくについての話と神殿の境内での話から、今日私たちが聞くべきことを聞き取りたいと願います。 1.いちじくの木を呪うイエス  神殿での出来事を挟んで、主イエスがいちじくの木を呪われ、そしてその木が枯れてしまったことによって示されていることは何でしょうか。空腹を覚えられたイエスは、遠くから葉の茂ったいちじくの木をご覧になりました。しかし葉のほかはありませんでした。いちじくの季節ではなかったからです。するとイエスは「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われました。そして、神殿での出来事の翌日、イエスと弟子たちの一行が再びそこを通りかかるといちじくの木は根元から枯れてしまっていました。  このイエスのなさったことについて、これは一体何だろうかと思わされる人が多いのではないでしょうか。イエスは空腹を満たしてくれる実がついていなかったので、腹いせに木を枯らしてしまうとは、なんと身勝手なことか。しかもいちじくの季節ではなかったのだから、実がついていなくて当然ではないか、ということです。なぜイエスはこんなことをするのか。神の子としての力を、そんなことに用いてよいのであろうか、など。いろいろ出てきそうです。私たちたちも主イエスのなさったことの中でいうと、このお話は確かに不可解な気持ちを抱かせるかもしれません。 2.いちじくの木が実を結べるように  しかしこの話は神殿での出来事を合わせてみた時に主イエスの意図が見えてきます。いちじくの木の出来事の間に神殿でのことをマルコは記しています。神殿を祈りの家として尊ばず、商売のために用いることを何とも思わず、それで葉を茂らせている。肝心の実を結ばないで、みかけは大きくて勢力を拡大しているように見えるが実が伴わない。それがイエスを殺そうとしている祭司長たちや律法学者たちを表しているといえます。  祭司長や律法学者たちは、自分たちこそイスラエルの民、神の民として神に従い、神の御心を行っていると考えていたので、神殿で犠牲を献げるのに必要な検査済みの動物を売ることも、神の定められたシェケル銀貨によって献金を献げるのも、神の民として当然なすべき義務であり務めであると信じていたわけです。それをイエスは強盗の巣と呼ばれたのですから、イエスは宗教的権威を侮る人

「真の喜びはどこに」2018.6.10
 詩編33編1~22節

 私たちの人生に、もし喜びがなかったら、一体どうでしょうか。何をしても喜びが感じられないとしたら、生きてゆくことに張り合いがなく、生きがいも感じられません。私たちは、大きな喜びがないとしても、日頃の生活の中で小さな喜びを見いだして、そこから少しかも知れないけれどもまた前向きになろうとする力を受けている、ということがあると思います。今日は、この旧約聖書の詩編33編によって、聖書が示す喜びについて、耳を傾けましょう。 1.喜びとは何か  ここに集っておられる皆さんにも、それぞれ喜びだと感じることがあると思います。小さなことから大きなことまで、私たちはやはり常に喜びを必要としていると言えるのでしょう。私たちが単純に喜ぶことと言ったら何でしょうか。期待していたことがその通りになった時、私たちは喜びます。期待してはいなかったのに、ほしかったものが手に入った時、会いたかった人に会えた時、などいろいろでしょう。  イエス・キリストは、私たちが喜ぶものについてある時二つのことを話されました。一つは、人がこの世に生まれ出たという喜び。もう一つは、会えなくなっていた人と再会する喜びです(ヨハネによる福音書16章21、22節)。こういうことも合わせて考えてみると、私たちが喜ぶことは、やはり人との関係において喜ぶことが大きいのかもしれません。何かをもらったという場合も、贈り物をくれた人の気持ちが嬉しくて喜ぶ、という面があります。  聖書では、それ以外に食べ物のもたらす喜びについて語っています。今日の週報の囲み記事の横に挙げた、使徒言行録14章17節では、作物の実り、食物によって神が私たちの心を喜びで満たしてくださる、とありました。 2.聖書が示す喜び では、喜びについて聖書が何を言っているか、今日の朗読箇所から学びたいと思います。旧約聖書に書かれているこの詩編は、今から3,000年ほども前のものです。それほど大昔のものですが、今日でもずっと読み継がれています。ということは、ここに記されていることが、いつの時代の人にも教えを与える普遍的なものがあるからです。どれほど大昔に書かれたものであっても、神が私たちに教えようとしておられる言葉は、どんなに時代が変わってもすたれることがありませんでした。今の21世紀の時代と、3,000年前の時代では、何もか科学や文明の発達の度合いは天地ほ

「神の家は祈りの家と呼ばれる」 2018.6.3
マルコによる福音書 11章12~19節

 今私たちはこうしてこの尾張旭教会の礼拝に集まっています。この教会で行われることは何か、と言った時、何を最も重要なこととして挙げたらよいでしょうか。神の御言葉が語られ、聞かれること。神への讃美が献げられること。神への祈りが献げられること。これらがまず挙げられるべきことで、言い換えれば神への礼拝が献げられることです。 それは、救い主イエス・キリストの仲介によって私たちの礼拝が神に受け入れていただけるからであり、キリストの御名によって祈る時、それを聞きあげていただけるからです。礼拝は私たち人間が神に献げるものですが、同時にそこで神が私たちにご自分を現してくださる時でもあります。その礼拝が行われる教会のことを、祈りの家とも呼びます。今日の朗読箇所で主イエスが、神殿においてなさったことを通して、そのことを明らかにされました。ここで主イエスがなさったこと、そして語られたことを通して、私たちの祈りの家とはどういうものなのか、どうあるべきなのか、教えられています。 1.神殿で行われていたこと  今日のお話は、いちじくの木を主イエスが呪われた話の間に、神殿から商人を追い出された話が挟まっています。それで、この二つの話は関係づけてお話ししようと思いますが、今日は神殿でイエスが商人たちを追い出されたお話に焦点を当て、次回お話しする時にいちじくの木を呪われた話と関係づけてお話しようと思います。  イエスの一行がエルサレムに来ると、イエスは神殿の境内に入りました。この境内とは、神殿の庭にある異邦人の広場のことです。異邦人がここで祈るためにありましたが、次第に市場のようになって神殿で献げられる犠牲の動物を売り買いするようになり、両替屋もいました。神殿で犠牲を献げるときには、傷のない動物を献げなければなりませんので、その動物に傷がないかどうかを調べる必要があります。それで旅をして神殿にやってきた人たちは、いわば犠牲の動物を現地調達するわけで、神殿で売っているものは検査済みのものというわけです。そして、神殿で献げる献金は、シェケルと呼ばれる銀貨で献げるように命じられていましたので(出エジプト30章15節)、外国から来た人たちにとっては、両替する必要がありました。それで両替人が普通に商売をしていたわけで、彼らは手数料を取って儲けていたということです。そういう中にイエスは入って行かれて、売

「希望はイエスの十字架にある」2018.5.27
 ローマの信徒への手紙 5章1~11節

 私たちがこの世で生きてゆくにあたって必要なものはいろいろあります。特に私たちの生きる気力に関わって来るもので大事なものは何でしょうか。衣食住が揃っていても、たった一人で一生誰とも話をせず、接触することもなく生きてゆくとしたらどうでしょうか。あるいは、生きていても、この先何も良いことがないとわかっているとしたらどうでしょうか。このように、私たちには、人との関わりや交わり、そして将来への期待が必要なのだと言えます。それらは、今日朗読した聖書の箇所では、希望、愛、という言葉に示されていました。今日は特に、私たちの人生にとって是非とも必要な「希望」について、聖書が何と言っているかを共に聞きたいと思います。 1.希望の持つ力  私は「希望」ということを考える時いつも思い出すことがあります。「アンネの日記」という有名な本があります。ユダヤ人の少女アンネが、家族ともども強制収容所に入れられ、良心とも引き離されてしまい、姉のマルゴットと二人で収容所生活に耐えていました。しかし二人ともチフスに罹ってしまい、ある日、姉のマルゴットは衰弱し切っていたので起き上がろうとして床へ落ちてしまい、それが原因で死んでしまいました。そのことがきっかけでアンネの気力は大きく挫けてしまい、翌月には静かに気を引き取ってしまいました。彼女は、両親ももう死んでいるに違いないと思い、姉も死んでしまったので、もう家に帰る目的がなくなったと思ったのでした。しかし実際には、父親は生きていました。もしそのことを知っていたら、彼女にはまだ生きる気力が残っていたでしょうが、もう家族みなが死んでしまったと思ったアンネにはもう希望がなく、生きている気力が失せてしまったのでした。  希望、というものがあるかないかで人が生きる気力を保てるかどうかさえ決まってしまうということを示す一つの実例です。希望には小さいものから大きいものまであります。たとえば、懸賞で賞品が当たることを期待して、希望の品を書いてはがきを出すという時、もしかしたらほしい物が当たるかもしれない、という希望を抱いて応募します。あるいは、頑張って練習すれば、何かの大会で良い成績を残せるかもしれない。そうすれば今の自分がもっと成長できると思います。しかしいくら頑張っても何も得られない、となればそこには希望はありません。  こうしてみると、人が生きていく上で必

「恵みの雨で潤したまえ」2018.5.20
  使徒言行録 1章1~11節

 教会の礼拝では、聖書が朗読され、その聖書箇所の内容に基づいて説教をします。説教とは、神の御言葉である聖書の内容を説き明かし、礼拝に集っておられる会衆の方々に、今日神は何を語っておられるのか、と語るものです。その説教には毎週題が付けられますが、聖書の言葉をそのままつけたり、神からの語りかけの形でつけたり、聖書の示す真理とか事実とかをつけたりします。そういう中で時には、私たち人間からの言葉という形を取ってつける場合もあります。今日の説教の題は、その最後の形を取っています。「恵みの雨で潤したまえ」とは、私たちが神に向かって呼びかけている形です。この題は、今日この後に歌う讃美歌の歌詞から取られています。343番の3節の歌詞に「聖霊よ、降りて かわける心 めぐみの雨にて 潤したまえ。」とあります。恵みの雨とは何か。どのように潤していただけるのか。そのことを、聖書を通して教えていただきたいと願っています。 1.教会に降られる聖霊  「恵みの雨で潤したまえ」とは詩的な表現です。「雨」と、「潤す」とは、共に比喩で語られています。先ほどの讃美歌の歌詞では、恵みの雨とは、聖霊が降られることによって与えられる、ということはわかります。聖霊、とは神の霊のことです。神はもともと体を持たない霊であられます。しかしその神の内には聖霊と呼ばれる方がおられ、キリスト教会がこの世に姿を現した紀元1世紀に教会に降られました。それによって、キリスト教会は力を得て、世界中にイエス・キリストのことを告げ知らせてきました。先ほど朗読しました、使徒言行録の1章8節に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われていたのがそれです。 実は今日は、キリスト教会の暦では、聖霊が最初に教会に降られたことを記念する、年に一度の日となっています。ペンテコステ(聖霊降臨日)と言います。そのことを覚えつつ、私たちに与えられる恵みの雨について、聖書の教えを聞きましょう。  聖霊は教会に降られたのですが、聖霊は教会という人の集まり、つまり団体に降られて個人は関係ないということではありません。一人一人に聖霊の恵みは与えられます。聖霊が教会に降られて働かれるのは、例えば今こうして私たちが教会の礼拝に集まっ

「聖なる公同の教会を信ず」2018.4.29
  エフェソ 1章15~23節

 先週の主日礼拝において、私たちは、日本キリスト改革派教会の大会創立記念献金を礼拝席上献金として献げました。それは、私たちの改革派教会の大会が1946年4月28日から29日にかけて行われたことを記念しているからです。毎年、4月の第4週にこの記念献金を献げています。今日は、それを心に留めつつ、「教会」について、神の御言葉に聞きたいと思っています。そしてそこから、今日も礼拝で唱えましたように、「使徒信条」の中で言われている「教会」についての告白に目を留め、そこで言われていることの意味を学びたいと願っています。 1.教会を信ず  私たちが毎週礼拝で唱えている「使徒信条」は、イエス・キリストの使徒たちが原作者であると伝えられてはいましたが、最も古い原型は、紀元二世紀ではないかとされています。その後数世紀にわたって受け継がれ、八世紀  頃に今日の本文ができました。世界中のキリスト教会が受け入れている世界教会信条の一つです。  使徒信条は、原文では冒頭、「われ信ず」という言葉から始まります。そしてまず父なる神、主イエス・キリスト、そして聖霊を信ず、という告白が続きます。まず三位一体の神様への信仰が告白されるわけです。そしてその続きとして、「聖なる公同の教会、聖徒のまじわり、罪の赦し、身体のよみがえり、とこしえの命を信ず、アーメン」と締めくくられます。これらの中で、聖なる公同の教会と聖徒の交わり、この二つについても、信ず、と言われていることに注目しましょう。私たちが何かを信じるという時、例えば神を信じる、といえばその存在をまず信じます。そして神に信頼する、より頼む、という面もあります。神を信じる、キリストを信じる、というのはごく判り易いことですが、教会を信じるとはどういうことでしょうか。  それは、教会が神の救いのご計画と恵みと力によって神の御子イエス・キリストによってこの世にもたらされた、という真理をまず信じます。先ほど朗読したエフェソの信徒への手紙1章22、23節に言われていましたように、教会とは、神がすべてのものをキリストの足の下に従わせ、それらのものの上にある頭として教会に与えられたという点に示されています。ですから、教会はその起源が人間にではなく、神にある、ということです。  ハイデルベルク信仰問答は、問54で、「『聖なる公同の教会』について、あなたは何を信