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10月, 2021の投稿を表示しています

「神の力ある言葉によって」2021.10.31
 ヘブライ人への手紙 1章1~4節

 神の御子キリストは、万物を御自分の力ある御言葉によって支えておられます。それだけではなく、天地創造にも携わられました。この方が全てを力ある言葉によって支え、実現に導き保っておられます。その神の御子の力ある御言葉によって歴史の中で宗教改革も実現し、今日の私たちの教会にまで至っていることを改めて覚えたいと思います。   1.終わりの時代には御子によって語られた  私たちは、学校の歴史の授業で、現代から遡って、近代とか近世、中世、古代、という時代区分を教えられます。聖書では、旧約時代、新約時代と分けるのはもちろんですが、今日の箇所にあるように、「終わりの時代」という言い方をします。これは、神の御子イエス・キリストが旧約聖書の預言通りにこの世に到来されて、救いの御業を実現されてから後の時代のことを指します。つまり、新約時代と同じです。それゆえ、今の時代も「終わりの時代」の中にあります。それは世界の終り、いわゆる終末が来るというその終りの日のことではなく、キリストによって救いが与えられることを教会が宣べ伝えている今の時代であり、初代教会からずっと続いています。教会史では、古代教会、中世の教会、近現代の教会という時代区分をしますが、それとは別の意味で、この現代もまた、「終わりの時代」なのです。私たちは聖書が教えているこういう時代に置かれていることを知る必要があります。  「終わりの時代」ですから、始まったばかりではなく、この世界に対する神の御計画が、終わりの段階に入っているとも言えます。神の側からの最終的な、決定的な御業はイエス・キリストの十字架と復活によって既になされました。私たち人間を罪から救い、そしてその罪を清めるために神が私たちに対してなすべきことは全てなされたのです。救い主イエスが地上で人の罪の贖いの御業を成しとげられてからは、聖霊がこの世に来られて福音宣教を教会によって始められ、現在まで続いています。イエス・キリストの十字架と復活は、罪人の救いのために、神の最終的な御業として既に成し遂げられたのです。そして今、終わりの時代に入り、聖霊によって力を与えられた教会が、その知らせを世界中に広め続けている。これが今の終わりの時代です。  そして、この終わりの時代には「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初

「羊が命を受けるため」2021.10.24
 ヨハネによる福音書 10章7~18節

 主イエス・キリストは、御自分と、御自分を信じる者たちの関係を羊飼いと羊にたとえられました。羊である信者たちは、羊飼いである主イエスの声を聞き分けてついてゆきます。今日も、今私たちがこうして聖書の御言葉に聞き、羊飼いである主イエスについて行っているのは、その現われです。   1.イエスは良い羊飼いである  主イエスは再び「はっきり言っておく」と言われます。6節までで羊飼いと羊という大事な関係のことを述べた時にも初めに言われました。今度は更にそのことを深く掘り下げたお話をされます。それだから、またよく聞きなさい、という気持ちを込めて言われるのです。今日の箇所では、羊の門とはご自分のことであると語られました。羊飼いでもあり門でもあるのです。羊飼いがイエス、羊が信じてついてゆく者たちであるという点を抑えておけばよいのです。  主イエスは「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」と言われました。主イエスより前に来た者とは、これまでにイスラエルに登場した預言者たちのことではありません。彼らは盗人や強盗であるはずがありません。預言者たちは、救い主イエスが世に現れる400年ほど前にはすでに現れなくなっていました。旧約聖書に名前を残しているそのような預言者たちではなくて、旧約聖書の最後の預言者たちの後、イエスの登場まで四百年ほどの間にいろな指導者たちがいまして、主イエスの時代まで続いてきていますが、今、イエスを受け入れずに殺そうとまでしている指導者たちがいます。恐らくそのようなユダヤ人の指導者として自他共に認めている人々のことを指していると思われます。旧約聖書に登場する預言者たちは、神の御子イエス・キリストを世にお送りくださる天の父なる神によって遣わされた人たちですから、当時の人々にはよく理解できなかったとしても、彼らは救い主なるイエスを知らせるために働きました。だから盗人でも強盗でもありません。  結局、イエスがキリスト、救い主であられることを証言しない人々は、羊の門を通って入らない盗人、強盗である、ということです。そして彼らは羊を滅ぼしてしまおうとするので、羊たちはその言うことを聞こうとはしないのです。   2.良い羊飼いは羊のために命を捨てる  しかし、主イエスは良い羊飼いとして来られました。羊が命を豊かに受けることができるためにです。今日の題は「羊が命

「羊の名を呼ぶ羊飼い」2021.10.17
ヨハネによる福音書 10章1~6節

 主イエスは、生まれつき目の見えなかった人の目を見えるようにしてあげた後、ヨハネによる福音書の中でも、大変有名な羊飼いのたとえを話されます。9章の終りで見える人と見えない人について語られましたが、それは、結局のところ主イエスにつながるかそうでないかの違いです。この10章で語られる羊と羊飼いのたとえは、そのことについて更に教えているものです。私たちはこの教えを聞くときに、私は主イエスの羊として聞いているのだろうか、どうかを問われているのです。既に主イエスを信じた者は、自分を羊に当てはめ、主イエスを羊飼いに当てはめて受け止めているわけですが、改めて、主イエスが自分の羊飼いであることを顧みる機会としたいものです。まだその信仰に至っていない方に対しても、主イエスはこの世の歩みの中で、私たちを誤りなく導いてくれる羊飼いとして語りかけ、招いておられるのです。   1.盗人か羊飼いか  主イエスがはっきり言っておく、と言われる時は、よほど大事なことを語られる時です。「よくよく言っておく」、とか「まことに、まことに、あなたがたに告げます」などと訳されます。「アーメン、アーメン、私は言う」という意味です。このたとえの内容そのものを見る前に、一つ確認しますが、このようなたとえを用いてのお話しの場合、登場する人やものについて、一つ一つあまり細かく当てはめなくてもよい、という点です。羊の囲い、門、門番、盗人や強盗、そして彼らが乗り越えてくる他の所、などなど、いちいち現実の何かに当てはめるのではなく、真の羊飼いとそうでないものとの区別を教えているということです。ただし、羊飼いは主イエスを、羊は主を信じる民のことを表すという点ははっきりしています。他のたとえ話でもそうですが、その話の中心となる教えを聞きとり、周辺でたとえられているものは、その真理を教えるための道具立ての役割を持っているに過ぎない、ということです。  今日の箇所で主イエスは、御自分のことを当てはめて語っておられませんが、7節以降ですぐにはっきりとそのことを語られます。今日の箇所では、まず羊と羊飼いのたとえによって、その間にある親密さ、非常に強いつながりを述べておられます。要するに羊は、羊飼い以外の者にはついて行かないということです。   2.羊は羊飼いの声を聞き分ける  パレスチナでは、羊たちは人の背丈くらいの高さの石

「主の御前に清められる恵み」2021.10.10
 レビ記16章29~34節

 旧約聖書レビ記は、特に主なる神がモーセを通して与えられた律法の内容が初めから終わりまで一貫して語られます。そのため、イスラエルの人々の生活全般にわたる規範となるものです。大変細かい掟や規則が列挙されていますので、初めて読む時には、少々忍耐が必要かもしれません。しかし、このレビ記があるからこそ、今私たちに与えられている救い主イエス・キリストの十字架の死の意味がわかるのです。この書物がなかったら、主エスの十字架の死による罪の贖いの意味が私たちにはよくわからなくなってしまいます。そういう意味でこの書物によって、わたしたちは旧約聖書、新約聖書を通じて一貫している神様の救いの御計画と、その筋道立った教えの内容を悟らせていただけるのです。イエス・キリストというお方がこの世に登場されたのは、たまたまの出来事ではなく、主イエス・キリストがお生まれになるはるか昔から計画されていたことで、それを満たすため(実現するため)だったとわかります。   1.不変の定め  この16章では、新共同訳の見出しにあるように贖罪日について書かれています。年に一度、イスラエルのすべての人のために行われる罪の贖いのための儀式についてです。ここでは、まず大祭司の職務の重要さが示されています。16章の冒頭に、アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件、というのがありますが、これは10章に書かれていました事件です。祭司は世襲制ですから、アロンの二人の息子も祭司でしたが、規定に反した炭火の上に香をたいて主の御前に献げたために厳しい裁きを受け、二人は主の御前に死にました。これだけみると何と厳しい裁きかと思うのですが、10章の9節を見ますと主はアロンに対して、「あなたであれあなたの子らであれ、臨在の幕屋に入るときは、ぶどう酒や強い酒を飲むな。死を招かないためである」と命じられていますから、もしかするとアロンの二人の息子は祭司でありながら酒に酔った状態で務めを行い、それで規定に反した炭火を用いてしまったのかもしれません。そうであれば、私たちの受け取り方もまた違ってくるでしょう。主の前に重要な祭司の務めを軽んじたための罰であったと思われるからです。  祭司たちも神の前に罪人であるには違いないので、罪の贖いの儀式をするためにはまず自分たちの罪の贖いをしなければなりません。そのための守るべき規定がここに記され

「主よ、信じます」2021.10.3
 ヨハネによる福音書 9章35~41節

 生まれつき目の見えなかった人が、主イエスによって目を開かれ見えるようになりました。この人は、単に視力を与えられただけではなく、自分の目を開けてくれた方が、神のもとから来られた方である、という確信を与えられました。それは、周りの人が何を言おうと、確かに自分の目を開けてくださったのであり、この事実は誰も曲げることができない、という強い確信があったからでした。私たちは、自分に確かに与えられたものについては、どんな科学的証拠を出せとか、論理的に十分な説明をせよ、と迫られたとしても、確信をもって語ることができます。私たちはこの目の見えなかった人に起こったことから、そのことを学びました。   1.その方を信じたい  しかしこの人の態度が気に食わなかったファリサイ派の人々は、彼を追い出します。目を開けてくれた方は神のもとから来られた方だ、という言葉が、ファリサイ派の人たちには受け入れがたいものだったのです。しかし、追い出された彼の前に主イエスが来てくださいました。この世の指導者たち、多くの人々が認めている権力や権威、そのような者によって追い出されたことによって、却ってこの人は主イエスに出会う機会を与えられました。  主イエスとこの人のやり取りは、これだけ見ていると目の見えなかった人が見えるようにしていただき、そして主イエスを信じるようになった経過を、圧縮して語っているように見えます。主イエスは「あなたは人の子を信じるか」といきなり聞かれます。するとこの人は「それはどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と答えます。人の子という言い方は、主イエスが御自身のことを言われる時に使われる独特の表現です。旧約聖書の終り頃の時代では、人の子のようなもの、としてダニエル書に登場しますが、それはやがて天から来られるメシア=キリストを表すものです。ただ単に人間という意味ではなくそれ以上の、特別な存在としての意味があります。主イエスとこの人の間にも、そういう意味での人の子を信じるかという問答が成り立っていたとみることができます。  彼は、自分の目を開けてくれた方を信じたい、と言っています。彼の中では自分の目を開けてくださった方こそその方に違いないという思いがあって、今や目の前に現れてくださった方がその方だ、という確信に至ったのでした。  彼は、目の前に現れた主イエスを見て、そのイエスか